6.キャットニップ
ペリドットの教え子となってから数年の月日が経つ頃には、的当てではなく実際に狩りに同行したり、単独で狩りをしたりするようになっていた。
と言っても、相手は魔物ではない。
鹿や山鳥といった獲物や、里の人々に依頼されて行う猛獣狩りなどである。
通常の獣相手ならば、私とアンバーだけに任せる事すらあった。
それだけ、私たちはペリドットから見ても順調に成長していたのだ。
だが、私たちが持たされる武器は弓や猟銃であったし、近隣の里や組合を通しての魔物狩りの依頼が舞い込んできた場合は、ペリドットは私たちを決して連れて行こうとしなかった。
組合の仕事に同行できるのは正式に登録された狩人だけであるから仕方がないにせよ、近隣の里からの直接の依頼であればそういう規約もないはずだ。
それでも、ペリドットは慎重だった。
アンバーにいくら縋られても、きちんと段階を踏まないうちはダメだときっぱり断り、私ともども留守番を命じたのだった。
その日もまたペリドットは組合の依頼のために留守をしていた日だった。
外は春雨の影響で薄暗い。
気晴らしに狩りに行く事も出来ず、私は静かに茶を沸かしていた。
「魔物を狩る資格ねぇ……」
一階の居間のソファでふて寝をしながらアンバーは言った。
彼女もまた気晴らしが出来ずにずっと不機嫌そうだった。
少なくとも明後日の昼頃までは二人きりなわけだ。
満月の日も近く、ただでさえ神経質になっている彼女の機嫌を少しでも取りたい私の小さな努力は、言われなくともコップを二つ用意することだった。
「巨熊すらたった一人で仕留めた私に一体何が足りないのやら」
唸りながらそう言うアンバーは、人の姿をしていても狼のように見えてならなかった。
下手なことを言うのも不味いと判断し、沸いたばかりの茶をコップに注ぐ。
静かに運んでいくと、アンバーはくんくんと猟犬のように匂いを嗅ぎながら訊ねてきた。
「これって何のお茶?」
「ハーブティーだよ。飲んでみてのお楽しみ」
そう言って手渡すと、アンバーは首を傾げながら考え込んだ。
その様子を眺めながら静かに飲んでいると、心が少しだけ落ち着いた。
アンバーほどではないが、落ち込んでいるのは私だって同じだ。
私だって狩りの腕は安定している。
獣を狩る際は同行を許されるし、一人で立派な鹿を狩った事がある。
熊はさすがにアンバーと協力したことしかなかったが、足を引っ張るという事はないはずだ。
それでも、まだ足りないらしい。
まだまだ努力不足なのか、それとも私には適性がないのか。
静かに悩んでいると、アンバーが騒々しい声をあげた。
「分かった、キャットニップだ!」
そう言って、ようやく口をつけた。
ごくりと飲み込むと、先ほどまでとは打って変わって機嫌の良さそうな笑みを向けてきた。
「ふふん、大当たり」
「さすがだね。味はどう?」
「いい感じ。それにしても、キャットニップか。なかなかいいな。今度見つけたら薬でも作ってみようかな」
「自分用に?」
「いや、どちらかと言えば狩猟用かな。キャットニップが通用するタイプの獣や魔物はいるだろう? たとえば人狼なんかもそうだ。同族相手はやっぱりちょっと怖いからね、場合によっては交渉用の道具にもなりそうだ」
「それって大丈夫なの? 自分で使って自滅したりしない?」
揶揄い半分でそう言ったものの、アンバーは落ち着いた様子で答えた。
「大丈夫。化け猫だったらそういう事もあるかもだけど、アタシは人狼だし」
「そう……。なら、やってみたらいいよ。せっかく薬の調合が得意なんだしさ」
褒めながらも、私は心の何処かでため息を吐いた。
そこもまたアンバーに敵わない点で、秘かに嫉妬している点である。
その鬱憤をいちいち表に出して敵対心を露わにするようなことはなかったけれど、だからと言って全ての負の感情が消え去るわけではない。
だが、今だけはこのハーブティーが気持ちを落ち着かせてくれた。
「私も一緒に練習してみようかな。君を見習って」
冗談交じりにそう言うと、アンバーは眉を顰めた。
「ダメダメ。一緒はダメだよ」
「え、なんで?」
「薬のレシピは秘密だからさ。師匠にだって見せてない試作品がいくつかあるんだ。いくらカッライスだからって完成までは見せられないよ」
ちなみに、この当時のアンバーの実験室は、少し前まで隔離部屋として使われていたあの小部屋だった。
アンバーも成長してくると心身も安定したため隔離は必要なくなり、満月の日も同室で過ごすようになっていたのだが、この小部屋には様々な思い入れがあったらしい。
二人してあの家を出る直前まで、私物を色々と持ち込んで好んで使っていたのを覚えている。
本を読みこんだアンバーが発明した数々の調合薬の貯蔵室としても使われていた。
