5.勝つということ
それがいつ頃の事なのかは正確には覚えていない。
ペリドットのもとに来て一年以上は経っていたはずだし、その頃になると私にとっての我が家とはルージュと暮らしていたお屋敷ではなくなっていた。
これも慣れてきたという事なのだろう。
共に育つアンバーの存在が身近になればなっていくほど、私は彼女への対抗心を燃やすようになり、ついには事あるごとに取っ組み合いを仕掛けるようになっていた。
後にこうした遊びは主に少年たちがやるものだと知るのだが、人並みの育ち方をしていない当時の私がそんな事を知る由もない。
ペリドットがそれを恥ずかしいだとか、はしたないだとか注意してくる事もなかったため、私は誰の目も気にすることなく獣の子のようにアンバーの隙をついて飛び掛かるようになっていた。
ふざけ半分ではあるが、半分は本気だった。
生まれ持った差なんてどうにかして克服できるのだと本気で思っていたからこそ、本気でアンバーに勝つことを夢見ていたのだ。
しかし、アンバーの方も簡単に勝利を譲ってくれたりはしなかった。
私が天性の負けず嫌いであるならば、アンバーだって同じようなものだった。
駆けっこでも、腕力でも、恵まれた身体能力を生かして勝つことを真っすぐな気持ちで喜び、自慢するのが彼女である。
たまには花を持たせてやるなんて事は絶対にしない。
それがアンバーだった。
たとえば私が物陰から猫のように飛び掛かり、うまくアンバーの背中に圧し掛かることが出来たとしても、そのまま力任せに地面に抑え込もうとする過程でいつの間にか私の方が地面に組み敷かれているのが常だった。
いつの日だったか、家の周辺の茂みから飛び出した時もまた同じ結果に終わった。
「何度やっても一緒。アタシの勝ちだよ」
アンバーは言った。
「勝負はまだ終わってない」
そう言い返しながら何度も蹴ろうとするも、うまく行かない。
それどころかアンバーは、もがく私を見下ろしながら耳元で囁いてきた。
「確かにそうだね。まだ終わってない。このまま食い始めるか、喉を掻っ切ってやるか。獲物が冷たい肉になるまでが勝負だ」
おそらく冗談のつもりだったのだろう。
しかし、そう言われるたびに嫌な汗が噴き出てしまった。
本能的なものだったのかもしれない。
「脅かしてるつもり?」
なるべく冷静さを装ってそう言い返すも、アンバーはまさしく狼のような目を細めて私をさらに脅かしてきた。
「さあ、どうだろう。前から言っているだろう。魔物を信じちゃいけないんだって。生かすも殺すもアタシの気分次第ってわけ。これがまさしく弱肉強食ってやつさ」
そう言って、魔物というよりも魔女のように笑ったアンバーは、程なくして襟首をつかみあげられた。
ペリドットだ。
音もなく忍び寄り、割って入ってきたのだ。
「勝負あったな、人食い狼ちゃん」
「あー、師匠! こんなのずるい!」
「おっと、まだ勝負は決まっていないか。これから檻に閉じ込めて、満月の日になったら首に縄をかけるんだ。そして一気にぎゅっと絞めたら綺麗な毛皮を剥がしてやるのさ。君の毛並みは綺麗だからね。きっと高値で売れるぞ」
「きゃあ、人間ってコワイ!」
ふざけ合う二人を前に、私は渋々起き上がった。
ペリドットが割って入らなければ、私はアンバーに食い殺されておしまいってことだ。
結局、私の負けは変わらない。それが不満だったのだ。
「よし、冗談はこのくらいにして」
と、ペリドットはアンバーの襟首から手を放した。
「アンバー、また勉強の途中で抜け出したな。机の上に本が出しっぱなしだったぞ」
「げぇ、いけない。忘れてた!」
慌てて家へと戻っていく彼女を見送っていると、ペリドットは小さくため息を吐いてから、少しかがんで私に視線を合わせてきた。
「怪我はしてない?」
心配してくるその問いすら何だか悔しくて、俯き気味に頷くと、ペリドットは苦笑しながら私の肩についた土埃を払いながら言った。
「それは良かった。にしても、君はめげないね。アンバーとの力の差だって十分すぎるほど思い知っただろうに」
