13.キャットニップの香り
町長への報告が終わり、その後の事について軽く話し合ってから遅めの夕食を終えてみれば、宿に戻る頃はすっかり夜も更けていた。
汗を流してベッドに横たわると、そのまま睡魔に意識を攫われてしまいそうなくらい疲れている事を実感した。
だが、体力お化けの同胞は、どうやらそうでもないらしい。
部屋の隅で荷物の整理を始めたかと思うと、自ら調合した薬を机に並べ出し、無言のまま一つ一つの確認を始めた。
そして、鞄の奥から取り出した小瓶のラベルを見て、ようやく声を上げたのだった。
「あった、キャットニップの香水!」
「あの黒猫にあげる予定だったやつだっけ?」
問いかけるとアンバーはどこか自慢げに頷いた。
「町の野良猫たちを虜にする代物さ。あの猫ちゃんも名前を聞いただけで上機嫌だったろ。ただの猫にしちゃ反応が妙だとは思ったけれど、吸血鬼の使い魔となれば合点がいく。あたしが思うに、これはいい武器になるはずだ」
「どう使うのさ?」
「あの猫ちゃんを手なずけてやるのさ。うまく行けばご主人様を誘き出すいい釣り餌になるとは思わないか?」
「どうだろう。あの猫はともかく、ルージュに通用するかな」
考えてみても、想像がつかなかった。
そんな私の反応を余所に、アンバーはキャットニップの香水瓶の蓋を開けて香りを確かめる。
その様子をベッドの上から見ていると、在りし日の事を思い出してしまった。
ペリドットが家を空けたあの日、私たちの関係が歪んだ時に共に飲んだキャットニップのハーブティー。
その香りを不意に思い出してしまい気持ちがそわそわしてしまった。
「あのさ、アンバー」
そんな自分の心境を誤魔化すために、私は会話を切り出した。
「体はもう大丈夫? 変なところとかはない?」
すると、アンバーは私を振り返り、香水瓶の蓋を閉めながら答えた。
「大丈夫だよ。心配はいらない」
そして、並べた薬を鞄に入れなおしながら、彼女は続けた。
「危なかったよなあ。あんなにあっさりと死人使いなんかに捕まっちゃうなんてさ。あんたがいなかったらどうなっていた事か。助かったあとも、あいつが死ぬまで姿も戻らないし。それだけに、ちょっと焦っちゃってさ」
「焦った?」
「うん。またいつか、今日みたいにお月さまとは関係なく姿が変わっちまったらどうしようってね。そう思ったら、自由に姿を変えられる魔物がちょっとうらやましくなっちゃってね。特に魔女みたいなズルいやつ」
「魔女ってどんな力があるんだっけ」
この世の何処かに秘かに暮らしているという魔女。
ペリドットに習った覚えがないわけでもない。
だが、一応は人間であるという彼女らが魔物狩りで標的になるということはまずない。
あるとすれば、それは狩りではなく暗殺だ。
それだけに私が知っている事はあまりなかったが、アンバーはどうやら詳しいようだった。
「魔女はさ、魔法が使えるんだよ。おまけに魔法薬なんてものも作れる」
「それってアンバーの作る薬よりもすごいの?」
「そりゃ、すごいよ。まあ、本に書かれているのが本当ならの話だけれどね。アタシが真似したいなぁって思うのが変身薬でさ、それを飲めば好きな時に姿を変えられるらしい。高名な魔女の薬であれば、好きな姿に変われるそうだが、大抵はその人それぞれに決められた姿に変わるんだってさ」
「決められた姿?」
「うん。つまり、アタシみたいなのは決まっているだろう。この姿か、いつもの狼の姿。魔女の変身薬を飲んだ場合も、そのどっちかになる。ただ、この薬の面白い所はね、二つ目の姿なんてないただの人間も何かしら決められた姿になるってところなんだ。カッライスも何かしら決められた姿になるってわけさ。何だろうね、あんたは。青い目の可愛い子猫ちゃんかな?」
そう言いながら片付け終わると、アンバーはようやく寝る気になったのかベッドまでやってきた。
私の寝そべる隣に座り込むと、ため息交じりに続けた。
