12.食うか食われるか
息を潜めながら、私は窓から差し込む光の色にふと気づいた。
建物に入ってから、だいぶ時間が経っている。
オレンジ色の光がそれを教えてくれた。
まるで世界からこの場所そのものが隔絶されてしまったかのように、誰も来なかった。
警察すら来ない。
不気味なほどに人の気配がしない中で、わたしと一緒にいるのはルージュだけ。
そのルージュは落ち着いた様子で二階の唯一の出入り口となっている階段付近に陣取っていた。
どうやら互いに諦めが悪いらしい。
常に一定の距離を保ちながら、目立った攻めもせずに様子を窺い続けている。
だが、私もさすがに気づいていた。
この攻防はこちらにとって不利だ。
このまま延々と同じことが繰り返されるわけではない。
もうすぐ日が落ちる。
日没後の闇黒の世界は、吸血鬼たちにとって有利な時間となる。
加えて、私も無限の体力があるわけではない。
ずっと起きていられるわけではないし、そのうちに眠気だって襲ってくる。
これは私にとっての狩りでもあるが、ルージュにとっての狩りでもある。
ここで敗北すれば、命を落とすのは私の方だ。
少しずつ不安が増していく中、さらに私の心をざわつかせることが起きた。
鐘の音だ。
日没を告げる時報が聞こえてきた。
もうそんな時間になってしまった。
これから夜が訪れる。
太陽の光が遠ざかれば遠ざかるほど、吸血鬼は動きやすくなる。
このままじっとしていても、捕まるだけ。
動くなら、今しかない。
足元の小石を拾うと、私は全く違う方向へとそれを投げた。
物音が響くと同時にルージュのいる場所へ一発放つ。
当たりはしないがそこは狙っていない。
道を開けることが今の私の狙いだった。
案の定、ルージュは弾丸を避けようと動く。
そこへ私は駆け寄った。
ルージュを無視する形で脇目も振らずに階段へと直行すると、そのまま駆け下りていった。
そして立ち止まると、唯一の出入り口を塞ぐ形で上階を見上げた。
「勝負だ、ルージュ!」
叫びながら私は再び引き金を引いた。
これで四発。
感覚だけで撃ったその弾は、こちらを見下ろそうとしたルージュの頬をかすめた。
惜しかった。
悔やむも束の間、ルージュの目が興奮気味に光った。
「随分と舐められたものね」
呆れたように言ったかと思うと、彼女の姿が瞬時に掻き消えた。
まただ。
すぐさま消えた先を探ろうとして、そのまま凍り付いてしまった。
背後だ。
振り返ろうとするも、それは敵わなかった。
背後から抱き着かれ、途端に動けなくなってしまった。
まずい。
非常にまずい。
焦って藻掻く私の手にルージュはその手を重ねてきた。
静かに力を込めて、銃を持つ私の手の動きを制御しようとしている。
抗わなければ。
その思いだけが空回りした。
抵抗虚しく私の体は彼女の意図に従ってしまう。
それでも、この武器だけは。
対魔物用拳銃だけは放すわけにはいかない。
その強い思いだけが最後の砦だった。
その諦めの悪さはルージュの魔力にも勝ったのだろう。
どうにか銃だけは手放さずに済んだ。
しかし、あまり意味はない。
握りしめていることが精一杯で、撃つ事なんて夢のまた夢だったのだから。
「頑張れば、私相手に有利に立ち回れると夢見ていたのね」
耳元でルージュは囁いてきた。
「もう少し夢を見せてあげても良かったけれど、そろそろ飽きちゃった。お腹も空いてきたことだし、このくらいにしておきましょう。遊んであげたのだから、お礼を貰わないと。ねえ、カッライス。この皮膚の下に流れている血の味が待ち遠しいの。私のつけた傷はまだたくさん残っているようね。噛みつかれた時の事を覚えている? 痛かったし怖かったでしょう。でも、それだけじゃなかったはずよ」
ルージュの指が私の傷跡に触れていく。
その瞬間、鳥肌が立った。
不快さと共に異様な期待が生まれている。
気持ち悪さと心地よさのせめぎ合いで、心がどうかなってしまいそうだ。
心が縛られたせいだろう。
体も動かなかった。
銃を手放さないことすら怪しくなってきた。
駄目だ。
ここで負けるわけにはいかない。
強い抵抗が生まれるも、これ以上はどうにもならなかった。
「今すぐにあの狼から取り返してやるのもいいけれど、まずは喉を潤さなきゃ。栄養をたっぷり貰ってから、あのケダモノがかけた術を解いてあげる」
逃れられない。
絶望に意識が飲まれた瞬間、首筋に痛みと快楽が生じた。
小さく悲鳴をあげ、藻掻くも、すぐに意識がぐらりと揺らいだ。
ルージュの牙が食い込んでいる。