「でも、いつかは勝たないと。師匠だって男の人に交じって、アンバーよりずっと強い相手といつも戦っているんでしょう?」
大人になった今だって、私の敵は劣等感だ。
絶対に埋まらないアンバーとの差を感じるたびに、知らず知らずのうちに無力感に苛まれる。
しかし、この当時の子供の頃の事を思い返せば、だいぶマシになったように感じる。
当時の私はとにかく必死だった。
しかし、焦る気持ちに体がついて行かない。
思考も判断力も未熟だったのだ。
そんな私に対し、ペリドットは落ち着いた声で答えてくれた。
「その通りだよ。でもね、カッライス。それなら尚更、今のようなやり方じゃいけない。純粋な力と力のぶつかり合いじゃ、君は一生かかってもアンバーには勝てないだろう」
きっぱりと断言されて、私は戸惑った。
「そ、そんな……やってみないと分からないよ?」
そうは言ったものの、当時の私だって心の何処かでは分かっていたはずだ。
ペリドットの主張はもっともなのだと。
それでも、私は素直にそれを受け止められなかった。
認めてしまえば負けたような気持ちになってしまう。
そこに反抗心を抱いてしまったのだ。
きっと、そういう年頃だったからこその抵抗だったのだろう。
「私、どうしても強くなりたい。弱肉強食ってアンバーが言っていたんだ。師匠だって強いから勝てるんでしょう? 黙って食べられるなんて嫌だ。私も強くなりたいんだ」
「なるほどね」
ペリドットは納得したように相槌を打つと、立ち上がって周囲を見渡した。
そして、何かに気づくと私の肩をぽんと叩いて森林の方を指さした。
すぐに見てみると、そこには一羽の野兎がいた。
鼻をぴくぴくと動かしながら周囲の様子を窺っていた。
魔物などではない、何の変哲もないただの茶色い兎である。
首を傾げる私に対し、ペリドットは囁いてきた。
「弱肉強食って言ったね。じゃあ、あそこにいる兎はどっちだと思う?」
「兎は……弱いよ。油断すると鷹や狐に食べられちゃうから」
「そうだね。兎は被食者だ。多くの場合で力関係では鷹や狐に敵わないだろう。そういう意味では弱いのかもしれない。じゃあ、カッライス、さらに考えてみて欲しい。弱い兎は、一生かかっても鷹や狐に勝つことは出来ないのだろうか」
「それは……そうなんじゃないの?」
ペリドットの意図が分からず、当時は傾げるしかなかった。
そんな私に対し、彼女は優しく肩に手を置き、穏やかに答えたのだった。
「そうとは限らないよ。この場合、勝つという言葉が何をさしているかにもよる。生と死をかけた戦いの場合、勝つというのは最後まで生き残ることだ。被食者である兎の場合、逃げ切ることも勝つという事になる。運や地形を味方につけて、相手を負傷させた場合だって、兎の勝利ということになるだろう。分かるかい?」
「……勝つって、相手を倒すってことじゃないの?」
「捕まらない、食べられない、追い払う、世の中には色んな勝ち方があるんだ。そして、我々のような人間には兎と違って多種多様の便利な武器や罠がある。カッライス、君はアンバーに挑む際にそれらを使ったことはあったかい?」
真っすぐ問われ、私は狼狽えた。
「でも、それってズルじゃないの?」
「ズルかもしれないね。だが、いくらでもズルをしていいのが自然界だ。野兎だって狐だって同じ。勿論、狩人と魔物もね」
ペリドットはそう言って、怪しく笑った。
「私もたくさんのズルを知っているから、男たちに交じって恐ろしい魔物に挑めるし、無事に帰ってくることが出来たんだ。いいかい、カッライス。清く正しく生きなくてはならないのは人間社会でのルールだ。自然界には自然界のルールがある。特に魔物の世界のルールはとても厳しい。勝つか負けるかは生きるか死ぬかだ。真正面から挑んでも勝てない相手には、思いつく限りのズルをして最後まで生き抜くことを考えるんだ。それが、魔物に勝つという事なんだよ」
ペリドットの言葉を聞いて、私は目から鱗が落ちたような気持ちになった。
