3.森の怪人の縄張りで
滞在は決まったものの、旅の荷物の大部分は組合の拠点に置いてきていた。
それら荷物を取りに行くついでに、私たちはさっそく森の怪人の目撃情報があったという森へと訪れる事にした。
山林の空気は冷たく、澄んでいる。
私とアンバーが生まれ育ったペリドットの家の周辺も綺麗な森ではあったけれど、ここはまた雰囲気が違う。
美しいが、まだ馴染みがないせいか不気味にも感じてしまった。
その上、アンバーの機嫌があからさまに悪かったので、気分も空気も重たかった。
「ミエール城ねぇ。堅苦しそうで嫌だなぁ。あそこで働いている人たち、なんか血が通っていないっていうか、情ってもんを感じさせない所作で冷たいというか、なーんか取っ付き難さがあったよなぁ。いやだなぁ。そこに滞在だなんてなぁ」
黙って流すと、アンバーはさらに大袈裟な口調で続けた。
「それにあの城主だよ、城主。ハニーなんて可愛い名前だから可愛いお姉さんなのかと思えば全然違うじゃん。必死になって人食いの噂を否定していたけれど、なーんか、怪しいよなぁ。ルージュなんて殆んど知らない体なのもさらに怪しい。そんな怪しい女と一つ屋根の下だなんてさぁ」
「そんなに嫌なら君だけ拠点に滞在したっていいんだよ」
冷めた態度でそう言ってみれば、アンバーはムッと私を睨みつけてきた。
「あのねぇ、そんな事が出来たら初めっから付いて来たりしないわけよ。そこんとこ、分かってんでしょ。だいたいさぁ、感謝ってもんを感じられないんだよね。アタシがその気を出せば、あんたの自由なんて一捻りだってのにさぁ」
そう言って怪しく笑うアンバーに対し、私もまた思わず反論した。
「文句があるなら、そうしたっていいんだよ」
失言だったと後悔するも遅い。
アンバーは表情を変え、じっと私の顔を見つめてくる。
その無言の圧に思わず目を逸らしそうになった私の肩を掴んできた。
恐ろしく強いその力に思わず怯んでしまうと、アンバーは少しだけ満足そうに目を細めた。
「お言葉に甘えて、そうしちゃおうかなぁ」
意地悪く呟く彼女の圧力に屈し、私は息を飲んでしまった。
「ごめん、アンバー。私が悪かった」
するとアンバーはため息交じりに私の肩を離した。
そして、私から視線を外すと、周囲の山林を見渡しながら言ったのだった。
「まあね、アタシだって無理矢理従わせたところで虚しいだけさ。どっかの誰かとは違って、あんたとはなるべく対等なパートナーでいたいからね」
「……ありがとう」
目を逸らしてしまったのは、照れ隠しでもある。
アンバーと私は、本来は対等な関係とは言えないだろう。
それでも私が自由に振舞えるのは、彼女がそれを望んでいるからだ。
そんな彼女だからこそ、私は自然体で彼女を愛することが出来るのだろう。
──どこかの誰かとは違って。
時々、私はアンバーに対して罪悪感を覚えてしまう。
指輪の事だ。
ルージュから受け取った指輪を隠し持ってしばらく経つ。
ここに来る気持ちを固め、ハニーを心から信用していない根拠たるもの。
その存在をずっと彼女に隠し通していることが、心の何処かで引っ掛かっていた。
しかし、どう打ち明ければいい。
日が経つにつれ、打ち明けることへの勇気が足らなくなっていく。
そのもどかしさをどうにか振り払い、目を逸らし続ける日々が続いていた。
そして恐らく、ここに滞在している間も、私は目を逸らし続けることになるのだろう。
「カッライス」
ふと名前を呼ばれ、私は我に返った。
手招くアンバーは山林の一角を見つめている。
音を立てずに慎重に近づき、示された場所を見てみれば、そこには誰かの私物があった。
リュックだ。
旅人でもいたのだろうが、あまりいい状態ではない。
引き裂かれたその中からは食べ物が引きずり出され、野生動物に食い荒らされた痕跡があった。
だいぶ前から放置されているらしい。
では、持ち主はどうなったのだろう。
アンバーが無言で先へと向かう。
それに続くと、程なくして、新たな落し物は見つかった。
靴に、マントの切れ端、そして手袋。
どれもボロボロで、その上、血痕と思しき汚れがついている。
