13.秘密の繋がり
足音が聞こえ、アンバーが近づいて来るまでの間、私は全く動けずにいた。
冷たい地面の上で取り残され、不安な気持ちに苛まれる。
けれど、そんな状態の中、妙な存在感を放っていたのが、ルージュによってこの手に握らされていた何かであった。
それが何なのか確認する気力すらない。
そこへ、アンバーは駆け寄ってきた。
「カッライス……!」
息を詰まらせながら駆け寄ってきた彼女の姿が見えた瞬間、ようやく緊張が解けた。
助かった。
素直にそう思うことが出来た。
「アンバー……やつは……ルージュは……?」
抱き上げられ問いかける朦朧としながら私に、アンバーは吠えるように叱ってきた。
「バカ、それどころじゃないだろう。待っていな、今助けてやるから」
そう言って、アンバーは懐から布と瓶を取り出した。
薬だ。
彼女のお手製のもの。
瓶を見ればすぐに分かった。
しかし、いつもなら分かる薬品の臭いがしない。
自分の血の臭いで鼻が利いていなかったのだ。
手早く薬を布に沁みこませると、アンバーは厳しい眼差しで囁いてきた。
「言っとくが、結構沁みるぞ」
直後、首筋に布が当てられ、体が震えた。
わざわざ忠告された通り、我慢していても涙が滲むくらいには痛かった。
アンバーの体にしがみ付いて耐えているうちに、包帯が巻かれ、簡易的な手当ては終わった。
「これで大丈夫……と信じたいけれどね」
と、アンバーは周囲を見渡した。
「奴はいないようだね。ニオイも気配もしない」
「君を警戒して……いなくなったんだ……取り逃がしてしまった」
呟く私に対し、アンバーは呆れ気味に言った。
「逃がしてもらったのは、どう見てもあんたの方なんだけどな。まあ、いいか。その調子ならすぐに良くなるだろう。全く、吸血鬼に噛まれたら吸血鬼になるなんて話が迷信で良かったよ。それに……目を見た感じだと奴に奪い返されてもいないようだし」
覗き込まれるように言われ、私は静かに頷いた。
「私の主人はまだ君のままだよ。でも……あと少し君が遅かったら……分からなかった」
「ふうん、そりゃよかった。じゃあ、何か言う事があるよな」
揶揄い半分に言われ、私は一旦瞼を閉じた。
プライドはズタズタだった。
しかし、仕方がない。
助けてもらったのだから。
「君のお陰だ」
素直にそう言うと、アンバーは囁いてきた。
「ちゃんと目を見て言ってよ」
仕方なしに瞼を開けてみれば、アンバーの勝ち誇ったような顔が目の前にあった。
子供の頃に散々見てきたあの顔だ。
瞬時に当時の劣等感が蘇ってますます落ち込んでしまったが、変なプライドに拘ったっていい事は何一つない。
言われた通り彼女の目を見つめ、私はしっかりと言った。
「君のお陰だよ、ありがとう」
「ふふん、どういたしまして」
一応はそれで満足してくれたのか、アンバーは嬉しそうに笑い、私の体を再び床に寝かせると薬の後始末を始めた。
「これで懲りたろ」
アンバーは言った。
「吸血鬼ってのは他の魔物とは違う。アタシに力で勝てないあんたにゃ無理だ。それにどうせこちらから行かなくたって、奴はあんたを迎えに来る。真正面から勝てるのは、人狼のアタシの方だ。あんたは囮としてアタシの傍にいればいい」
「それじゃダメだ」
私は小さく呟いた。
「私だって狩人なんだ。自分の獲物は自分で仕留めたい。誰にも渡したくないんだ」
そんな私をアンバーは黙って見つめた。
無言のまましばらく私の表情を確認すると、再び荷物をまとめてから私を覗き込んできた。
「止めだけは刺したいのなら相談に乗るよ。とにかく、もう一人で追いかけるのはやめな。まずは一緒に師匠の所に帰ろう。きっと寂しがっているだろうし」
「……師匠が恋しいなら一人で帰りなよ」
冷たく突き放してしまった私に対し、アンバーは大きくため息を吐いた。
「頑固だねぇ。二度も助けて貰っておいてさ」
「それは……感謝している」
「本当かなぁ。それに、感謝してほしいわけじゃないんだって。アタシゃ、まだ疑っているんだよ。あんたが本当はあの女に殺されたがっているんじゃないかって。術は消えたわけじゃない。アタシの力で誤魔化されているだけだからね」
