11.念願の再会
リップルが冷たくなっていた現場には、誰もいなかった。
遺体も運ばれていたし、物証となり得るものは全て持ち帰られている。
規制線となるロープだけは張られていたものの見張りすらいない。
ひっそりとしたその場所の空気は異様に冷たく、ただただ不気味だった。
床にはリップルの体から流れた血の跡がくっきりと残されている。
一滴も吸われていないその血。
ただ殺されただけという事実と共に、私の心に重く圧し掛かってくるのは、壁に書かれた口紅のメッセージだった。
──もうすぐ迎えに行く。
昨日と何一つ変わらぬ文面を脳裏に刻む。
アンバーには一切言えなかったこの伝言。
もうすぐというのはいつの事か。
考えるまでもなく、私の背後でコツという微かな靴音が響いた。
まるでいきなりその場所に現れたかのように、強い気配と視線が私の背中を突き刺してくる。
振り返るのが怖かった。
だが、振り返らずにいるのはもっと怖い。
さり気なく距離を置きながら、私は慎重に後ろを見た。
途端に、赤い双眸と目が合い、体が一瞬だけ固まった。
だが、すぐに解放され、私はその目の持ち主からさらに距離を置いた。
「……どうやらあの狼には、一度痛い目に遭って貰わないといけないみたい」
「ルージュ」
その名を呼ぶと吐きそうなほど緊張感が増した。
大丈夫。
目を合わせても秘術は効いていない。
それでも、全く影響がないというわけではなさそうだ。
一瞬だけでも彼女に従わねばという気持ちがこみ上げてくる。
そこを、別の感情が抑え込んでいるのだ。
私の今の主人は、ルージュではない。
外套の下に忍ばせた武器を確認しつつ、私はルージュを睨みつけた。
大丈夫。
操られたりはしない。いつでも仕留められる。
「ずっと二人きりで話がしたかったの」
ルージュは言った。
「それなのに、あなたの傍にはいつも人がいた。昼は乳臭い探偵の坊や。夜は獣臭い狼女。空腹が増すにつれ、どれだけ苛々したことか」
「それでリップルさんを殺したのか」
声を震わす私に対し、ルージュは微笑みを浮かべた。
「私は殺していない。殺せとも言っていない。あの男にはただ、脅かして欲しいと言っただけ。それなのに、不運な坊やね。まさか彼の手が滑ってしまうなんて」
「滑らせたんだろう、君が!」
高ぶる感情をなるべく抑えながらも、私はルージュに銃口を向けた。
さり気なく近づいてきている。
距離は保ち続けないと。
対魔物用拳銃はさすがにルージュも怖かったのだろう。
彼女は素直に歩みを止め、ため息交じりに私に言った。
「随分と物騒な玩具を貰ったのね。その玩具でお金稼ぎもしたのだったわね。力の弱い雑魚をたくさん狩って、強くなった気でいるのかしら」
「強くなったかどうかはさておき、この玩具で君の命を奪えるのは確かだよ」
私の言葉にルージュは高らかに笑う。
その態度はあからさまにこちらをバカにするようなもの。
しかし、冷静さを失ってはいけない。
彼女がそんな態度を取るのには理由がある。
決して、私を舐めているからというだけではない。
人の心を操り、動かすのが彼女だ。
飛び込めば思う壺だろう。
「生意気な子ね」
ルージュは言った。
「ただの人間のくせに、思い通りに動いてくれないなんて。おまけにその体をあんな狼なんかに好きにさせるなんて。……でも、カッライス。思い出して。あの狼にいつも塞いでもらっている穴を最初に開けたのは誰だった? 私のことを捜しているのは何故? 私を捜すためにアトランティスまで来てくれたのよね? どうして私に会いたかったの?」
「それは……君を殺すためだ!」
引き金を引いたのは、感情の高ぶりのせいではない。
当たるという見込みがあっての事だった。
しかし、単なる獣や取るに足らない魔物であれば当たっただろう弾丸は、そのまま建物の入り口を通り抜け、向かいの建物の壁に穴を開けた。
真ん中にいたはずのルージュはいない。
瞬時に姿を消した彼女は、別の場所にいた。
動きが読めない。
だが、恐れてはいけない。
相手は吸血鬼だ。
幽霊ではない。
生き物である以上、いつかは隙を見せる。
そこを突けば勝てないなんてことはない。
それは願いのようなものでもあった。
そうであって欲しいという切実な願い。
だが、願っているだけでは叶わない。
弾丸は一度に五発まで。
予備はあるが、勿論、無限ではない。
使い切ってしまえば、組合の拠点まで行って補充しなければならない。
つまり、無駄撃ちなんて出来ない。
貴重な一発を外してしまった以上、より慎重にならないと。
「無駄よ」
ルージュは言った。
「あなたの弾丸は当たらない。正しい吸血鬼狩りの仕方を教えてあげましょうか。コンシールの時と同じよ。まずは誰かが囮になって、死角から足止めし、ペリドットがやったように、一撃で心臓を撃ち抜くの。あなたに出来る? 出来ないわよね。だって、あなた、その引き金すら思うように引けないでしょう?」
そして、彼女は一歩近づいてくる。
壁に背中を付けつつ、私はふと妙な気配を別の場所から感じた。
目に見えているルージュの居場所は向かって右側。
しかし、左側の全く違う位置から視線を感じるのだ。
赤い視線。
私の心をしきりに握りつぶそうとするその視線が誰のものなのか、直感で分かった。
視界はとっくに支配されている。
彼女が本当にいる場所は、左だ。
一切の隙も見せずに私はすぐに左を撃った。