これだけで森の怪人の仕業とは断定できないが、この辺りで人が襲われたのは確かだった。
「遺体はないようだね」
呟く私にアンバーは頷く。
「ああ、ニオイでも分からない。だが、この近くで間違いなさそうだ」
「もう少し探してみようか。ひょっとしたら、滞在の必要もなくなるかもしれない」
「だといいけど」
そんなやり取りをしつつ、周囲を警戒しながら先へと進む。
森の怪人は、吸血鬼とは全く違う。
使用するのは対魔物用猟銃である。
感覚としては通常の獣を対象にした狩りに近いが、熊よりも体が頑丈であることに気を配らなくてはいけない。
それに、対魔物用弾丸が無限ではない事も気に留めておかないと。
一応、アンバーのような人狼の唾液も森の怪人にとって有効な毒となるそうで、それをもとに作った新しい毒薬もあるのだと彼女は言っていたが、飽く迄も最終手段となるだろう。
そもそもこの仕事、私が勝手に引き受けたのだから、なるべく借りは作りたくないところだ。
そんな事を考えながら進むこと暫く。
視界の先で、黒い何かがもがいているのが見えた。
「なんだろう……」
思わず呟き、目を凝らす。
獣のようだ。
真っ黒だが子熊にしては小さすぎる。
森の怪人の子供というわけでもないだろう。
では、何なのか。
はっきりと見えるより前に、アンバーが眉間に皺を寄せた。
「あれは……怪人ではないね」
そう言いながら彼女は近づいていく。
周りに気を配りながら後を追うと、ようやく状況が理解できた。
小さな獣が罠にかかっている。
古い罠だ。
恐らく仕掛けた者がそのまま放置してしまったのだろう。
足を囚われたその獣は藻掻き続け、苦しんでいた。
猛獣の子でも、魔獣の子でもない。
猫だ。
黒猫だ。
「可哀想に」
そう言いながら近くにしゃがむと、猫は怯えつつも助けを求めるように見上げてきた。
猫の顔を見分けることが出来るとは言わない。
特徴的な模様ならばまだしも、黒猫なんて何処にだっているものだ。
だが、何故だかこの時の私には見分けがついてしまった。
救いを求めるように見つめてくるその顔は、かつて見た事のある顔だと。
「君……もしかして」
すると、猫はバツが悪そうに目を逸らした。
アンバーが私の横でしゃがみ、猫の顎に手を添えた。
「どれどれ顔を見せてごらん。おやおや、嗅いだ覚えのあるニオイがするなぁ。お嬢ちゃん、あの女の飼い猫じゃないか?」
その言葉が分かったのか、猫は毛を逆立てた。
しかし、分が悪いと理解しているのだろう。
逆立てるだけで、アンバーに爪を立てたりはしなかった。
「さて、どうする?」
アンバーに問われ、私も少しだけ悩んだ。
煮るのも焼くのも私たち次第。
この猫を上手く利用すれば、ルージュへの手掛かりになるかもしれない。
ひょっとしたら人質ならぬ猫質にだって。
その為に狩猟用に持ってきた道具を用いて拘束する事だって可能なわけだが。
「逃がしてあげよう」
悩んだ挙句、結局そうなった。
理由はいくつかある。
猫を捕まえたところで、うまく利用できる気がしない事。
人質ならぬ猫質なんてルージュには通用しないだろうという事。
感情任せに猫を痛めつける気にもならない事。
そして、何より、かつてアンバーが言っていた話が頭に引っ掛かっていた事。
曰く、この猫からはかつての私と同じニオイがするという。
ルージュに囚われ、逆らえなくなっていた時の私のニオイだ。
つまり、この猫も私と同じ被害者なんじゃないかという疑いがあったのだ。
もしそうだとしたら、敵意を向けるにはあまりに不憫だった。
幸い、アンバーも別に異を唱えるという事もなかった。
共に力を合わせて罠から解放してやると、猫はきょとんとした様子で私たちを見つめてきた。
「おや、怪我をしているね。ちょっと沁みるけど我慢して」
アンバーはそう言うと、腰のポーチから小瓶を取り出した。
傷薬だ。
それを布に染みこませると、猫の片足に結んでやった。
「まあ、これで何とかなるでしょ」
アンバーがそう言うと、猫はそっと立ち上がった。
そして、じっと自分の身体と私たちを見比べると、そのまま何処かへ走り去ってしまった。