10.城からの脱出
ハニーはすぐには追いかけて来なかった。
それでも、焦燥感からはなかなか逃れられなかった。
とにかく、とにかく、アンバーの姿を確認したかった。
彼女が無事である事、何も危害を加えられていない事を確認したくてたまらなかった。
アンバーの言っていた、五階のもっとも西側にあるという部屋を目指し走り続け、追いつかれる事も、行く手を阻まれる事もなく、到達するなり扉を開ける。
途端にこの目に飛び込んできたのは、牽制し合う二人の人物の姿だった。
「アンバー!」
その片方に駈け寄り、無事を確かめた。
どこにも怪我はない。
ただ、この部屋にずっといたのだろう人物から目を逸らさず、銃を向けていた。
葡萄酒色の目を光らせるその人物。
無意識にその顔を見ようと視線を動かすと、アンバーはさり気なく私の視界を阻んだ。
「目的は達成したよ」
アンバーの言葉に、私はやっと気づいた。
銃を持つのとは反対の手に、鍵が握られている。
何の鍵かなんて考えるまでもない。
だが、まだ安心はできなかった。
握りしめたままの銃を持ち直し、私は思い切ってアンバーから離れ、冷ややかにこちらを見つめていたこの部屋の主へと銃口を向けた。
ルージュ。
間違いなく彼女はそこにいた。
「カッライス。落ち着いて聞いて欲しい」
アンバーが静かに言った。
「ここを奴の墓場にしてやってもいいが、あんたの願いはそれだけじゃなかったよな。優先すべきことは何か、忘れちゃいないだろう」
「ああ……分かっているさ」
ルージュは黙ったまま此方を見つめている。
アンバーの事を警戒しているのがよく分かる。
その上、二つの銃口を向けられ、動くに動けないのだろう。
今なら簡単に撃ち殺せるかもしれない。
だが、殺して、それで終わりではない。
ここでルージュを殺そうものなら、ハニーは私たちを許さないだろう。
ダイアナを救うどころか、私も、アンバーも、ただじゃすまされない。
全員を排除して無事に城を抜け出せたとしても、相手は権力者だ。
私もアンバーも、未来永劫、居場所をなくしてしまうかもしれない。
得策じゃない。
ならば、優先すべきことは一つだ。
歯痒い思いをしながら決断しようとする私に、ルージュは話しかけてきた。
「どうしたの? 撃ちなさい」
甘い囁きが、見えない糸となって私の手足を縺れさせようとしてくる。
「私を殺したいのでしょう? さっさと撃ちなさい」
その声色が魔性となって、私の思考を狂わせようとしてくる。
だが、幸い、アンバーは冷静なままだった。
隙を見て動き出すと、瞬く間に私の腕を掴み、そのまま寝室から脱出した。
引っ張られる形で共に廊下に出て、私はその静けさにはっとした。
ハニーはまだ来ていない。
追いかけてきていないのかもしれない。
となれば、どこかに隠れ潜んでいるのかもしれない。
「こっちだ」
アンバーに言われ、私は共に走り出した。
鍵は手に入れたのだ。
次に向かうべきは、地下の牢屋だった。
五階から地下まで、それなりに距離はある。
だが、異様なまでに邪魔は入らなかった。
ハニーの手下と思しき者たちも姿を現さない。
それどころか、ハニーとルージュも追いかけてきている様子がない。
戸惑いと不気味さに引っ張られながらも、私たちはどうにかダイアナの囚われているはずの場所へとたどり着いた。
嫌な予感がしていたが、幸いにもそこにもまたハニーの姿は見当たらなかった。
ただ、ダイアナだけが檻の中にいる。
ともあれ、すぐさま駆け寄って牢の鍵を開けてやると、ダイアナは這い出すようにして外へと出てきた。
「ありがとう、恩に着るわ。本当にありがとう……」
譫言のように繰り返す彼女を支えながら、アンバーは言った。
「しっかり。礼を言うのも少しばかり早いかもなぁ。安心していいのは、この城を抜け出してからだ」
「そうだね。それが出来るならばね」
アンバーに続いてそう言ったのは、私でもダイアナでもない。
ハニーだ。
