6.地下室の囚人
翌朝、夜明けと共に目が覚めると、全身が疼いた。
昨晩の事は勿論、記憶にある。
寝ようとした時になってアンバーが来て、共にベッドに入って──。
アンバーの事は当然ながら信頼している。
心からのパートナーだと言える。
けれど、昨晩のアンバーはいつにも増して怖かった。
ともすれば、このまま食い殺されてしまうのではないかと。
それでも、アンバーはアンバーだ。
散々噛まれたし、引っ掛かれたし、首を絞めつけられたりもしたけれど、服を破かれることはなく、四肢を食いちぎられることもなかった。
そして、身を預けてしばらく、熱も興奮も覚めてきたのだろう。
アンバーはようやく私を解放して、囁いてきたのだ。
「……ごめん。やりすぎた」
その声色にいつもの彼女を感じ取り、私もまた我に返った。
毛布で体をそっと隠しながら、恐怖心がすっと引っ込んでいくのを感じた。
「大丈夫だよ」
静かにそう言うと、アンバーは安心したように息を吐き、私に言った。
「これはただの言い訳なんだけど、聞いてくれる?」
「なに?」
「さっき、この城で奴のニオイがした。それに気づいた途端、気が気じゃなくなったんだ。奴のせいなのか、アタシ自身の問題なのかは分からない。もう落ち着いたけれど、この城にはやっぱり奴がいる」
「やっぱり」
指輪が教えてくれた通りだ。
「それなら、どうにかして捜しださないと」
そう言ってすぐにベッドから這い出そうとする私を、アンバーは慌てて止めたのだった。
「今夜は駄目だよ。今のあんたには奴と戦う元気はないだろう。それに、もう夜も遅い。明日の事を考えたら、今は大人しく寝た方がいい。心配するなよ。明日ならアタシも手伝ってやるからさ」
「……でも」
食い下がろうとする私に覆い被さり、アンバーは言い聞かせるように告げた。
「どうしても、じっとしていられないのなら、このままもっと疲れさせてあげるよ」
そのまま、彼女に唇を重ねられ、それからの記憶はない。
ただ、夜中の間にアンバーだけこの部屋を抜け出していったのは覚えている。
寝惚けながらそんな彼女を見送り、言われるままに部屋に施錠をしたことも。
倒れたコップはそのままだし、せっかくのマーキングも台無しだけれど、あれから誰も私の部屋には入ってきていないはず。
その事を頭の中で整理してから、私はようやくベッドから這い出した。
姿見に映る裸体を確認し、アンバーの遺した傷跡を見つめる。
いずれも、かつてルージュにつけられた古傷を上書きするようにつけられていた。
その中でも、もっとも激しく傷つけられていたのが、首筋に残る傷跡だった。
「アンバー……」
興奮している時の彼女は獣に近い。
人狼だからそれは当然なのかもしれないけれど、その時こそ、彼女の本心が分かると言ってもいい。
彼女は普段、どう思っているのか。
いつだって飾らずに本音をすぐに口にしているように見えるけれど、実はそうとも限らない。
考えれば考える程、アンバーがいつも何を思い、何を感じながら私について来てくれているのか、その真実を知るのが怖くなってしまう。
「ごめんね、アンバー」
私は酷い人間なのかもしれない。
そんなアンバーの葛藤に気づきながらも、いまだに指輪の事を話せそうにないのだから。
そして、何も気づかなかったようなふりをして、昨日と同じように仕事を続けるのだから。
再びミエール城を出て、森の怪人の潜む森へ向かった後は、私たちは依頼の狩りに集中した。
だが、結局、この日も大した進展はなかった。
いるのは確かだ。
アンバーもニオイを感じると言っていた。
それに、微かな手掛かりではあるが、あらたなマーキングの後があった。
足跡に、木へのマーキング、サイズ的にも位置的にも森の怪人で間違いないだろう。
ところが、その姿だけはなかなか見当たらないのだ。
「なに、そのうち尻尾を出すさ」
日が暮れ始め、城へと引き返す道すがら、アンバーはそう言った。
「それよりも、今宵の事を少しだけ決めておこう。アタシは食事の後で城の見物に行く。上階を中心に勝手に見せて貰おうと思っている。あんたはどうする?」
「私は……別の場所を見学してみようかな」
新たな監視役が今もいるのかは分からないが、私もまたアンバーの調子に合わせてそう言った。
そんな私に対して、アンバーは微笑みを浮かべた。
