11.解放された魔女
この大地の繋がる何処かに、魔女の隠れ里があるという話を聞いたのは、いつの事だっただろう。
ペリドットの家で学んだ地理の本には記されていなかったし、組合に来る依頼や関わった事のある旅人たちが口にする各地域の話にも、その具体的な地名を目にしたり、耳にしたりすることはなかった。
それでも、そういう場所があるのだという話は、この時までに聞いたことがあるものだったし、何となくではあるが、その存在を信じていたりもしたのだ。
だが、実際にその地の出身だという者が目の前に現れると、本当にあったのかという驚きを感じずにはいられなかった。
疑う余地などないが、ダイアナは正真正銘の魔女だった。
隠れ里で生まれ育ち、成人の秘儀により彼女らの信仰する神との契りを結んでからは、一人前の魔女になるべく里を出て修行の旅をしていたそうだ。
そして、その道半ばで運悪くルージュたちに捕まってしまったらしい。
魔力を自在に操る魔女を捕らえるのはそう簡単なことではない。
けれど、魔女としてまだまだ未熟であったダイアナは拘束されてしまった。
それを可能にしたものこそが、私が抜いてやったあの指輪だったらしい。
「助かったわ」
月明かりの中、遠くにそびえるミエール城を眺めながら、ダイアナは言った。
場所はミエール城と組合の拠点のちょうど間に位置する高台。
木々に囲まれた密やかなその地に、ダイアナの魔法が私たちを運んでくれた。
追手の気配はない。
ハニーも、ハニーの手下も、そしてルージュも、まだあの城の中にいるのだろう。
「カッライスがこれを取ってくれたから、あの場を切り抜ける事が出来た」
そう言ってダイアナは、私たちに向かってあの指輪を見せてくれた。
何の変哲もない古びた指輪に見えるが、聞かされた話のせいだろう。
急に禍々しいものに見えてしまった。
ダイアナは指輪をぎゅっと握り締めると、そのまま懐にしまい込んだ。
「なんなんだよ、その指輪は」
アンバーの問いに、ダイアナは答える。
「これは、元からあたしのものなの。故郷を旅立つ際に、里長から渡されたものよ。詳しくは部外者に話すことなんて出来ないのだけれど、魔女にとってのアキレス腱みたいなものなのよ。それをまんまと奪われてしまって、悪用されてしまったってわけ」
「悪用?」
私の問いに、ダイアナは俯きがちに頷いた。
「吸血鬼の怪しげな術で、拘束具にされてしまっていたの。指輪をはめたままでは、逆らう事は出来なかったでしょうね。あの術は、誰でも解けるわけじゃなかったのよ。他ならぬあなたが協力してくれたから、あたしは助かったの」
「私がいたから? それってどういうこと?」
すると、ダイアナは躊躇いつつも答えてくれた。
「吸血鬼が特定の人を支配下に置けることは、あなた達も知っているわね。カッライス、あなたはその術で囚われてしまっている。二度と解除できない呪いでもあるわ。でも、それってつまり、それだけあなたは術をかけた吸血鬼に近い存在になってしまっているということでもある」
「カッライスが?」
疑うようにアンバーが繰り返す。
その表情に不満を感じたのか、ダイアナは唇を少しだけ尖らせた。
「あのね、あたしだって吸血鬼にとっても詳しいわけじゃないわ。それでも、あなた達よりもちょっとは詳しいはずよ。ちょっとの間ではあったけれど、あの人の身近な場所で過ごしたのだもの」
そう言ってダイアナは身震いした。
「とにかく、カッライス。ルージュに囚われているあなただから、あたしの指輪を外すことが出来たってわけ。あの時、あなたがいなかったら、ちょっとでも指輪を外すのが遅れていたら、きっとあたし達は皆、助からなかった」
助からなかった。
そこには、ダイアナを救うという選択をしなかった場合の未来も含まれるはずだ。
どの道、あのままでは、私はハニーに囚われ、アンバーは毛皮にされていただろう。
二人でどうにか脱出することも出来たかもしれないが、ダイアナのように一瞬で逃げ出すことなんて不可能だっただろう。
お陰で城に持ち込んだ荷物は置き去りとなってしまったが、そこは他ならぬダイアナの助言が役に立った。
「ま、つまり、カッライスはあんたの命の恩人って事だ」
アンバーはそう言うと、悪い狼のような不敵な笑みを浮かべ、ダイアナを見下ろした。
「ってことはさぁ、それなりの謝礼ってもんがあってもいいよなぁ?」
「アンバー……」
思わず咎めてしまったが、ダイアナは張り合うように彼女を見上げた。
「勿論。そうしなければ、魔女の名が廃るってものよ。と言っても、お金なんてものはないわ。あたしに出来るお礼と言えば、これくらいのものでしょうね」
