11.魔物と人間
「いったい誰が……」
どんなに思い返しても、分からない。
目撃していたのは私のはずだが、その姿は全く見えなかった。
だが、誰かがここに居て、アンバーのナイフを拾って持ち歩き、私に気づかれない状態で死人使いを背後から刺したという事。
さらにもう一つ、はっきりとしていることがある。
その人物は、死人使いに通用する毒を持っていたということだ。
じっと眺めていると、着替え終わったアンバーが近寄ってきた。
共にしゃがみ込むと、躊躇いもなく死人使いの背中に刺さったナイフを抜いてぐるりと回す。
その臭いを軽く確かめると、眉を顰めて呟くように言った。
「微かにだが、覚えのあるニオイがする」
「覚えがある? いったい何のニオイなの?」
食いつくように問い返したものの、彼女の反応は鈍い。
考え込むような表情のまま、ナイフについた血を服のポケットに入っていたらしき布切れで拭ってしまうと、ナイフをケースにしまいこんだ。
そして、ようやく答えてくれた。
「言っておくけど、似ているってだけだからな」
「……うん」
高まる鼓動を抑えながら頷くと、アンバーは言いづらそうに答えたのだった。
「あんたの首筋につけられた古傷のニオイと一緒だ。奴のニオイさ」
奴。
それだけで十分すぎた。
ルージュが近くにいる。
そう思った途端、視界が一気に狭まった。
反射的に立ち上がり、私は周囲を見渡した。
しかし、そこには私たち以外は誰もいない。
私とアンバーとそして黒猫だけ。
他にいるとすれば、倒れ伏した死人使いと、彼女が操っていた人形たち、そしてロッキングチェアに座らされた彼女の友人のみ。
それでも、まだ近くにいるかもしれない。
そう思って歩みだそうとしたその時、アンバーに肩を掴まれた。
「待て」
「放してよ、アンバー。急いで探さないと」
「これだから言いたくなかったんだ。いいか、カッライス。今のアタシたちじゃ、奴の相手は無理だ」
「どうして?」
「どうしてってあんた。分かるだろう。こいつの相手で銃弾も、ナイフの塗薬も消費しちまっている。その上、今は夜だ。夜は魔物の時間。そりゃ、アタシにとっても有利な時間だけどさ、あんたは違うだろう」
はっきりとそう言われ、私は思わず振り返った。
だが、言い返すことは出来なかった。
アンバーの言う通りだ。
今の状況でルージュとやり合うのは非常にまずい。
死人使いで疲弊しているというのもあるし、そのメリットをルージュが気づかないはずもない。
そもそも、こうなるように仕向けたのだって彼女であるかもしれないのだから。
分かっている。
撤退しかないのだと。
しかし、心苦しかった。
ルージュに会いたいという気持ちが複雑に絡み合っているせいだろうけれど、それだけではなかった。
私はアンバーとは違う。
子供の頃から当たり前だったその事実が、この時は大きく圧し掛かってきたのだ。
思い出すのは、死人使いの言葉だった。
──あなた達だって同じよ。
いつかこの関係は壊れてしまう。
ルージュに壊されるまでもなく。
その恐怖がじわじわと心に侵食してきたのだ。
私が魔物だったら、もしくは、アンバーが人間だったら。
考えても仕方のない事を悔やみ始めたその時、アンバーが不意に私の体を引き寄せてきた。
「聞いているか、カッライス?」
覗いこむように窺われ、私は慌てて目を逸らした。
「ごめん、聞いているよ」
そんな私の顔をさらに見つめると、アンバーは静かな声で言った。
「姿も無事に戻ったし、さっさと町に戻ろう。遅めの夕食を取ってから、その後はまたお呪いをかけてやるよ。奴を探すのはその後……明日になってからだ。そうしてくれ」
「……分かった」
これが自分の意思に基づく同意なのか、アンバーの術にかかって言わされたのか、振り返ってみてもよく分からない。
ただ確実に言える事は、何度考えてもアンバーの言葉に従う事こそ最善策だと判断しただろうという事だ。
