4.対抗心を燃やして
さて、ペリドットの元に引き取られて初めて知った自分の特徴がある。
それが、負けず嫌いであることだ。
ルージュの屋敷にいた頃は、同じくらいの年齢の子供と接する機会なんてなかった。
あの屋敷は殆どの場合、ルージュと私の二人だけの世界であった。
幼い私にとってルージュは絶対的存在であって、競うなんていう意識すら持ったことがなかったのだ。
しかし、ペリドットの元にいたアンバーは違う。
私にとって生まれて初めて深く接することになった同じ年頃の少女だったのだ。
それゆえに、アンバーには出来て自分には出来ないことについて強く意識するようになったのだ。
読み書き計算もそうだった。
こちらは頑張れば頑張るほど追いつける自信があった。
アンバーはどうやら机に向かって集中するのがあまり得意でないらしい。
それに、満月の日は日の出から次の日の出まで狼の姿になってしまう。
どうやらこの状態のアンバーは心身共に参ってしまうようで、東側の小部屋に閉じこもってじっとしている事しか出来ないらしい。
私にとっては勉強面が追いつく絶好の機会でもあったが、好きで人狼に生まれたわけではないアンバーに対し、少し申し訳ないような気持ちにもなった。
だが、このハンデを差し引いても、当時の私にとってアンバーは高い壁だった。
特にその差を感じてしまうのが、身体能力に関することだった。
もともと、屋敷に引きこもって過ごしていた私にとって、赤子の頃からペリドットの元で育ったアンバーの体力は比べることすら恥ずかしくなるくらいの差を感じていた。
後に知ったことだが、そもそも人狼の身体能力は、普通の人間よりもずっと優れているという。
少女であっても成人男性と変わらない筋力や持久力があるというから驚きだ。
けれど、当時の私はそんな事も知らずに、ただただ追いつこうと必死だった。
努力を重ねれば、いつかこの差は埋まると本気で信じていたのだ。
そんな私をペリドットやアンバーはどんな目で見つめていたのだろう。
時折、ペリドットは私を諭すように言った。
人には向き不向きというものがある。
鹿や兎がどんなに跳ねても鷹のように飛ぶことは出来ない。
賢く生きるためには、まず自分の持つ能力を正しく理解しなくてはいけないのだと。
今なら理解するのも難くない、ごく当たり前の教えである。
それでも、当時の私にとってその言葉を素直に受け止めるのは大変難しいことだった。
アンバーに出来て、自分には出来ないものがある。
それを認めることが、天性の負けず嫌いであった私にはとんでもない難問だったのだ。
おかげで私は随分と遠回りをする羽目になったと思う。
人狼と人間の間にはとんでもない差があると心と体で理解できるようになるまでには、少なくとも数年の月日を要したからだ。
だが、それまでやってきた足掻きの全てが無駄であったわけではない。
アンバーに負けたくない。
何か一つでも勝ちたい。
そんな思いで重ねた努力が最初に実を結んだのが、的当ての成績だった。
ペリドットお手製の木製の銃とコルク弾を使って行う子供向けの訓練は、遊び感覚で楽しめるものでありながら、修行としてしっかり成立していた。
案山子や小さな木の的を相手に行うこの訓練において、アンバーは素早く撃つ事を重視していた。
そして、同時に打つたびに必ず動き回っていた。
案山子や木の的のように動かない相手には意味がないのだが、実際に動く相手ならば、これで回避と攻撃が同時に素早く出来るというわけだ。
便利そうだがその動きはどんなに真似しようとしても、私のような少女──いや、そもそも人間の子供自体に恐らく不可能なものだった。
しかし、彼女のその戦法には短所もあった。
命中率がさほど高くない事だった。
練習用の銃は一度に五発のコルク弾を撃つことが出来る。
そのうちの三発が当たればいい方で、調子が悪い時は一発しか当たらない時もあった。
その度にアンバーはペリドットに叱られるのだ。
