3.少女の姿をした何か
町の子供が迷い込んできたのだろうか。
一瞬だけでもそう思ってしまったのは、きっと安心したかったからだろう。
いや、そんなはずがない、と、自分に言い聞かせるまでの間、彼女は不気味ながらも無垢とも言える眼差しで、私たちを見つめてきた。
少女。
これまで地元の住民に目撃されていたというあの少女なのだろうか。
その腕には人形が抱かれている。
違和感のあった、あの道化師の人形だ。
何者だろう。
探るより先に、アンバーが身構えだした。
自慢の嗅覚が、何か捉えたのだろうか。
「ここは、あんたの縄張りか?」
アンバーが少女に訊ねる。
言葉は通じるらしく、彼女はこくりと頷いた。
「そうか。それなら聞きたいことがある。外に人間の遺体があっただろう。どこへ消えたか見ていたんじゃないのか?」
すると少女は首を傾げ、ぽつりと零すように呟いた。
「あなたが、オオカミさんね」
非常な可憐な声だった。
「ねえ、そうでしょう。あたしには分かる。待っていたの。優しいオオカミさんを」
「何を言っている。まずは質問に答えな」
アンバーは声を低め、銃を向けた。
猛々しいが、焦りがある。
勿論、私も冷静ではいられなかった。
彼女は何者だろう。
アンバーにはもう分かっているのだろうか。
私にはまだその正体が分からない。
分かっているのは人間ではない事だけ。
まだ、ペリドットのもとで学んだ代表的な魔物たちの知識と必死に照らし合わせている最中だった。
そんな私たちを前に、少女は目を細めた。
「隠しても無駄よ。だって、綺麗なお姉さんが言っていたもの。ここに優しいオオカミさんを連れて来てくれるって」
「綺麗なお姉さん?」
思わず問い返した。
「それってどんな人?」
すると、少女は私にどこか冷たい一瞥を向けてきた。
「あなたには教えてあげない。あたしが欲しいのはオオカミさんだけだもの。あなたは出て行ってもらわないといけないの。お姉さんと、そう約束したから」
すぐに理解した。
彼女には敵意しかない。
それに、今のやり取りで少し察するものがあった。
ルージュの犠牲になったと思しき遺体が消えた件。
恐らくこの少女は関係がある。
だが、分かったのはここまで。
「アンバー……」
そっと囁くと、アンバーは微かに頷いた。
「ああ、分かっているさ。戦わない。出口まで全力で」
「うん」
館の中の構造を全て完璧に記憶してしまったという自負は一切ない。
だが、少女が道を塞ぐ場所から出口に繋がっているという事はちゃんと覚えていた。
さほど遠くはなかったはずだ。
けれど、ここからそちらを目指すとなると、どうしても少女に向かっていき、攻撃すると見せかけてすり抜ける必要があった。
出来るか。
いや、やらねば。
同じような状況はこれまでだってあった。
依頼のあった狩りがいつだって隠れ潜みながら遂行できたわけじゃない。
面と向かって銃を向け、時には逃げなくてはならない事だってあった。
今回も同じ。
ただ少し違う事は、いまだに私がこの少女の正体を見抜けていなかった事くらいだ。
「行くぞ」
アンバーの声を合図に、私たちは走り出した。
少女は微動だにしない。
ただじっと私たちの動きを見つめ、その場にとどまっている。
ならば好都合とその横をすり抜けた。
通り過ぎて私はすぐに振り返り、少女の様子を確認した。
と、そこで、違和感に気づいた。
「アンバー?」
共に走ったはずのアンバーが、途中で蹲っていたのだ。
傍らにはあの少女。
アンバーの手を握り、私の方をじっと見つめている。
アンバーはがくがくと震えながらどうにかこちらを見つめ、掠れた声で訴えてくる。
「カッライス」
その名に相応しい色の目が、怪しく光るのを感じた。
「逃げて……」
その直後、今度は少女の目が光った。
それに応じるように、アンバーの姿が変わる。
何に、と言うまでもない。
よく見慣れた姿。
だが、満月の日にしか見ないはずのその姿。
いつもならば親しみすら感じるはずのそのオオカミの姿で、アンバーはこちらを睨みつけてきた。
「アンバー……どうしたんだ……」
何が起こっている。
理解が追い付かず狼狽える私に、少女は言った。
「出来ればあなたには一つも傷をつけたくないの。お姉さんがそうして欲しいって言ったから。でも、言う事をきかないのなら、ちょっと脅かしてやっていいとも言っていた」
そして、少女が手を振るうと、何処からともなく数体の人形たちが落ちてきた。
人形。