そう言って、ダイアナは突然その姿を変えてしまった。
すでに何度か目にした黒猫の姿となり、何処か煽るような視線でアンバーを見上げた。
アンバーもその視線の中に含まれる挑発に気づいたのだろう。
不満そうな顔で黒猫姿のダイアナを抱き上げると、真正面から彼女に文句を言った。
「なんだ、なんだ。自慢か? 人狼なんかと違って自在に変身できちゃいますよーってか?」
「違うわよ、僻みっぽいのね。そうじゃなくて、この姿で出来る協力のことよ。いいこと、あたしはルージュに言われて、あなた達を偵察していたの。その逆をやろうって事。それに、あたしの知っているルージュの情報もぜーんぶ、洗いざらい教えてやっちゃうんだから。どう? 役に立ちそうでしょ?」
「ルージュの情報か……」
私はその言葉を反芻し、考え込んだ。
そう長くはなかったとダイアナは言っていたが、それでも、一定期間は私よりもずっと身近な場所でルージュを見てきたわけだ。
私の知らないルージュの姿もたくさん知っている事だろう。
それに、魔女の力を借りれば、もっと有利に追い詰めることが出来るかもしれない。
「確かに、魅力的だ」
呟く私の言葉に、ダイアナは得意げに尻尾を揺らした。
「でしょ? それで、お手当の話なんだけどぉ」
「おい、おいおい、待て、待ちなさい」
アンバーが透かさずダイアナの体を軽く揺らした。
「この猫ちゃん、まさかとは思うけどさ、アタシたち相手にお金儲けしようとしてる?」
「当たり前でしょ。危険なのよ、偵察って。確かに命を助けて貰ったお礼ではあるけどぉ、それとは別に危険手当くらい求めたって罪はないでしょ。それに、あたしだって生活があるんです。お金は大事なの!」
「はぁー、こら、がめついニャンちゃんだね。そんなん、命を救ってやったお代と相殺って話じゃないのかい?」
「そこは、お互い様じゃない。最終的にお城から一瞬でここまで逃れたのは、あたしの魔法のお陰なんだもの」
確かにそれはそうかもしれない。
アンバーの方は全く納得していないようではあるが、いずれにせよ、このまま言い争う姿を傍観していてもキリがなかった。
「まあ、アンバー。いいじゃないか。話くらい聞いてあげても。危険な役目なのは間違いないし」
「お話が分かる人って素敵。お代は月極でどうかしら。お試し価格でこのくらい」
そう言ってダイアナは猫の手をいっぱいに広げた。
親指を入れて十本。
単位の方は今から一応確認することになるが、情報屋の相場などを考慮するならば、絶対に安いわけではないだろう。
「こいつ、調子に乗りやがって」
アンバーはそう言いかけたが、ふと、何かを思い出したのか表情を変えた。
そして、急に声色を変えて、ダイアナと目を合わせた。
「ダイアナちゃん、ダイアナちゃん」
「なによ、気色悪いわね」
「いやね、前にあんたにあげようとしていたものがあるのを急に思い出したんだよ」
「なあに?」
「キャットニップの香水」
そういえば、そんな事もあった。
よく野良猫相手に試しているアンバーお手製の香水だ。
効果のほどは確かであるが、私は猫ではないのでその魅力はよく分からない。
だが、ダイアナの反応は、明らかに違った。
「キャ……」
ごくりと息を飲み、瞳孔を広げる。
そんなダイアナの三角耳に、アンバーは悪人のような表情をしながら囁いた。
「ちょっと嗅ぐだけで夢見心地。市場で買うってなると、きっとそのお値段じゃすまないだろうねぇ」
「ぐ……ぐぐ、でも、あたしには、生活が……」
ぎりぎりと歯を食いしばるダイアナに対し、アンバーはさらに甘い言葉を囁いた。
「んー、それならこれはどうかな。キャットニップの香水に、三食昼寝付きだ。それと引き換えにお仕事をして、半ノラの猫ちゃんみたいにアタシらのとこに帰って来るわけよ。それなら、生活にも困らないでしょ」
「た、たしかに……そうかも」
ダイアナが折れ始めた。
確かに、じゃない気がするのだが、そんなにキャットニップの香水って魅力的なのだろうか。
黙ったまま見守っているうちに、邪悪な契約は結ばれてしまった。
「じゃあ、決まり。月極でキャットニップの香水を一本と、三食昼寝付き。アタシらのそばで、半ノラの猫のふりしながら暮らせばいいさ」
どう考えてもフェアな取引には思えないのだが、けれど、そこには猫にしか分からないような魅惑があるのだろう。
しっかりと頷くと、ダイアナはアンバーに言ったのだった。
「言ったからね。約束よ」
人間が指をさすように手を向けてくるダイアナに、アンバーもまたしっかりと頷いた。