「いいかい、アンバー。実戦で使う対魔物用弾丸はコルク弾のように何度も撃てるわけじゃない。おまけに通常の弾丸と比べて非常に高価だ。依頼によってはこの五発で仕留めなくてはいけない事もある。その五発をすべて外したら、君はどうする?」
「うーん、肉弾戦するしかないかな。こうやって町にいる野良猫みたいにさ」
そう言ってシュッシュッと拳を振り始めるアンバーを前に、ペリドットは実に大きなため息を吐いた。
「肉弾戦で勝てる相手ばかりだったらどんなにいい事か。いや、そうじゃなくてね、アンバー。そもそもミスをしないように練習しなくてはいけないんだよ。君は興奮すると無駄に動き回る。人懐こさが玉に瑕な猟犬のようにね。その気持ちをどうにか抑えて、動きを少なくするんだ」
「えー、そんな事出来るかなぁ」
自信なさげに言うアンバーだが、訓練を始めたばかりの私に比べればずっと先を行っていたのは間違いない。
彼女だって努力さえすればペリドットの注文以上の動きが出来るようになったはずだ。
だが、飽き性でここぞというところで怠け癖があるのもアンバーの特徴だった。
素の人間──それも女性であるペリドットの指導など、恵まれた身体能力を持つアンバーにとってみれば少し頑張れば出来てしまうからこそ、そうなってしまったのだろう。
結局、彼女の癖は大人になってもあまり変わらなかった。
しかし、だからこそ、私にとっては追いつくための絶好の機会だったのだ。
アンバーが怠けている間に、私は何度も練習を重ねた。
素早く撃つ事よりもまずは正確さを重視し、五発のコルク弾を全て狙った場所に当てることを目標にした。
欠点があるとすれば、時間がかかりすぎるという事だろう。
もたもたしている間に襲われたり、逃げられたりしてしまう可能性だってある。
だが、これは訓練であったし、当時の私はまだ練習用の銃を握って三か月も経っていなかった。
それゆえに五発を全て狙い通りに命中させた私を、ペリドットは真っすぐ褒めてくれた。
「すごいね。全部狙い通りだ。これも天性の才能ってやつかな」
ペリドットに褒めちぎられて照れる私の横で、アンバーは唇を噛んでいた。
お叱りのあった後だったからだろう。
腕を組みながらアンバーはちらりと小言を挟んできたのだ。
「確かにすごいけど、でも、あんなに遅いんじゃダメだよ。じっとしながら慎重に撃つならせめて身を隠しながらじゃないと。そうでしょう、師匠?」
「それはそれ。カッライスはまだ修行を始めたばかりだからこれでいいんだよ」
軽く笑いながらペリドットはそう言った。
フォローしてくれたのだと当時の私でも分かったのだが、それを聞いて途端に誇らしい気持ちは引っ込んでしまった。
ベテランはこれで満足してはダメなのだという気づきが、私の安堵を奪ったのだ。
「じゃあ、隠れながら撃つ練習をしたい」
我慢できずに私はすぐにそう言った。
だが、ペリドットはそんな私を諭してきた。
「焦っちゃいけないよ。地道に思えても、一歩ずつ確実に。近道をするつもりが遠回りになってしまう事だってあるからね」
大人になってしまった今でも分かる。
あの時のペリドットの言葉もまた正しい。
だが、正しい言葉がそれだけで、すぐに子供の道標になってくれるとは限らない。
アンバーという身近なライバルがいた事は、今に至るまでの私の人生にとって間違いなく幸運な事なのだが、身近なライバルがアンバーしかいなかったという事は、当時の私にとって非常に不幸な事だった。
銃の命中率という唯一アンバーに勝てる部分に自信が持てるようになってきても、いや、寧ろそうなって以降の方が、私の劣等感は増大していった。
成長するごとにアンバーは優れた身体能力を自慢げに見せつけてくるようになっていった。
それが一年も続く頃には、出会った当初、人狼として生まれた身の上に同情したことなんてすっかり忘れてしまっていた。
羨ましいし、妬ましい。
その気持ちは思春期という難しい年頃に差し掛かっていた私にとって、深刻な悩みとなっていった。