「ケチ。ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃない」
軽口を叩く私に対し、アンバーはふんぞり返る。
「悔しかったらあんたも研究するんだね。それでも無理なら、盗んで覚えてみるんだ」
「盗んで覚える、か」
その言葉を繰り返し、私は再びハーブティーの味に逃げた。
魔物を狩る資格とやらも、そうなのだろうか。
段階を踏んでとペリドットは言っていたが、どうもそれだけではないような気がしてならなかった。
何か彼女を納得させられるものがあれば、状況は変わりそうなものなのだけれど。
悩みが静かに積もっていく中、目の前でアンバーもまた大きなため息を吐いた。
「……にしてもさぁ、子供の時よりずっと動けるようになってもダメ。熊を仕留めてもダメ。薬をいっぱい作れるようになってもダメだなんて、あとはどうすりゃいいのよ。カッライスはともかく、どう考えてもアタシはもう十分働けるはずなのにさ!」
どうやらキャットニップの量は足りなかったらしい。
アンバーの不機嫌さも相当だったが、私も同じだった。
カッライスならともかく。
その言葉にかちんと来てしまい、表情には出さずともちくちくとした言葉がするりと口から零れてしまった。
「師匠からすれば、私も君もそう変わらないお子様なんだろうね」
自虐を含めた言い様だったが、プライドの高いアンバーをムッとさせるには十分だった。
飲みかけたコップをさり気なく机に置くと、彼女は音もなく立ち上がって、私のすぐそばまでやってきた。
言葉にできない殺気を感じ、私もまたコップを机に置くと、すぐに狩りの時のように神経を尖らせた。
そして、彼女の手が動くと同時に防御の姿勢を取り、そのまま距離を取ろうと動いた──つもりだったのだが、アンバーのフェイントにかかり、まんまと捕獲されてしまった。
「そう変わらないお子様ねぇ」
アンバーはそう言って、私の腕を掴みあげた。
その強い力に怯んでいるうちに、先ほどまで彼女がふて寝をしていたソファへと投げ飛ばされる。
すぐに立ち上がろうとしたものの、上から圧し掛かられてしまい、身動きがとれなくなった。完敗だった。
「言っとくけど、前みたいな手段は通用しないよ」
アンバーは言った。
「あんたの降参は降参じゃないからね。さて、近くにロープはあったかな」
「そこまでする必要はないよ。私が悪かった。君の勝ちだ」
「狩りの終わりは獲物の謝罪じゃない。獲物を仕留めてやらないと」
解放してくれる様子が全くないアンバーに、私は半ば呆れながら言った。
「どうするつもりなの? まさか昔みたいに捕食ごっこでもするつもり?」
すると、アンバーはじっと私の顔を覗き込んできた。
狼らしいその琥珀色の目に見つめられ、私は内心、昨晩の月の形を思い出そうとしてしまった。
満月の日まではまだ日数があるはず。
そんな事を考えてしまうほど、その時のアンバーは野性的だった。
「こうやって抑えていると、本当に狩りをしているみたいだ」
「おい、アンバー?」
「ちょっと前にさ、アタシ、満月の日に外に出て狩りをしてみた事があったじゃん。師匠には里の人間に見られるかもしれないからっていい顔をされなかったんだけど、それはそれとしてすっごい楽しかったんだ。あの時に仕留めたのが若い雌鹿でね。ちょうどあんたみたいな大きさで、肉もこんな感じで」
「妙な冗談はやめてよ」
今となっては恥ずかしいことだが必死に訴えてしまった。
冗談が冗談に思えないのがアンバーだ。
捕食ごっこなんて言っている時も、たまに、本気になりかけているのではないかと疑ってしまう事がある。
この時もそうだった。
「そろそろいいだろう。放してよ」
すると、アンバーはさらに顔を近づけてきて、突然、私の唇を奪ってきた。
思わぬ事をされて、私は固まってしまった。
それまで、挨拶代わりに頬に口づけをされたことは何度もあった。
遡ればルージュに同じことをされたこともある。
だが、唇を奪われるなんて機会は記憶にある限り全くなかった。
そして、世間をさほど知らない私たちであっても、家に置かれていた多種多様な書籍のお陰もあり、これをするのがどういう関係にある者なのかもとうに理解していた。
なぜ、アンバーが私に。
そんな疑問が真っ先に浮かんだ直後、じわじわと抵抗する気力が失われていった。
この時、アンバーに唇を奪われたことで生じたのは、戸惑いだけではなかったのだ。
しばらくして、我に返ったアンバーが唇をそっと放した。
何も言わず、じっと私を見つめている。
その目に捉われかけて、私もまたようやく我に返った。
体が解放されている事に気づき、私はすぐに起き上がった。
何を言うべきか分からず黙っていると、アンバーが雨だれのようにぽつりと言葉を漏らした。
「雨、なかなか止まないね」
その言葉に私はぎこちなく肯いて、何事もなかったように席へと戻った。