3.黒猫の目覚まし
ダイアナがやって来たのは、それから数時間後──夜明け前のことだった。
まだ暗いせいもあっただろう。
カーテンの締まる向こう側よりいつものように窓をひっかく音がして、私は目を覚ました。
しばらく眠気が完全に覚めない状態で、それでも起き上がれた理由はきっと、新しい情報への期待があったからかもしれない。
寝惚けているアンバーの腕を抜けだし、床に落ちていた寝巻を拾い上げて素早く着なおすと、恐る恐るカーテンを開ける。
すると、目を光らせながらこちらを見つめてくる黒猫はそこにいた。
窓を開けると、猫はひょいと入ってきた。
床に着地して、うんと伸びをする彼女に私は声をかけた。
「ダイアナ、おはよう」
すると、猫──ダイアナはこちらを振り返り、目を細めてから私の傍のテーブルの上へと飛び乗った。
「おはよう、カッライス。ちゃんと起きてくれて安心したわ」
「勿論さ。君が来る時間をずっと待っていたから」
「そう、それはよかった」
そう言って、ダイアナは再びテーブルを降りると、いまだ眠っているアンバーのもとへと駆け寄り、その枕元へと飛び乗った。
そして、ベッドの中を覗き込むと、猫ながら呆れたような顔で首を振ったのだった。
「どっかの誰かさんと違って、カッライスはちゃんとしているわね」
と、その時だった。
そのどっかの誰かさんが突然むくりと起き上がり、傍にいたダイアナを捕まえたのだ。
「きゃっ──」
「誰が、なんだって?」
ガシっと猫の姿のダイアナを捕まえてしまうと、強引に撫で始めた。
「ちょ、ちょっとやめなさい! あ、なんかお酒臭い!」
「そんなはずないだろう。そんなに飲んでないんだから」
「でも、確かに臭う! お酒っていうか、何かしら、この臭い」
と、不思議がるダイアナを見て、私はふと昨晩の事を思い出して居たたまれない気持ちになった。
マタタビ酒のせいだと信じたいが、昨晩の私はまさに発情した雌猫のようだった。
むしろ、アンバーがいつも通りなのは何故だったのか不思議なくらい、その効力を実感したわけだが、やはり残り香があるのかもしれない。
ぴょんっとアンバーの腕を抜けて、ダイアナは毛布の上へと逃れる。
背中を向けて尻尾をあげるダイアナに、アンバーはめげずに手を伸ばした。
「ほうら、あんたもこれが好きなんだろう」
そう言ってアンバーは、ダイアナのしっぽの付け根をトントンし始めた。
「あっ、ちょっ、ちょっと、ちょっとやめ──ああっ」
好きかどうかはともかくとして、効果は絶大だったらしい。
ダイアナはそのままお尻を上げるような体勢になり、しばらくトントンされてからハッと我に返ったように、アンバーを振り返り、引っ掻こうとした。
「おっと、危ない」
「 『危ない』じゃない! 大人しく引っ掻かれなさい!」
「いいじゃんか。好きなんだろう?」
「あのね、突然のお尻トントンは猫界だと失礼にあたる行為なのよ。こっちがやってって言ってからやらないといけないの。お分かり?」
「なんだそれ。町の野良猫たちはそんなルール言った事ないけど?」
呆れるアンバーに対し、私はふと気になって問いかけた。
「野良猫の言葉が分かるの?」
「まあ、分かんないんだけどさ」
照れ臭そうにそう言う彼女を、ダイアナは心底軽蔑したような眼差しで見上げた。
「罪作りな人ね。そうやって同意のないまま、手癖の悪いまま、行く先々で会った猫たちに無責任にトントンしていったのね。ああ、なんて可哀想なのかしら。きっと今頃、あなたの手を忘れられなくてお尻をむずむずさせているに違いないわ」
「なんだ? 時々してやろうか?」
身構えるアンバーを警戒し、ダイアナは私のもとまで逃げてきた。
「ケダモノの相手をしていたら時間がいくらあっても足りないわ。それよりも、カッライス。そろそろお仕事と行きましょうか」
見上げてくる彼女に、私はこくりと頷いた。
「ルージュの情報はある?」
問いかけると、ダイアナは猫の姿のまま立ち上がり、器用に腕を組むような仕草をした。
