5.血の臭いのする城
ミエール城の夜は異様なほど静かだった。
どっぷりと眠って迎えた朝は、やけにすっきりとしていて、体も軽く感じられた。
けれど、目を覚ましてすぐに確認したことと言えば、客室の入り口付近、そしてベッドの周囲の床にさりげなく置いておいた糸で繋いだ二つ一組の木製コップの確認だった。
扉を誰かが開けたり、そのまま真っすぐ私の眠るベッドに近づいてきた者がいたりすれば、糸に触れてコップがずれたり、倒れたりするという非常にシンプルなマーキングである。
幸いな事に、どちらにも異常はなかった。
──警戒しすぎかな。
そう思ったりもしたのだが、やはり思い出すのはダイアナというあの娘の事だった。
ここに滞在するなという彼女の忠告は、むしろ興味を掻き立てられた。
やはり、ハニーの依頼には裏がある。
このまま順調に依頼をこなしたとしても、そのまま無事に帰して貰えるわけではないのだろう。
そして、そこに何が待ち受けているのかと考えれば、浮かび上がる人物がルージュだった。
──今もこの城の何処かにいるのかな。
だが、だとしても、自由に探し回ることなど出来るはずもない。
城主や使用人たちの目を盗んで調べるしかないし、それを実行するにしても今すぐにするべき事ではない。
飽く迄も、依頼された仕事をしているふりをしなければ、求めている答えに辿り着く事なんて出来ないだろう。
「とにかく、落ち着かないと」
朝の支度を淡々とやりながら、私は自分自身に言い聞かせたのだった。
さて、この日から本格的に依頼をこなすために動き始めたわけなのだが、私とアンバーで全てを判断し、計画を立てることが出来るわけでもなかった。
森の怪人が住み着いているあの山林はハニーが所有する土地で、その現状もまた逐一報告しなければならなかったからだ。
一応、大まかには前日のうちに伝えておいたのだが、夜が明けて再び狩りへと出かける前にも、ハニーと顔を合わせ、ある程度の打ち合わせをしておかねばならなかった。
内容は昨日の報告の再確認、そして彼女の方から私たちへの報告が主だった。
「それで……昨日、あなた達が発見したという遺体の件ですが、昨日のうちに警察へ連絡を入れました。報告通りの場所に確かにあったと。現在、身元を確認中のようです。あなた達には引き続き、周囲の捜索と駆除をお願いします」
「分かりました」
静かに答える私の横で、アンバーがぶっきらぼうに頷きつつ、ハニーに対して問いを投げかけた。
「昨夜のうちとは、随分と手際がいいですね。場所も、アタシらの大雑把な報告でよくわかったものだ。まるで、現場を見ていたかのようだ」
「……アンバー」
小声で咎めるも、ハニーはあまり気にしない様子で微笑んでみせた。
だが、返ってきた答えは、ぎょっとするようなものだった。
「そうですよ」
「え?」
思わず問い返すと、ハニーはさらに笑みを深めた。
「どうか気を悪くなさらないでいただきたいのですが、あなた方に何かあったら困るので、城の者を使わしていたのです。昨日の件も、あなた方の報告の後で事実確認のためにその者からも報告を聞いておいたというわけです」
「監視役ですか」
アンバーがそう言うと、ハニーは首を横に振った。
「いえいえ、ここは見守り係と言わせてもらいましょう。戦う事は出来ないので。安全な場所に身を潜めてあなた方の仕事ぶりを拝見させていただいているのです。ああ、言っておきますが、あの山林の中のみの話ですよ。狩猟が終わった後や、この城の中にいる間は、そんな事はしておりませんのでご安心を」
「……それで、その見守り係は今日もいるわけですか?」
私の問いに対し、ハニーはまたしても静かに首を振った。
「いえ、それが、昨日の間に怪我をしてしまったらしくて。今日は見守る事ができないかもしれません。ですので、どうか、ご無理をなさらぬように」
まるで当たり前の気遣いのようなその言動に、私もアンバーもただ頷いて場を流すことしか出来なかった。
本日の打ち合わせが終わると、私たちはさっそく狩りの現場へと向かった。
言われていた通り、森の怪人の被害者らしき人物の遺留品や、遺体やらは、すでにそこにはなかった。
