7.操られた相棒
黒猫と共に歩き続けてしばらく。
突き当りにあった扉をそっと開けてみて、そのまま暗い気持ちになった。
そこは見覚えのある場所だった。
螺旋階段だ。
そう、元の場所に戻ってきてしまったのだ。
がっかりしてしまった。
けれど、気を取り直さなくては。
ここまで歩いても尚、館の全ては見ていない。
となれば、アンバーもまだどこかにいるのかもしれないのだから。
階段へと抜け出すと、足元から猫がするりと抜け出して、私よりも先に前へと飛び出した。
そして、下の階へと少し向かうと、私を振り返って小さく鳴いた。
何だろうと灯りで照らしてみれば、そこにはきらりと反射するものがあった。
さっき通った時にはなかったように思う。
あったとすれば、気づかない事はないだろう。
黄金の輝き。
存在感を放つそれ。
近づいてみて、手に触れてみて、やはり間違いないことを確認する。
「アンバーの時計だ……」
そう、それは、アンバーが文句を言っていた懐中時計だった。
確かに、私の手元にはない。
握っているのは床に落ちていた衣服のみ。
貴重品なども拾う余裕がなかったのは確かだが、どうやらこの懐中時計はしばらくアンバーと一緒にいたのかもしれない。
首に引っ掛かっていたのが落ちたのだろう。
ならば、いつ。
考えが巡っていくにつれ、私は急に目が覚めるような気持ちになった。
希望がほんの少しだけ強まった。
この近くに、アンバーがいるかもしれない。
再び立ち上がると、黒猫が私より先に下の階へと向かっていった。
やはり、分かっているのだろう。
私が何を求め、何を探しているのか。
実に不思議な事ではあるし、少し不気味な事でもあるのだが、この時の私は藁をも縋る思いだった。
この猫が何者であろうと、何が目的であろうと、敵対せず、アンバーを見つける事に協力してくれるのならばそれで良かった。
共に下りていくと、その先には先ほども見た部屋にたどり着いた。
糸を切られた人形たちの姿は消えていたけれど、中央に置かれた台には処理の途中と思しき遺体がそのまま置かれている。
だが、それ意外に、先ほどとは違うところがあった。
「アンバー……?」
遺体の置かれた台の前で座っている獣。
大型犬のような後ろ姿だが、これまでずっと共にいた私が見誤るわけがない。
普段の髪色と同じ月光のような麦色の体毛を懐中電灯で照らすと、彼女はくるりと振り返ってきた。
いつものアンバーではない。
それは振り返ったその仕草だけでも、よく分かった。
振る舞いも、表情も、まるで本物の狼になってしまったかのようだった。
それでも、アンバーだ。
間違いなく、彼女だ。
再会できた喜びを必死に抑えつつ、私はアンバーに声をかけた。
「アンバー……私が分かる?」
すると、アンバーはじっと私を見つめてきた。
月に一度とはいえ、幼い頃から何度も見てきた姿だ。
それだけに馴染みがある。
だが、この時ばかりは恐ろしいものに思えてしまった。
それは、アンバーの表情に、彼女らしさが微塵も感じられなかったからかもしれない。
「お願い。正気に戻って」
無駄だと薄っすら分かっていても、そう呼びかけざるを得なかった。
さすがに、アンバーに対しては、銃もナイフも向けられなかったのだ。
こういう事が自分には出来ると迷いなく言えるのは、実際にそういう状況にいない時だけ。
その事を強く思い知った。
もしも、対魔物用銃弾が当たってしまったら、もしも、対魔物用ナイフが突き刺さってしまったら、考えだすと寒気がする。
普段ならば死と縁遠い吸血鬼を仕留められるようなこれらの武器は、勿論、人狼にとっても強力な毒となる。
誤って傷つけるような事があれば、アンバーを殺してしまう可能性だってある。
「君とは戦いたくないんだ」
しかし、願い虚しく、アンバーは動き出した。
どう見ても敵意のある表情をこちらに向けて、唸り始めたのだ。
「アンバー……」
呼びかけも通じない。
そのまま、アンバーは襲い掛かってきた。
囚われないように必死に避けて、間合いを取る。
向けたくはない銃口を向けて威嚇を示すも、アンバーはちっとも恐れていなかった。
「頼むよ。撃たせないでくれ」
じりじりと詰め寄られながら、私の脳裏に蘇るのは、幼い日の記憶だった。
ふざけあってアンバーと揉み合った日々を思い出す。
あの時ですら彼女の力は脅威だった。
ましてや、この状態であれば、本当に殺されてもおかしくはない。
それでも、撃ってはダメだ。
この銃弾は手加減なんてものを知らない。
掠り傷すら場合によっては致命傷となる。
少しでも生きていて欲しいと願う相手に向けるべきものじゃない。
死んでも構わないという相手にのみ撃つべき武器だ。
心を落ち着かせながら、私は武器をナイフに持ち替えた。
勿論、ナイフだって同じ。
体を傷つければそのせいで命を落とす可能性だってある。
「にゃあ」
端で見ていた猫が小さく鳴いた。
その視線はアンバーの方を向いている。
厳密にいえば、アンバー自身ではない。
その体にくっついている、糸だった。
教えてくれようとしているのだろうか。
思えば、最初にこの糸の事を教えてくれたのもこの猫だった。
糸を切れば、人形は動かない。
死体は死体に戻り、生きている者は魔物の支配から解放される。
「ああ、分かったよ。あの糸を切ればいいんだね」
猫に答えつつ、私はアンバーを見つめ続けた。
答えは分かっている。
だが、焦れば間違いなく負ける。
アンバーと自分の身体能力の差なんてものは、毎晩のように教え込まれてきた。