手早く荷物をまとめてその場を去り、出口を目指しながら落とした荷物を拾い集めながら、アンバーは仕切りに周囲を警戒しながら私に話しかけてきた。
「あのさ、これは神経質になっているせいなのかもしれないんだけどね」
「なに?」
「その猫ちゃんの事だよ」
指差したのは、私とアンバーの間で、当然のように一緒に歩んでいた黒猫だった。
「覚えのあるニオイがするんだ」
「さっきも言っていたね。思い出せた?」
「うーん」
悩みながらアンバーは黒猫を捕まえて抱き上げる。
だが、そのニオイを嗅ごうとしたところで、猫は暴れて私の足元まで逃げてきてしまった。
嗅げたのはわずかな時間だったが、それでも何か感じ取ったのだろうか。
さっきとは違う表情を浮かべて、アンバーは言った。
「やっぱり、似ている」
「似ている?」
「うん。話半分に聞いて欲しいんだけどさ、奴のところから取り戻した時のあんたのニオイに似ているんだ」
「……え?」
疑問に思い、私も猫を捕まえ、そのニオイを嗅いでみる。
幸い、アンバーの時とは違って猫は暴れなかったが、アンバーの言うニオイに関してはちっとも分からなかった。
「何も分かんないや」
「そうか。とはいえ、アタシも分かんないようなもんだ。同じニオイってだけじゃな。そこに何の意味があるのかまで分からないと……」
「ルージュのニオイってわけじゃないんだよね?」
猫を抱いたまま念のために問いかけると、アンバーはしっかりと頷いた。
「ああ、奴のニオイとはまた違うんだ。混じっているようではあるけれど」
その言葉を聞いて、私は猫の顔を見つめた。
猫も私を見つめてくる。
ただの猫ではないというのはもう分かっているが、その正体については見当もつかない。
しかし、思い返してみれば、この猫が私を庇っている間に、死人使いは背後から刺されたのだ。
まるで、猫と協力したかのように。
「ねえ、君。一体、何者なの?」
問いかけると、猫は困ったように「にゃあ」と答えた。
直後、暴れだして手元からすり抜けるようにして下りてしまうと、小走りに駆け出して先へと行ってしまった。
その後ろ姿をしばらく見つめていると、アンバーが肩に手を置いてきた。
「変な事、言っちゃったね。あの猫ちゃんが本当は敵か味方かなんて、今はどっちでもいいさ。襲ってくるかどうかが大事だからね。今はとにかく一緒にここを出よう」
「……うん」
とりあえず納得して共に歩みだしたものの、私の心の中は曇り空のようだった。
アンバーの言うニオイというものが、私にはさっぱり分からない。
せめて、アンバーのような嗅覚が私にもあれば、もっと色々と考えられるのにと羨んでしまう。
それに、毎晩のように肌を重ねている相手であろうと、他人の考えている事なんてその全ては分からないものだ。
今、何を感じ、何を考えているかは、せいぜい察することしか出来ない。
歩きながら私が思い悩んでいたのは、アンバーの心情だった。
彼女にはどのくらいの事が判別出来ているのか。
嗅ぎ取った情報の何を私と共有し、何を隠しているのか、そういう事が気になって仕方なかった。
この時に限らず今だってそうだが、アンバーは私の事を過剰に心配している。
二度も助けられたのだから仕方ないとは思うけれど、ルージュから私を遠ざけたいあまり、嗅ぎ取った情報の全てを教えてくれるわけではないという事は分かっていた。
この体をアンバーの手に委ねている時だって、度々ルージュがこっそり見ている事があると彼女は言うけれど、その時に教えてくれたことなんて一度もない。
いつも、ルージュが立ち去った後になってからしか、語ってくれないのだ。
それは、私のせいでもある。
ルージュの事になると頭に血が上って冷静さを欠くことがあるというのは、さすがに自覚している。
それだけに、悔しかった。
私も魔物だったら。
アンバーのような人狼だったら、今よりもずっと対等に、そして、お互いにのびのびと暮らすことが出来ただろうに。
そのような妙な事を考えているうちに、ようやく館の出口は見えてきた。