「そっか。それならバラバラになりそうだね。面白いものを見たら、寝る前か明日にでも話すよ。あんたの話もその時に聞かせてよ」
「うん、分かった」
それから城に戻った後は、打ち合わせ通りに事が運んだ。
食事の後、気づいたらアンバーはいなくなっていて、私の方もさり気なく城内をうろつき始めた。
途中で何度か使用人たちとすれ違ったものの、不審には思われなかったのだろう。
特に話しかけられる事もなく、そのまま放っておいてもらえた。
これ幸いと私はさらに進んでいった。
あきらかに来客用と分かる廊下や展示室を見るふりをして、どんどんと立ち入りがなんとなく禁じられていそうな場所へと向かっていく。
万が一見つかった際は、道に迷ったふりをすればいい。
その言い訳を頭の中で大まかに組み立てながら、私は歩き続けた。
そうしながら、そろそろ迷ったと言い訳するには厳しくなってきたあたりで、ようやく見つけたのが、地下へと続くとても小さな階段だった。
明らかにその先は、客人の向かうべき場所ではない。
不安な気持ちになりながら、私はそっと階段を下りていった。
下り始めてすぐに、異変は現れた。
酷い悪臭と共に、声がしたのだ。
泣いているような女性の声だった。
階段を下り切ったあとは、物陰に身を潜めながらその先を窺った。
やはり倉庫として使われているのは間違いなさそうだ。
だが、ここもかつては地下牢だったのだろう。
今はもう使われていないと信じたい気持ちが勝る独房と、そして、見てはいけなさそうな拷問器具がいくつか並んでいた。
何せ、歴史ある城である。
そんな場所があってもおかしくはない。
おかしくはないが、今も使われていたとしたらさすがに異常だ。
そしてその異常性は、今まさに確認できた。
「お願い……あたしが悪かったから……もう許して……」
声を枯らしながら泣いている女性の声。
やはり気のせいでも何でもなく、人が閉じ込められていたのだ。
その姿をよく確認しようと身を乗り出しかけたその時、地下室の向こう側の扉がギイっと開かれた。
反対側にも階段があったのだろう。
蝋燭の明かりを手に現れたのは──この城の城主であるハニーだった。
「まだ泣いているの?」
真っすぐ檻へと向かいながら、彼女は言った。
「ほら、可愛い顔が台無しだ。そんなに叫んだって意味はないのに」
「……お願い……もう十分反省したから」
弱々しく訴える彼女を前に、ハニーは目を細めた。
「そうやって情に訴えかけられても、ボクにはどうしようも出来ない。君の処遇を決めるのは、君のご主人様だからね」
それでね、と、ハニーはしゃがみ込んだ。
「さっそくだけど、君をどうしたいのか彼女に聞いてきたんだ。結果は、可哀想だけど……ね。それだけ今回の君の裏切りには失望したらしい」
「……そんな……そんな!」
「残念だったね。出会った時に君が処女だったら、まだ違ったかもって言っていたよ。恨むなら、君たちの伝統、そして交わらないと力を貸してくれないケチな神様を恨むんだね」
「いやだ……そんなのいやだ……お願い、許して!」
泣きわめく彼女を前に軽く笑いながら立ち上がり、ハニーは冷ややかに言った。
「遺される君の体だけど、最大限に活用させてもらうよ。肉はボクを喜ばせる料理に、血は彼女を喜ばせるワインに。残りの部分はどうしようかな。なにせ、ただの人間じゃない。焼いて捨てるには勿体ない。処刑の日までゆっくり考えておくよ」
「ねえ、待って」
悲痛なその叫びを避けるように、ハニーは檻から一歩離れた。
「じゃあ、ボクはこれで。ケチな神様にお祈りでもしておきなよ」
そしてそのまま、元来た道を歩み、立ち去ってしまった。
扉が閉まり、耳を澄ませて階段を上っていく音を確認した後で、私はようやく前へと進んだ。
暗がりを手探りで進んでいると、微かな物音に気付いたのだろう。
泣いていた彼女が声をあげた。
「誰かいるの?」
その声に、私は慌てて答えた。
「静かに……」
そして、檻の前までどうにか進み、ポケットに入れていたマッチを擦った。
檻の中の者がこちらを見つめてきた。
驚きと恐怖で声すら出なかったらしい。
気のせいだろうか。
暗闇で目が光ったような気がした。
しかし、そんな事よりも、その人物の顔がはっきりと見えて、私は納得した。
「やっぱり君だったんだね」
そこにいたのは、ダイアナだった。




