12.黒猫の飼い主
館の門にようやくたどり着くと、そこではすでにあの黒猫が待っていた。
扉をがりがりと掻いて開けて欲しいと訴えてくる。
歩み寄っていき、鍵を開けたその音が響き渡った瞬間、一瞬だけ肩の荷が下りたような気持ちになった。
しかし、まだ安心はできない。
この猫からアンバーが感じるという、ニオイの原因が分からない限りは。
死人使いに対して妙なことを吹き込んだその張本人が見つからない限りは。
それでも、扉を開けると夜風が私たちを出迎えた時は、その寒気が妙に心地よかった。
早く帰りたい。
そんな気持ちが高まる中、黒猫は楽しそうに駆けていく。
猫の後を追おうと続いたその時、背後からアンバーが私の腕をぎゅっと掴んできた。
その強さに一瞬怯んだものの、何故なのかはすぐに理解できた。
黒猫が走っていったその先に、人影があったのだ。
月光がその姿を浮かび上がらせる。
私たちの見つめる前で、彼女は猫を抱きあげて、私たちへと視線を向けてきた。
猫と同じように目を光らせる彼女。
その姿をまともに見た瞬間、全身に寒気が走った。
──ルージュ。
アンバーの手にさらに力がこもる。
その力に抗うこともままならぬ中、私はただ、月光の下のルージュの姿に見惚れていた。
ルージュは落ち着いた様子で目を細めた。
黒猫を抱えて背中を撫でながら語り掛けてくる。
「良かったわね。二人一緒に帰って来られて」
そんな彼女に対し、アンバーが問い返した。
「そいつは、あんたの飼い猫か?」
「そうよ」
ルージュは短く答えつつ、その視線は私に向いたままだった。
「まだまだ未熟者のくせに危険な場所に向かうようだったから、せめて道案内をお願いしたの。ちゃんとお仕事をしてくれたようで良かったわ」
「危険な場所ねぇ」
アンバーはさらに問いかける。
「地下にあんたが殺したと思しき犠牲者の遺体があったみたいなんだが、運んだのはあんたじゃないのか?」
「いいえ、違うわ。空腹を満たすためだけの獲物の死体で遊ぶ趣味なんて私にはないの。あの子が欲しがっているようだったから、くれてやっただけよ」
「殺したのはあんたで間違いないわけだな」
アンバーはそう言って、銃に手を伸ばした。
その動きが伝わり、私もまた冷静さを取り戻した。
アンバーの手をすり抜けると、共にルージュの魔性を振り払い、アンバーに倣って私もまた銃に手を伸ばす。
吸血鬼を殺せる対魔物用銃弾はまだ残っている。
その銃口をアンバーよりも先に真っすぐ向けると、ルージュは落ち着いた様子で口を開いた。
「私で間違いないわ。本当は殺したくないのよ。でも、吸血鬼だって生き物。生きていくには食べなければいけないもの。ねえ、カッライス。どこかの誰かさんが逃げ出したせいで、一体何人の人たちが私に殺されてしまったのか覚えている?」
彼女の視線がこちらを向いたその瞬間、アンバーが引き金を引いた。
ルージュは見切っていたようで、わずかな動きでそれを避けてしまった。
それでも、アンバーは動じなかった。
獣のように光る眼でルージュを睨みつけていた。
「アタシの許可なくカッライスに話しかけるな」
その猛り声に対し、ルージュは嘲笑う。
「それは独占欲? やっぱりあなたも私と一緒ね。魔物は魔物らしく。人間の皮を被っていても、その本能からは抗えない。だからこそ、いつまでも放置はできないわ。あなたがいつか本能に負けて、その子を生きたまま食べてしまう前に、私が止めてあげないと」
そんな彼女の言葉に、アンバーは振り絞るように言った。
「アタシはそんなことしない。アタシは、あんた達とは違う!」
感情的なその声が気になって、私はそっと囁きかけた。
「アンバー、落ち着いて」
だが、本当に落ち着きたいのは自分の方だった。
アンバーはルージュたちとは違う。
