2.マタタビ酒の残り香
明日の朝、ダイアナに会えたならば言いたいことがある。
マタタビ酒はやめた方がいい。
何せ、猫じゃない私がこうなってしまうのだ。
彼女が飲んだらどうなってしまうことか。
想像するだけでも心配になってしまう。
しかし、今は他人の心配をしている場合でもなかった。
散々、欲望に対して素直になってしまった後でもマタタビ酒の残り香に悩まされ続けていた。
さすがにもう、これ以上楽しもうものなら、明日に響くだろう。
そう自分を落ち着かせつつ、私は裸のまま毛布の中でアンバーに身を寄せてじっとしていた。
アンバーは時折、鼾をかきつつ、ふと目を覚まして周囲をちらりと見つめている。
それが何度か続いたので、私はふと彼女に声をかけた。
「……誰かいるの?」
囁いてみると、アンバーは答える代わりに私の背中に腕を回してきた。
「何でもないよ」
誤魔化されたことがすぐに分かる。
「何でもなくないでしょう。……ルージュがいたの?」
その名を口にした瞬間、私は急に怯えを感じた。
毛布の中にうずくまり、外から姿が見えないように努めてしまう。
アンバーに身をゆだねているこの状況が、大罪であるように思えてならなかったのだ。
きっとこれは、ルージュがかけた呪いのせいなのだろう。
私を咎めるように痛む首筋の傷跡がその根拠でもある。
アンバーは答える代わりに今度はため息を吐いた。
だが、私がぎゅっと彼女の服を掴むと、根負けしたように答えてくれた。
「ああ、確かにいたよ。でも、今は違うようだ。ネズミかなんかだろう」
「ルージュはもういない?」
「いないよ。アタシが睨んでやったからね。あんたを物欲しそうに見ていたんだよ。血が欲しかったのかもね。だから、笑ってやったんだ。いいだろうって」
「……きっと怒っているだろうね」
「そんなの今更でしょ。それよりもさ、どうだった? マタタビ酒は?」
どこか苛立った様子で問いかけられて、私は困惑しつつ目を逸らした。
「どうだった……って。もう十分理解できたんじゃない?」
有耶無耶にしようとしたものの、アンバーはそれを許さなかった。
「言葉で教えてくれないとねえ。後学のためにも教えてくれなきゃ」
「後学って……何の?」
「ほら、薬作りとかの役に立つかもしれないでしょ」
にやりと笑いながらアンバーは言う。
そんな彼女の顔をちらりと見つめつつ、私は小さく唸る事しか出来なかった。
正直に言うのは恥ずかしい。
そのくらいの変化はあった。
アンバーだって、存分に観察して分かっただろうに。
「アンバーも同じやつ飲んだんでしょ。自分で分からないの?」
「アタシが分かるのは、人狼の女性にとっての効果だけ。人間の女性にとってどうなのかはカッライスに聞かないとねえ」
「うーん……」
悪い狼に騙されているような気分になりながらも、私はうまい逃げ道を探しながらどうにか答えた。
「一つ言えることがあるとすれば、あのお酒をダイアナに飲ませるのはちょっと危険かもってことかな」
すると、アンバーはくすりと笑った。
「確かにね。猫じゃないはずのあんたが、ああなっちゃうんだものなぁ。媚薬としての効果は絶大みたいだ」
「……ねえ、アンバー。君は平気なの?」
「平気? うーん、どうだろう。確かにいい味だったし、楽しい気分にはなったけど。そのくらいかなぁ」
「なんで? 君の方が私よりも効きそうなものなのに」
「なんでだろうね。個人差ってやつじゃない? あんたは酒にもあんま強くないもんな。だからまあ、この町があんたにとってつまんないってのも分かるんだ。アタシは楽しいけど、さっさと次の町に行きたいって思っているよ。というか、今さっき思った」
吐き捨てるように言うアンバーに、私はそっと問いかけた。
「それって、ルージュのせい?」
すると、アンバーはこくりと頷いた。
「奴は間違いなくこの町にいるよ。じゃないと、あれだけはっきりと気配を感じることもないだろう。吸血鬼ってのは確かに遠く離れた場所へ意識だけ飛ばせるらしいんだけど、それも限界があるらしいから」
「やっぱり」