「とにかく、アタシもせめて魔女だったら良かったんだ。そしたら、今日みたいにあんたに迷惑をかけずに済んだのに」
「迷惑って思ってないよ」
「いや、思ってなくても事実そうだった。だって、アタシが人間の姿に戻れていれば、弾丸も塗薬も消費を抑えられたはずなんだから」
そう言って、アンバーは私の頬をそっと撫でてきた。
彼女の手にまとわりついたキャットニップの香りが、疲れた心身に馴染んでくる。
何処かぼんやりとしてしまうわたしに覆いかぶさり、アンバーは続けた。
「でもま、あんたがそう言ってくれるなら少しは気が晴れる。死人使いはもういない。館の調査も、遺体の回収も、あとは順調に進んでいくだけだろうし、警戒すべきは奴と奴の飼い猫だけだね」
そして、アンバーはそっと唇を重ねてきた。
柔らかなその感触を受け入れると、心から安堵が広がった。
本当に無事で良かった。
だが、その安堵と温もりに縋りついているうちに、脳裏を過ったのがルージュの顔と、死人使いの姿だった。
──魔物は魔物。
その言葉が頭を過ると、急に怯えが生じた。
アンバーに体を委ねるのが少し怖いと感じてしまっている。
その事を自覚し、自分で驚いてしまった。
アンバーは大丈夫だ。
彼女たちとは違う。
不安を払い除けたくて、私は心の中で自分に何度も言い聞かせ、誤魔化したくて、私は服を脱がそうとしているアンバーに声をかけた。
「ねえ、アンバー。ルージュの事だけど」
「なんだ? 奴が見ているか気になるのか?」
「それも気になるけれど、違うんだ。どうして、ルージュは助けてくれたんだと思う?」
「ああ、その事か。奴も言っていたじゃないか。死人使いが約束を破ったから。アタシだけじゃなく、あんたまで人形にしようとしたからだって」
「そう……そうだね」
思い返せば、あの猫の行動も納得がいく。
何故、あれほどまでに外に出たがったのか。
外に出る機会があったのに出ようとしなかったのは、私と一緒でなければいけなかったからなのだろう。
そう、あの猫は、私だけを外に出そうとしていた。
けれど、私がことごとく諦めようとしなかったから、仕方なくアンバーのいる場所まで案内したのだろう。
それが猫自身の判断なのか、ルージュの指示なのかは分からない。
いずれにせよ、ルージュが私たちを引き裂こうとしていたのは確かなことだ。
「ねえ、アンバー」
私はアンバーの手を握りながら訴えた。
「死人使いが君に興味を持ったのはルージュのせいだ。ルージュは君を罠に嵌めて、私たちを引き裂こうとした。彼女の敵意が君に向いている」
「そんなの今更だよ」
アンバーはそう言って、私の首筋に触れてきた。
そこには古傷がある。
ルージュに噛みつかれて出来た痕が。
その傷跡の上からやや強めに爪を食い込ませながら、アンバーは語り掛けてきた。
「あんたを取り戻しに行こうとした時にさ、組合の連中に言われたんだ。吸血鬼は野生動物のように執着心が強い。獲物を横取りしようものなら一生恨まれるだろうって。だから、あの時からアタシは覚悟しているんだよ」
「……でも、私は怖いんだ。君がルージュに殺されてしまうんじゃないかって思うと」
「だとしても、だから何だって言うのさ。まさか、あんたを奴に渡せなんて言うわけじゃあるまい。仮にそう思っているのだとしても、そうはいかないよ。あんたはどこかの悪い狼に言い包められて、その体を自由にさせてしまったわけだからね。その悪い狼の許可なく逃げ出すことはできないんだ」
脅すような言葉ながら、アンバーの口調には優しさがあった。
そんな彼女の言葉によって、気づかないうちに心に突き刺さっていた無数の針を一本一本抜いて貰ったような痛みと心地よさを覚えていると、アンバーが溜息を洩らしながら囁いてきた。
「大丈夫。アタシはいなくなったりしないから」
その約束に静かに頷くと、アンバーはほっとしたように私の髪を撫でてから呟いた。
「キャットニップのせいかな。そろそろ我慢できなくなってきた」
そして、外気に触れたばかりの私の肌に唇を重ねてきた。