彼女に血を吸われている。
不快感よりも嬉しさの方が勝っていることに気づき、私はぞっとした。
それでもまだ逃れようという意思を保てているのは、アンバーの術が残っているからだろうか。
しかし、それもいずれは消されてしまう。
膝から下の感覚が薄れ、その場に崩れ落ちる中、私はただただ焦燥感に駆られていた。
嫌だ。
このまま終わりたくない。
このまま終わってたまるか。
恐らくそれが最後の力というべきものだったのだろう。
薄れかけていた意識が一瞬だけ急に鮮明になり、何をすべきかが瞬時に理解できた。
反射的に体は動き、外套の下に忍ばせていたもう対魔物用のナイフへと手が伸びた。
そして、血の味に夢中になっているルージュの体にそれを突き立てることに成功した。
悲鳴をあげ、ルージュが牙を離す。
確かな手応えがあった。
振り返ってみると、ナイフは彼女の右手に突き刺さっていた。
力任せにナイフを引きはがすと、ルージュはさらに痛々しい表情を浮かべ、すぐさま手を抑えながら後ずさりした。
ナイフを片手に脅しながら、私は彼女に笑いかけた。
「どうだ……苦しいだろう。……このナイフは特別な油で磨かれている。対魔物用弾丸と同じ成分だ。その毒は……じわじわと君の命を蝕んでいく。そのうち、立っているのも辛くなる……はず」
だが、立っているのが辛いのは私も同じだった。
血を抜かれすぎたのだ。
それに、まだ流血は続いている。
このまま私が失血死するのが先か、ルージュの体に毒が回るのが先か。
出来れば勝ちたい戦いだったが、競い始めるまでもなく、私の足から力が抜けた。
そろそろ限界だった。
意識を保つのすら難しくなっていく。
むなしく地面に倒れる私を、ルージュは静かに見下ろしていた。
右手を抑えているが、すでに冷静さを取り戻しているようだった。
「油断したわ」
ルージュは言った。
「一人前として認められるだけの事はあるのね」
そして、彼女は私の元へと歩み寄ると、しゃがんで左手を伸ばしてきた。
ただ持っていることしか出来なかった対魔物用拳銃とナイフはあっさりと奪われ、遠くへと投げ飛ばされてしまった。
目を開けてルージュの美しい顔を見上げている事しか出来ない私に対し、彼女は唇を重ねてきた。
柔らかな感触に眠気が生じる。
安心してはいけないはずの場面で、異様な安堵感が生まれてしまった。
このままではいけない。
そう思っていても、力が入らない。
自分ではどうにもならなかった。
ルージュの手が離れ、そのまま地べたに寝転がった後も、私はじっと彼女の顔を見つめ続けていた。
美しく、年を取らないその顔を。
「残念だけど、この程度の傷で私は殺せない」
ルージュの冷たい声が私に向けられる。
「勝敗は決した。あなたが再び目を覚ました時には、アトランティスにいるでしょう。今は愛おしいあの狼のこともすぐに忘れられる。だから、今は眠りなさい」
瞼が途端に重くなる。
けれど、抗う意識はまだ辛うじて残っていた。
そんな私の額に触れながら、ルージュは吐き捨てるように言った。
「頑固な子ね」
その時だった。
遠ざかりつつある意識の中で、私の耳に微かな物音が聞こえてきた。
犬……いや、狼の遠吠えのようだ。
幻聴ではないらしく、すっかり暗くなった外をルージュがそっと見つめた。
音もなく立ち上がると、ルージュはゆっくりと窓辺へと近づいて行った。
そして外を窺うと、すぐにまた戻ってきて冷静な表情のまま私の頬を撫でた。
「面白くないわ。残念だけど、今はあの子とやり合うつもりはないの」
そう言って、彼女は私の手を無理矢理開くと何かを握らせた。
「覚えておきなさい、カッライス。私に会いたくなったら、これを左手の薬指に嵌めるのよ。いつでもいいわけではないわ。満月の日、一人きりでいる時に、これがあなたを私の下まで誘ってくれるから」
「……待て」
離れようとする彼女のドレスの裾を掴もうとしたが、手に力が入らなかった。
ルージュはそんな私を侮蔑するように見つめ、ゆっくりとその場を離れた。
「この続きはまた今度。お楽しみはその時まで取っておきましょう」
そう言ったきり、彼女の姿と気配はふっと消えてしまった。
私は横たわったまま、彼女の消えた場所を見つめていることしか出来なかった。
動けない。
立ち上がれない。
血がどくどくと流れ続け、意識が遠ざかる中、時間だけがただ過ぎていく。
そんな中、段々と声は聞こえてきた。
「カッライス? どこにいるんだ?」
アンバーの声だった。