ぎゅっとアンバーの服を握る私に、アンバーはそっと囁きかけてきた。
「焦っちゃ駄目だよ。焦りは敗北の原因となる」
「でも……今のルージュは、弱っているんだ。もたもたしていると、私以外の誰かに先越されるかもしれない」
「……なるほど、そう言う事ね」
アンバーはため息を吐くと、不意に体勢を変えた。
私の体の上に圧し掛かると、獣のように目を光らせ、じっと見下ろしてきた。
一瞬、何が起きたか分からず、私は茫然としてしまった。
だが、勝ち誇ったようなアンバーの表情に気づき、慌てて藻掻いた。
狩りごっこだ。
幼い頃の私たちが何度もしたあの遊び。
当然ながら、拘束からは抜け出せない。
裸のまま虚しく組み敷かれ、私はただただ項垂れる事しか出来なかった。
「油断したね、カッライス」
囁かれ、私は静かに返した。
「負けを認めるよ。だから、放してよ」
「いいや。まだ終わりじゃないよ。魔物の世界では、ここから本番だ。敗北した者は悲鳴をあげ、この世に生まれた事を呪いながら命を貪られていくのさ。アタシがその気になれば、あんただってそうやって死ぬことになる」
「……何が言いたいのさ」
「奴を甘く見るな」
脅すようなその眼差しを、私は直視できなかった。
怖い。
認めたくないが、この時のアンバーに対して確かにそう思ったのだ。
衣服を剥がれた状態ならば、すぐにでも腸を食いちぎられてしまうだろう。
その心細さも手伝ってか、この時の彼女に腹部を触れられることが非常に怖かった。
そんな私の怯えを肌で感じ取ったのか、アンバーは小さく笑ってみせた。
まるで獲物が震えている事を楽しんでいるかのように。
それでも、私は唇を噛みしめた。
頑固な性分のせいだろう。
素直にアンバーの忠告を受け止める事が難しかった。
「あんたがとんだ負けず嫌いって事は良く知っているよ」
やがて、アンバーは静かに言った。
「それに視野は狭いし、自分の弱さをちゃんと分かっていない。いつも言っているだろう。アタシが相手であっても油断してはいけないんだって。魔物を信じちゃいけないんだよ。だから、マタタビ酒なんて飲まされちゃうわけ」
「ルージュが相手ならそうはならない。君だから許しているだけだ」
反論する私の体を、アンバーはなぞっていった。
「アタシだから、か」
そして彼女は私の腹部に唇をつけた。
恐怖心と快楽が同時に生まれ、寒気が生まれた。
内臓の詰まるその場所に触れられる不安。
けれどそれもまた、アンバーが相手だからこそ、我慢することができた。
じっとする私の肌から唇を離し、アンバーはふと呟いた。
「それって、あんたの本心なのかな」
「……どういうこと?」
「アタシのかけた、おまじないのせいじゃないのかって事。今のあんたの主人はアタシだ。常に最後の相手であり続ければ、その術は解かれずに済む。でもそれって、結局はまやかしなんじゃないかって」
妙に冷めたその声に、私は一気に不安を覚えた。
「まやかしなんかじゃ……ないよ。だって、私は」
「どっちだっていいさ。アタシが欲しかったから、そうした。それでいいんだ。でもね、そうだとすれば、あまりあんたを信用できないのも確かだ」
「アンバー……?」
不安になってその顔を窺うと、アンバーは人間らしくないその目で私を見つめてきた。
「この術を奴に破られたらどうなるのか、いつも不安になる」
アンバーは言った。
「術を破る事自体は簡単だ。奴ならば、誰か人を雇ってあんたを襲わせることだってするだろうさ。それで、もし、そうなってしまった時、アタシとあんたの関係がどう変わってしまうのか、不安なんだ」
淡々としているものの、寂しそうな声だった。
私はそっとその手を掴み、訴えかけた。
「……約束する。絶対に油断しないよ」
すると、アンバーもまた強く手を握ってきた。
「絶対だよ」
その後、彼女が再び唇を重ねてくると、消えかけてきたマタタビ酒の残り香に、再び心が浸され始めた。
そんな私の心身の火照りに気づいたのだろう。
アンバーは目を細めると、耳元でそっと囁いた。
「どうしても眠れないのなら、いつものように疲れさせてやるよ」