それほどまでに、強くならねばいけないと思い込んでいた。
そもそも、強くなるという意味を狭く捉えていたのかもしれないと、ようやく気付けたのだ。
たくさんのズルを知っているから勝てる。
ペリドットのその言葉を胸に刻みながら、翌日、私は再びアンバーを狙った。
アンバーは、寝起きでぼんやりしながら家の外の手押しポンプの洗い場で顔を洗っているところだった。
そこへまず練習用のコルク弾で注意を逸らすと、手始めに反対方向から飛び掛かった。
アンバーが驚いてふらついたその先には、予め仕掛けておいた紐の罠があり、アンバーの足を掬う。
その計画は全てうまく行き、私はついにアンバーを地面に押し倒すことが出来た。
だが、やった、と思ったのも束の間、アンバーは状況を理解すると力任せに私の体を突き飛ばした。
それ以上、抑え込むことは不可能で、よろけたところで結局はいつものように取り押さえられてしまった。
「ふう、危なかった。ちょっとはやるじゃん」
そう言いながらぎゅっと力を込めてくる。
苦しくて声が出そうになる私に対して、アンバーは笑いながら言った。
「おかげで眠気が覚めたよ。そこはちゃんとお礼を言わなきゃね。さて、これからどうしてやろうか。前みたいに捕食ごっこでもしてやろうか?」
「降参。降参するよ」
声を絞り出しながらそう言うと、アンバーは上機嫌に笑いながら私の体を解放した。
「ま、悔しかったらもっと頑張ることだね」
そう言ってアンバーがくるりと背を向けようとしたその時、私は隠し持っていたロープを彼女の手に引っ掛けた。
驚いて振り返ろうとする彼女ともみ合いながら、もう片方の手も後ろ手に縛りあげる。
「あ、こら、卑怯だぞ、カッライス!」
「油断したね、アンバー。悔しかったら抜け出してみなよ」
笑いながらそう言って、私はさらに縛り上げた。
アンバーのもがく力は相当強く、ついには私の手からすり抜けてしまった。
だが、ロープから抜け出すことは難しかったらしい。
縛られたまま地面に転がり、足をバタバタと動かして暴れだした。
「この、こんにゃろ、降参だって言ったじゃんか! ずるい、ずるいぞ!」
「抜け出すのは無理みたいだね。じゃあ、私の勝ちだ」
そう言って笑いながら、私はアンバーを立たせた。
「このまま師匠の下まで戻ったら解いてあげるよ」
「うううっ!」
不機嫌そうにアンバーは唸ったが、結局、一人では抜け出せなかった。
おまけに朝食前の空腹が重なって、彼女はすっかり大人しくなってしまった。
ロープを持つ私に連れられて歩きながら、アンバーは心底悔しそうに嘆いた。
「うわーん、初めて負けた……悔しい……悔しい」
分かりやすく落ち込む彼女は少し可哀想にも思えたが、その後、ペリドットの元へ二人で戻って大物を捕ったものだと褒められると、途端に誇らしく思えてしまった。
ちなみに、この勝利は私にとって、アンバーに対する最初で最後の完全勝利でもある。
翌日からはアンバーの方も対策を考えるようになり、罠にかかっても自分で抜け出したり、逃げたりするようになった。
だが、私の方もそれは同じで、逆に捕まったり、取り押さえられたりすることもすっかり減った。
しばらく時が経つと、こういう遊びはしなくなったのだが、どうすれば相手の優位に立てるか考え続け、競い合ったこの時期の経験もまた、お互いのその後に強く影響したのは間違いない。
今思えば、これもまた修行の一部だったのかもしれない。
何にせよ、このようにして私たちは順調に年齢と経験を重ね、大人へと近づいていった。
そして、身も心も大人とほぼ変わらない頃になると、二人して組合に正式に登録される日を待ちわびるようになったのだった。
特にアンバーは成長するにつれ、身体能力の面で私との差がますます広がっていったこともあり、当然ながら私よりも先に組合の一員になれるものだと信じ込んでいるようだった。
けれど、どういうわけだろう。
的当ての上達のみならず野獣を狩れるまで成長した後も、私たちはどちらもペリドットに認めてもらうことが出来なかった。