この時はすぐにそう判別したのだが、果たしてそうだっただろうか。
今思い返すと、あれらはただの人形ではなかったかもしれない。
だが、この時の私はそれどころじゃなかった。
アンバーの様子がおかしい。
どうにかして連れ帰らないと、と、そればかりを考える私に対し、少女は呆れたように言ったのだった。
「分かってくれないのね。それじゃあ、仕方ないわ」
そう言って彼女が手を前に突き出すと、さらに数体の人形たちが天井から落ちてきた。
人形たちは私に向かってくる。
意思を持ったように襲い掛かってきた。
すぐに応戦しようと銃を向けるも、頭を、胴を、足を正確に撃ち抜いても動きは止まらない。
すぐさま接近されて、体を抑え込まれる。
どうにかナイフで応戦しようとしたが、間に合わなかった。
そして、そんな事をしている間に、少女はオオカミの姿をしたアンバーの頭を撫でて、何かを話しかけていた。
「アンバー」
必死で呼びかけたが、アンバーは見向きもしない。
「ねえ、アンバー。聞こえているんでしょう?」
振り向きもしなかった。
少女はちらりと私を見つめると、目を細めてからアンバーに声をかけ、歩み去っていく。
すると、アンバーはオオカミの姿のまま立ち上がり、彼女の後について行ってしまった。
「待ってよ、ねえ、待って!」
多分、この時すでに私は分かっていた。
どんなに呼びかけても無駄なのだと。
今のアンバーは、いつものアンバーじゃない。
あの少女の怪しげな術中にいて、操られているのだと。
そう、私を拘束している人形たちのように。
「駄目……駄目だよ、アンバー、行かないで!」
願い虚しくアンバーの姿は遠ざかっていく。
そしてとうとう、少女と共に館の奥へと消えてしまった。
少女の姿が遠ざかると、私を取り押さえていた人形たちが急に力を失った。
天井に再び吊り上げられ、跡形もなく消えてしまう。
急に拘束が解けて床に膝をつきながら、私は周囲を見渡した。
周りにはもう何もない。
何処にも人形たちはいない。
あれもまた少女の怪しげな術だったのだろう。
では、彼女は何の魔物なのか。
何者であれ、こうなってしまった以上は見逃せない。
戦ってでも、アンバーを連れ戻さないと。
だが、どうにか這いつくばって再び起きようとしたその時だった。
「にゃあ」
猫だ。
項垂れる私の背後から鳴きながら走り寄ってきた。
館の入り口にいたあの黒猫だった。
鍵をかける前に、忍び込んでしまったのだろうか。
一瞬だけ、あの少女の手先なのではないかと身構えたが、そんな事はないようだった。
何処からどう見ても、作り物ではない。
正真正銘、生きた猫だった。
「見ていたんだね」
手を伸ばすと、黒猫は近寄ってきた。
黄金の目で私の顔をじっと見つめると、再び「にゃー」と答えるように鳴いた。
まるで言葉が分かっているみたいだ。
その様子に心細さが手伝ったのだろう。
気づけば私は猫に向かってさらに声をかけていた。
「どうしよう、相棒が連れて行かれちゃった」
首を傾げる黒猫を前に、私は項垂れるしかなかった。
急いで追いかければ追いつくかもしれない。
けれど、すぐに立つことが出来なかった。
人形たちの拘束がそれだけ強かったのか。
魔術に当てられた影響か。
はたまた私の心の問題か。
いずれにせよ、自分が情けなかった。
「ねえ、何処に行ったか知らない?」
問いかけると、猫は何かを考えた後、再び「にゃー」と鳴いた。
分かっているかのような反応に一瞬だけ期待してしまう。
だが、猫は私の真横を通り、少女の消えた方とは反対側へ──館の玄関のあるはずの場所へと向かおうとした。
その姿を見て、私は理解した。
外に出られなくて困っていたのだろう。
「ごめん……まだそっちには行けないや」
猫にそう言ったところで、私はようやく立ち上がることが出来た。
「あとで出してあげる。だから、そこで待っていて」
そして、少女の消えた方向へと歩みだすことが出来た。
途中でアンバーの服を拾い、温もりの残るその感触に縋りながら先へと向かう。
そんな私のもとへ猫は慌てたように再び駆け寄ってきた。
ついて来るつもりらしい。
非常に危険だが、追い払う気にもならなかった。
寧ろ、この時の私には、この小さな猫の存在すら妙に心強かった。
猫を引き連れたまま、私は少女の消えた先へと歩いて行った。
そして、歩きながら必死に、思い出そうとしていた。
あの少女。
あの魔物の正体は何だったか。
ペリドットから教わった知識を必死に引っ張り出していた。