感覚だけで撃った弾はまたしても外れてしまった。
だが、勘は当たっていた。
青ざめた顔のルージュの幻影が先ほどまでいた場所で掻き消えたかと思うと、異様な視線を感じたその場所の近くにその本体が現れたのだ。
血走ったような赤い目をこちらに向け、ルージュは不敵な笑みを浮かべた。
「今のはまずかったわね」
彼女はそう言うと、再び立ち上がった。
「少しはやるじゃない。私の動きが分かったの。ああ、だとしたらきっと、まだ繋がりは消えていないのよ。ねえ、カッライス。感じるでしょう。私の目を見て。もう一度、私に抱かれたいってあなたは思っているはず」
ルージュの目が怪しく光っている。
怪しい術を使おうとしているのだろうか。
今の彼女は隙だらけだ。
撃つには最大のチャンスに違いない。
だが、すぐに撃てなかった。
彼女が言った通り、思うように指が動かなかったのだ。
──まずい。
ルージュの接近を避けるべく後ずさりしながら、私は逃れる場所を探した。
今のままではきっと敵わない。
ルージュの目を見てしまったせいかもしれない。
ならば、姿を隠したらどうだろう。
何処かで息を潜め、冷静さを取り戻さないと。
必死になって視界を彷徨わせて、ようやく逃げ道を見つけた。
建物の上階へと続く階段だ。
幸いなことに、この建物の内部についてはだいぶ覚えていた。
生前のリップルと共に訪れていたお陰だ。
その記憶と照らし合わすに、逃げ込む先としてはあまりよくないかもしれない。
だが、やむを得ない。
再び銃を突き付けてから、私はすぐさま階段へと走った。
ルージュはその私の動きをただ見つめる。
「逃げるつもり? いいわ。少し遊んであげる」
二階へと逃げると、記憶通りの閑散とした空間にたどり着いた。
取り壊し予定の建物らしい有様だ。
しかし、身を隠す場所はいくらでもある。
その一つに身を隠しながら、私はルージュが追いかけてくるのを待った。
ルージュはしばらく遅れて階段をゆっくりと上がってきた。
姿を消すことなくきょろきょろと周囲を見渡し、私の居場所を探っているようだった。
吸血鬼の視界や感覚がどのくらい研ぎ澄まされているのか、それは分からない。
私を見失っているように思えるのは本当のことなのか、はたまた演技なのか。
それもまた、駆け出しの私にはまだ読み取れなかった。
目に見えるルージュの様子は隙だらけに思える。
撃つべきか、否か。
迷っているうちに、彼女の目がこちらを見つめてきた。見つかった。
すぐに私は顔を引っ込め、別の場所へと移動した。
全身の神経を研ぎ澄ませたところで、吸血鬼のそれには敵わないだろう。
しかし、諦めたりせずにどうにか身を隠し続けた。
「てっきり怒りに任せて正面から向かってくるかと思ったけれど、賢いところもあるようね」
ルージュは言った。
「これまでの人間たちはおバカさんばかりだった。死人なんかに固執して、少し揶揄ってやったら面白いほど正面から向かってきて。クラブという青年はそんな人だったわね。マリナに恋をしていたのかしら。さっさと忘れて次の相手を捜せばよかったのに、おかげで私は助かったけれどね」
聞いてはいけない。
相手は吸血鬼だ。
価値観そのものが違う相手だ。
「他の連中も心が躍るくらい愚か者ばかり。人間ってどうしてあんなにも騙されやすいのかしら。性欲を刺激すればすぐに屈する青年に、孤独に少し寄り添ってやっただけですぐに心を許す女。困っているふりにすぐ騙された男もいたわね。そして、極めつけは探偵の真似事をしていた坊や。血を吸われることもなく不運にも命を落とした哀れな男」
落ち着かないと。
ルージュは私を怒らせようとしている。
神経を逆撫でし、冷静さを失わせようとしている。
対処するには話を聞かない事。
彼女が何を言っていようと、どれだけ死者を冒涜していようと、無視し続けなければならない。
簡単なはずの事だ。
しかし、吸血鬼は恐ろしい。
その簡単なはずの事すら難しくしてしまう魔性があるのだから。
「分かっているわ、カッライス。あなたには彼らの死なんて響かない。どうせ、自分でなくて良かったと思っているのでしょう。あなたのせいで彼らが死んだのだとしても、あなたは微塵も責任を感じてはいない。ええ、きっと、恋人が同じような目に遭ったとしても、そうなのでしょうね」
ルージュの言葉に息が詰まる。
恋人。
アンバー以外に誰がいる。
同じような目に。
ただの脅しだと分かっていても、一瞬だけ動揺してしまった。
その気の緩みをルージュが見逃してくれるはずもない。
「そこね」
間違いなく私のいる場所に声は向けられた。
すぐに場所を移動するも、一瞬だけ姿を見られた気がした。
「無駄だと言っているでしょう」
ルージュは言った。
あちらは余裕らしい。
それもそうだ。
生きている期間があまりに違いすぎる。
こんな狩り、これまで何度もしてきたのだろう。
たとえ私が恐ろしい武器を持っていたとしても、使う私がしっかりしていないと意味がない。
その隙を与えないプレッシャーが、私の行動を完全に縛っていた。
これも秘術のせいなのだろうか。
けれど、どうにか。
どうにかして撃たないと。
物陰から隙を窺いながら、私は必死に焦りを抑えていた。
弾は無駄に出来ない。
ルージュに姿を見られる前に狙いを定め、早く撃たなければ。
だが、その焦りのせいもあったのだろう。
三発目を放つ引き金はなかなか引けなかった。