それは、私が常々、アンバーに対して寄せている信頼でもある。
ペリドットたちもそれを期待して、赤ん坊だったアンバーを殺さずに育てることを決めたのだ。
その期待は実り、アンバーは無事に人間らしく過ごすことが出来ている。
それでも、ふとした瞬間に恐ろしい未来を考えてしまう事はある。
いつか、アンバーの中に眠る狼の血が完全に目覚めてしまう日が来てしまったら。
──あなた達だって同じよ。
ロッキングチェアに座らされた少女人形。
友人だったという彼女と共に暮らしてきた死人使いは、どんな気持ちでその言葉を私たちに向けてきたのだろう。
その眼差しは思い出せても、心情までを確かめる術はもう何処にもない。
私たちの動揺は隠せなかったのだろう。
銃口を向けられていても、ルージュは実に堂々としていた。
けれど、幸いなことに、彼女の方は戦う意思を見せて来なかった。
何処か不安そうな表情の黒猫を抱いたまま、私たちを睥睨するように見つめて、夜の闇に吸い込まれてしまいそうなほど小さく、けれど、しっかりとこちらまで聞こえる声で、囁いてきたのだった。
「憐れなものね。獲物と捕食者が絆を深め合い、愛し合ってしまうなんて」
猫を撫でながら彼女は言う。
「同じような人たちを、私はこれまで何度か目にしてきた。皆、同じよ。この館に暮らしていた死人使いのような結末を迎えていたの。私も同じ。かつては純粋に愛した人間の子だっていた。でもね、結局は抗えないのよ。アンバー。あなたに相応しい相手は人間じゃない。同じ魔物として助言してあげましょうか。獲物を伴侶にしてはダメよ。その選択は、あなたから自由を奪ってしまう」
「うるさい、黙れ!」
アンバーは再び発砲した。
弾はまたしても当たらない。
ただただルージュの冷たい眼差しがこちらに向けられるだけ。
その視線を前に、アンバーは興奮気味に呼吸を荒くした。
この時の彼女には私との約束なんて記憶もすっかり抜け落ちてしまっていただろう。
私だってそれを止められなかった。
それだけの威圧感がアンバーにはあったし、それに、私自身がルージュの言葉に動揺していた。
魔物は魔物。
人間は人間。
共に暮らすなんて不可能だ。
その結論のもと、アンバーを育てる事に反対した組合員は、何かとアンバーに対して嫌味を言っていたジルコンだけではない。
あんな捻くれ者のみならず、魔物が人間と共に暮らすこと自体を不幸だと考える者はたくさんいる。
実際にアンバーと旅をしてきて、私自身も迷う事はある。
満月の日、ベッドの中に潜り込んで、同行する私に対して申し訳なさそうに身を隠しているその姿を目にする度に、これでいいのだろうかと思ってしまう事はある。
もしも、アンバーがのびのびと暮らせる世界があったなら、私なんかと一緒にいなかったなら、もっと自由に過ごせるのではないだろうかと。
「仕方ない子たちね」
ルージュは言った。
「ならば、暫くの間、私が手塩に掛けて育てたその子の温もりを楽しんでなさいな。でも、忘れないで。欲望のままにその子を殺すような事があれば、あなたは生まれてきたことを後悔する事になるでしょう。私との約束を忘れて暴走した死人使いのように楽に死ねるとは思わない事ね」
やっぱり、ルージュがやったのだ。
その言葉で全てを察した。
だが、それ以上、ルージュは語ろうとしなかった。
夜風を浴びて澄ました表情に戻ると、彼女は私たちに対して告げた。
「今日はこのくらいにしましょう。せっかくの機会だけれど、お腹がいっぱいなの。次に会う時には相手してあげる。だから、くだらない魔物にやられたりしないでね」
微笑みながら猫ともども姿を消そうとする彼女に、私は慌てて呼びかけた。
「逃げるな、ルージュ!」
しかし、その声は何の効力も生み出さなかった。