「それは違うよ。私は彼女をこの手で殺したいんだ。殺されたいわけじゃない」
すぐに否定してみるも、この現状では説得力もなかっただろう。
事実、アンバーは小馬鹿にするように笑ったかと思うと、私の手を握りしめてきた。
「ふうん、そうかい。それなら、出来ると証明して見せろ。まずは、自分の足で立つんだ。肩は貸してやるからさ」
引っ張られるままに私は起き上がってみた。
薬が効いているのだろうか。
あれほど血が流れたのが嘘のように意識はしっかりしていた。
けれど、そこから立ち上がるのは一苦労だった。
アンバーに肩を貸してもらってようやくと言ったところだ。
その後、ルージュに投げ捨てられた銃とナイフを見つけて拾うと、アンバーは言った。
「この血は奴の血か」
「うん……弾は当たらなかったけれど、斬ることは出来た」
「そっか。一方的にやられただけじゃないってわけか」
アンバーはそう言うと、私の体を支え直してから言った。
「まずは宿に戻ろうか。今宵はもう寝た方がいい」
「……うん」
ずるずると引きずられるように歩きながら、私はそっと手に握らされていたものを服のポケットに入れた。
何となくだけれど、アンバーの前でそれが何なのか確かめるのが怖かったのだ。
とりあえず今だけはその存在を忘れ、私は前へと歩くことだけに集中した。
宿はそんなに遠くないはずだ。
しかし、町の端から端までだったかと思うほど遠く感じた。
人気のない場所をアンバーが選んでいるせいでもあるだろう。
それでも歩き続ければどうにかなるもので、ようやく私たちは宿に戻ることが出来た。
客室にたどり着くと、一気に体の力が抜けた。
ベッドの上に横たわると、アンバーは手早く私の荷物を奪い取り、ソファの上へと置いた。
「さてと、今夜はどうするかね」
腕を組みながらアンバーは言う。
「正直言ってさ、腹はペコペコなんだよ。羊肉料理でも食ってくるかな。カッライス、あんたは何か食べたい?」
「今は何も」
「うーん、そうか。だが、あとで腹が減るかもしれないし、何かすぐには傷まないようなものを買ってくるよ。今のうちに体力をつけて貰わないとあたしとしても困るしね」
不敵に笑う彼女に対し、私は静かに頷いた。
「君に任せるよ」
「うん。しばらく休んでいて。いいか、誰が来ても扉を開けちゃダメだからね。警察だとしてもだ。寝ているふりをしておけ」
「……分かった」
返事をすると、アンバーは程なくして部屋を出ていった。
鍵のかかる音を確認すると、私はそっと服のポケットにしまったものを確認した。
ルージュから握らされたもの。
その姿をしっかりと見たのはこの時がやっとだった。
──指輪?
何の変哲もない銀色の指輪だ。
満月の夜、一人きりで、左手の薬指に。
ふと、ルージュが去り際に言ったことが瞬時に蘇る。
これがあれば、これを嵌めれば、ルージュの居場所まで導いてくれる代物。
その意味をしっかりと理解した瞬間、私は目が覚めるような感覚に陥った。
これがあれば、私はもうルージュを見失わない。
問題があるとすれば、この怪しい指輪をアンバーがどう思うかだ。
どうして満月なのか、どうして一人きりなのか。
そこにはきちんとした事情があるのかもしれないが、実態がどうであれアンバーにとっては面白くない条件だろう。
そして、今の私にとっても同じだった。
二度の敗北、二度の救出となれば、自信を失うのも当然だった。
私一人ではまだルージュに敵わないのではないか。
人間が吸血鬼に立ち向かうには、愚直に突っ込む方法ではいけない。
ペリドットが教えてくれたように、もっと知恵を働かせないと。
けれど、そういった理性と共に生じるのが、気分の妙な高揚だった。
確かな繋がりが出来た。
私とルージュの間に。
その事実が私の中に確かな喜びを生じさせている事に気づき、私は指輪をぎゅっと抱きしめた。
アンバーがこれを見たら、どう思うだろう。
この指輪の存在を知ったら、私がこれを持ち続けたいと言ったら、どんな判断を下すだろう。
疑問と共に不安が浮かび上がり、心を締め付けてきた。
「ごめん、アンバー。これは話せないや……」
私は一人そう呟いて、再び指輪をポケットにしまいこんだ。