そちらについては私たちの仕事ではない。
私たちがするべきことは、未来の被害を防ぐためにも犯人を仕留める事のみ。
そのために昨日と同じ場所、そして、昨日には見なかった場所まで足を踏み入れていった。
だが、そう簡単に進展するわけではない。
新たな手掛かりもないまま数日経つ事も珍しくはない。
しばらく彷徨い続ける事となり、ひと休みのために腰かけた大木の下で、アンバーは背伸びをしながら文句を垂れた。
「早いとこ、この仕事も終わらせないとだよなぁ」
「まだ始まったばかりだけど?」
「そうだけど、もたもたしていれば次の満月が来ちまうだろう」
念のため、監視の存在を警戒しているのだろう。
アンバーはいつになく小声でそう囁いてきた。
私もまた囁くように返した。
「その時は君だけ拠点に戻ればいいじゃないか」
すると、アンバーは物凄く不機嫌そうな表情を浮かべた。
「バカ」
短い罵倒の言葉に殴られる。
「酷いなぁ。単なる暴言じゃないか」
「だって、そうだろう。アタシが何のためについて来て、何のために一緒に滞在していると思ってんだよ。あんな血の臭いのする気味の悪い城にあんた一人で泊らせるわけにはいかないよ」
「お言葉だけど、私だって無警戒で泊っているわけじゃない。たった一晩くらい君がいなくたって大丈夫だよ」
「たった一晩、されど一晩だ。あのダイアナとかいう娘も言っていただろう。……っていうかさ、今思ったんだけど、もしかして、あいつが監視役だったんじゃないの?」
「……確かに、奇妙な娘だったね。可能性はある。それなら、怪我をしたというのもあの娘なのかな」
そう思うと少し心配になる。
ダイアナ。
あの人は、今はどこで何をしているのだろう。
そんな事をふと思った。
さて、短い休憩を終えると、その後もしばらく周囲の捜索は続いた。
だが、残念ながらその後もこれといった収穫のないまま、日は落ちていった。
アンバーの嗅覚により、これ以上はやめた方がいいという判断に至り、私たちはすごすごとミエール城へと戻っていったのだった。
ミエール城では、ご馳走が待っていた。
収穫のない日に頂くのは気が引けるのだが、ハニーは気にしないで食べて欲しいと明るく促してきた。
味のほどは、やはりと言うべきか、美味だった。
どんな言葉も陳腐に思えるほど美味しかった。
だが、しばらく食べていると、私はふとアンバーの様子がおかしい事に気づいた。
残している。
それも、肉料理と酒を。
具合でも悪いのだろうかと思ったのだが、声をかけてみても大丈夫としか言わない。
結局、そのまま食事は終わってしまった。
そして、就寝時、私は昨夜と同じくアンバーとは別室で眠ろうとしていた。
だが、ベッドでうとうとしているうちに、扉がノックされ、眠気がすっと消えてしまった。
そっと応じてみれば、そこにはアンバーがいた。
「どうしたの?」
と、軽い気持ちでその表情を見上げた瞬間、私は一気に緊張を覚えた。
「血の臭いがするんだ」
アンバーはそう言った。
その言葉にすぐに返答できず、無言で後退りする私の踵に、糸が当たる。
マーキングとして仕掛けておいたコップが倒れる音がした。
だが、それを戻す余裕もないまま、私はアンバーと目を合わせ続けた。
アンバーは私の部屋に入ると、扉を閉め、そしてそのまま鍵も閉めてしまった。
「昨日は我慢できたんだけど」
アンバーは言った。
「今日は無理そうだ」
淡々としたその口調が正直に言って怖かった。
だが、私はどうにかいつものアンバーを相手するような態度を心がけ、彼女に問いかけた。
「さっき、夕飯を残していたよね。しかも、君が好きそうな肉料理を。どうしたの、口に合わなかった?」
「いや、口に合ったよ。異様なほどにね。だから、最後まで食べられなかったんだ。あのまま食べていたら、人間でいることを忘れてしまいそうで。それに、嫌なニオイがする」
「……どういうこと?」
恐怖と不安がこみ上げてくる。
いつものアンバーじゃない気がした。
そんな私にアンバーはにじり寄り、肩に手をかけてきた。
呼吸が荒い。
人間の姿をしているのに、まるで狼のようだった。
「説明は後だ」
そう言って、アンバーは私の体をベッドに押し倒した。