「心配しないで。ちゃんとあるわ」
「ルージュはまだこの町にいるんだよね?」
「ええ、勿論。ただ、彼女の滞在している場所はなかなか入れないでしょうね。アヴァロンっていう、この町、屈指の高級酒場があるのだけれど、そこの宿泊施設に滞在しているの。お察しかもしれないけれど、経営はアトランティスと同じ、ミエールグループよ」
「ミエールグループ、かぁ」
アンバーが離れた場所から呟いた。
名前から察せる通り、ミエール城およびそこの城主であるハニーが代表を務める組織である。
高級ホテルのアトランティスだけでなく、各地で何かしら営んでいるらしい。
「ハニーが手配しているのでしょうね」
ダイアナは言った。
「ルージュはそこで身を隠して、時折、酒場に現れるみたいなの。身を隠している間については、残念だけど、あたしもちゃんと確認できていないわ。猫の子一匹通さないような警備があって、入ろうとしたらすぐに捕まっちゃうのよ。警備員のおじさまはいつも紳士的だから好きだけど、これじゃお仕事にならないわね」
「いいなぁ、金持ちに気に入られてさ。こんな安いベッドとは違うんだろうなぁ」
大の字になって寝そべるアンバーをダイアナは呆れたように一瞥した。
だが、すぐに私へと視線を戻し、囁いてきた。
「これだけは確かよ。ルージュはここへきて、まだ一度も狩りをしていないの。狩りをしに行くのかと思ったら、酒場でワインを飲んでいるだけ。あたしが見ていない間、ってこともないと思う。もっとも、身を潜めている宿に、誰かが生餌になるような人が閉じ込められているっていうのなら話は別だけどね」
あり得ないことではない。
だが、そんな事があれば、さすがに何処からか噂は漏れるものだろう。
ハニーが深く関わる施設とはいえ、そこで働く人の大半はただの人間のはずだ。
ただの人間──それも多数の人々の口を自在に操れる魔物というものは少ない。
吸血鬼には妖しい力がたくさんあるが、ルージュにだってさすがにそこまでは出来ないだろう。
「食べていないのかも」
私はぽつりと言った。
「思い返せば、小さい頃に、そういう日があった。一か月くらい? ルージュはご飯の時にワインしか飲まないんだ。それが何故なのかは教えてくれなかったけれどね」
けれど、ペリドットのもとで学んだ際、私は吸血鬼の生態を知る事となった。
吸血鬼は時に、気まぐれでそういう事をする場合があるという。
特にご馳走を頂く前は、敢えて絶食をして、心の底から楽しもうとするらしい。
ルージュもそうだったのかもしれない。
幼い私の目の前で、恐ろしい光景が広がったことは一度もなかったが、思い返せば、彼女のもとにはたくさんの知らない客人が訪れていた。
だが、その中で、何度も目にする機会があったのはハニーを含む数名だけ。
大半は一度見たきりで、いつ帰ったかも分からない。
思えば、あの人々が訪れる前に、ルージュはよく絶食をしていた。
「吸血鬼の断食か。そりゃ不吉だな」
大の字になったまま、アンバーが言った。
「とっておきの獲物の味を楽しむためなんだろう。何を企んでいるかは知らないけど、放っておいていいはずがない」
「そうね」
ダイアナは頷いた。
「その獲物が誰なのかは分からないけれど、いずれにせよ、彼女の計画が進む前に止めるべきではあるでしょうね」
行かない理由なんて何処にもない。
アヴァロン。
窓から外を眺めながら、その位置を軽く確かめた。
ここからでもその建物はちらりと見える。
大きなリンゴの像がシンボルの店で、言われてみればアトランティスと何処か雰囲気が似ている。
「さてと、情報はしっかり渡せたわよね。となると、お代の方だけど」
そわそわしだすダイアナを抱き上げると、ダイアナは脱力した状態で私に言った。
「約束は覚えているわよね。マタタビ酒のお値段」
「そのマタタビ酒の事なんだけどさ」
「うん?」
「悪いことは言わない。あれは、やめておいた方がいいよ」
考えてみれば当たり前の事なのだが、その忠告は彼女の機嫌をだいぶ損ねてしまった。