ここで一度抑え込まれれば、あとは食い殺されるのを待つだけとなるだろう。
普段のアンバーの力を分かっていればいるほど、絶望的な状況であることもまた分かってしまう。
それでも、希望を捨てきらないためにも、私は幼い日の記憶を蘇らせていた。
ペリドットのもとでアンバーと毎日のように競い合って育った少女時代。
たった一度だけ、アンバーを罠にかけ、降参させることに成功したあの日の事。
私とアンバーには確かに力の差があるけれど、だからと言って、彼女に勝つことが不可能であるわけではない。
あの時のように、状況次第では私にだって勝つことだって出来るはずなのだ。
「待っていて、アンバー」
その呼びかけにも、アンバーは唸り声でしか反応を見せない。
どうやら、言葉が話せないだけではなく、私のこと自体が分からなくなってしまっているようだ。
囚われればそれまで。
食い殺される可能性の方が高い。
しかし、状況が分かれば分かるほど、不思議と恐怖は薄れていった。
獣のように吠え、麦色の狼は襲い掛かってくる。
囚われないように避けながら、私はただひたすら彼女の体にまとわりついた糸を狙い続ける。
そんな攻防がしばらく続き、先に隙を見せてしまったのは、当然ながら私の方だった。
疲れを見逃してくれるほど甘くはない。
勝機を見出したのか、アンバーは襲い掛かってくる。
「アンバー!」
その体をどうにか突き飛ばし、距離を置いて、呼吸を整えながら、それでも私は縋りつくように希望を抱き続けた。
「君を取り戻せないのなら、ここで死んだ方がマシだ!」
ナイフを手にそう叫んだその時、不思議なことが起こった。
止めを刺さんと飛び掛かってきたアンバーの体が、不自然にぐらついたのだ。
足を滑らせたのか、体をねじらせすぎたのか、ともあれ、これが好機でなければ何であろう。
瞬時に冷静さが宿り、私は彼女に接近した。
そして勢いのままに、彼女の体にまとわりついていた糸を切断した。
直後、アンバーの体がぴんと弓なりになった。
そして、その口から声が漏れ出した。
「あっ……」
人の言葉だ。
間違いない。
いつものアンバーの声だった。
そのままアンバーはがくりと項垂れ床に倒れる。
「アンバー……アンバー?」
必死に呼びかけながら、いまだ狼のままの頬に手を添えると、程なくして彼女の目の焦点がしっかりと定まった。
「カッライス……? あれ、ここは──」
その様子からして、もう心配はいらないようだった。
「良かった……本当に良かった」
涙と汗が滲んでくる顔を手で覆っていると、状況を少しずつ把握したのかアンバーはがばっと起き上がった。
「あいつは?」
「分からない。探していたら君だけがここに居たんだ」
「そうか……そうか……アタシ、あんたに助けられたのか」
そう呟くと、アンバーは再び床に身を横たえた。
そして、狼の姿のまま人間の時と同じように笑った。
「まさか、カッライス、あんたに助けられるなんて。参ったなぁ。でもそうか。見捨てずに助けてくれたんだね」
「安心するのはまだ早いよ。ここから逃げないと」
「ああ、分かっているさ。どうやら厄介な魔物みたいだからね」
「多分だけど、死人使いだろう。どうやら君を気に入っているみたいなんだ。随分と怒っているだろうね」
「参ったなあ。モテる女は辛いね」
「冗談言うのも後にして。さあ、帰ろう」
と、そんなやり取りをしたところで、割り込んできた者がいた。
あの黒猫だ。
お忘れではないかと言わんばかりに顔を覗かせて、狼の姿のアンバーをじっと覗き込んできた。
「ん、その子は……玄関の所にいた猫ちゃん?」
「この子がずっとついて来てくれたんだ。ただ単に外に出たいのかと思っていたのだけど、色々と案内もしてくれた。君を見つけられたのはこの猫のお陰かも」
「へえ。変わった猫ちゃんだね。そっか。それならあとで、ご褒美でもあげようか」
「ご褒美?」
「キャットニップの香水だよ。猫科の魔物対策に調合したやつ。嗜好品としても使える事は野良猫で実証済み。ご褒美にちょうどいいはずさ」
「キャットニップ。キャットニップね」
その単語に変な事を思い出してしまったのは内緒だ。
アンバーとの関係が今みたいに歪んでしまったきっかけの日の事。
彼女はもう忘れてしまっているかもしれないけれど、あの日一緒に飲んだハーブティーはキャットニップだった。
それはそうと、この会話すら猫は理解してしまったのだろうか。
キャットニップと聞いた途端、猫は目をぱちりと開き、アンバーの顔を凝視した。
まるで期待しているかのよう、というのは考えすぎだろうか。
どちらにせよ、この時のアンバーの姿すら恐れていないあたり、ただの猫ではないのは確かだった。
「さて……色々と問題はあるようだが」
と、アンバーは起き上がって台の上の死体を見つめ、そして、次に私を見上げてきた。
耳を動かし、尻尾を動かし、その場でぐるりと一回転すると、大きく溜息を吐いてから、こちらに告げてきた。
「困ったな。姿が戻せない」
「えっ……普段はどうしているの?」
「どうしているのだったか。いつもは気づいたらオオカミで、気づいたら人間だから」
「そっか。それなら、戻るのは町じゃないね。近くに組合の拠点があったはずだから」
「ああ、悪いがそうしよう。猫ちゃんもおいで。キャットニップはそこであげるからさ」
アンバーがそう言うと、黒猫は返事をするように鳴いた。
そして尻尾をぴんと立てると、アンバーの横にぴったりとくっついて歩き始めた。