牢に繋がる通路の一つを塞ぐ形でいつの間にか彼女は立っていた。
すぐに反対側の通路へと向かおうと振り返るも、そこもまた塞がれている。
城の者だ。
森の怪人を運んでいった異様に顔色の悪い男性たちがそこにいた。
彼らも魔物なのだろう。
今なら分かる。
「悪いが、カッライス以外には死んでもらうよ。魔女の血肉も、人狼の毛皮も、どっちもそれなりに役立つだろう」
ハニーが冷徹な声色でそう言ったが、アンバーは恐れずに銃を向けた。
私もまたそのアンバーに背中を合わせる形で、ハニーの手下たちに銃を向けた。
そんな私の背中にぴったりとくっつきながら、ダイアナは私に囁いてきた。
「ねえ、カッライス。お願いがあるの」
「それって今じゃないとダメ?」
焦りながらも答えると、ダイアナは私の体にしがみ付いてきた。
「今聞いてくれたら、この状況を切り抜けられるかも」
「とりあえず言ってみて」
私がそう言うと、ダイアナは背後から左手を伸ばしてきた。
「この手の指輪が見える?」
視界の端くれに、確かに指輪は見えた。
恐らく左手の薬指。
銀色の光が確認できた。
「見えるよ」
「これをあなたに外して欲しいの。説明は後でするから、とにかく外して欲しいの」
「……分かった。多少痛くても我慢してよね」
そう断ってから、私は力任せに引き抜いた。
ダイアナの体が強張るのが伝わってきたが、遠慮なく引っ張ったお陰だろう。
すぐに指輪は抜けた。
案の定、痛かったようだが、ダイアナは文句一つ言わず、外したばかりの指輪を受け取ると、すぐに私たちに向かって小声で囁いてきた。
「二人共、もっとあたしのそばによって」
その言葉にさり気なく従う。
時間はあまりない。
もうじき、私たちは一斉攻撃を食らうだろう。
だが、その前に、ダイアナは何かを唱えだした。
そして、ややあってから、何処からともなく私たちの周囲で風が起こり始める。
何かが起こる。
よく分からず戸惑っていると、ハニーが険しい表情で周囲に告げた。
「取り押さえろ」
その号令に従い、ハニーの手下たちが動きだす。
だが、同時にダイアナが異国の言葉を短く唱えると、近づいてきた者たちが風に弾かれて突き飛ばされた。
風はどんどん強まっていく。
力が溜まってきているらしい。
「逃がすか」
焦ったのか、ハニーが動こうとした。
だが、その肩を掴む者がいた。
ルージュだ。
いつの間にかここまで降りて来ていたらしい。
彼女はハニーを静かに止めると、私たちへと視線を向けてきた。
葡萄酒色の目には、敵意が含まれていた。
「ダイアナ」
甘い声ながら、そこにはぞっとするくらいの冷たさが含まれている。
「あなたの事は結構気に入っていたのよ。でも、しょうがないわね。そうやって私をがっかりさせ続けるのだったら、私の方も考えなければ。いいこと、ダイアナ。これであなたの未来は完全に閉ざされる事となった。どれだけ時間がかかろうとも、いずれあなたは今日の選択を必ず後悔することになるでしょう。でも、私だって吸血鬼なりの慈愛というものは持ち合わせているの。今なら引き返してもいいのよ。その子たちに味方をするのをやめなさい」
はっきりとした警告だった。
だが、ダイアナもまた冷ややかな視線をルージュへ送った。
「あなたの飼い猫でいるのは、もううんざり。あたしが処女じゃなくて残念だったわね」
放たれたのは、嘲笑するようなその言葉のみだった。
そんなダイアナの態度も想定内だったのだろう。
ルージュは軽く目を細め、呟くように言った。
「だとしても、魅了の術だってしばらくは残る。この死刑宣告を甘く見ない事ね」
ルージュがそう言った直後、ダイアナの呼び出した風がさらに強まった。
風はやがて空気のみならず私たちの周囲の景色までをかき乱し始める。
顔をあげていられなくなり、辺りの様子が全く見えなくなる。
そして、ようやく弱まったかと思って顔を上げた頃には、そこはもうミエール城の内部ではなくなっていた。