8.信じたくない出来事
「今日くらい休んだら?」
夜明けと共に朝支度を始める私に対し、アンバーはそう言った。
半裸のままベッドにだらしなく寝そべる姿は、まさに人の姿をした獣のようだ。
この世の怠惰の全てを象徴しているかのような彼女の姿に、私は半ば呆れつつ答えた。
「休むわけにはいかないよ。ルージュを仕留めるか、この町から追い出すか……それまでは私に休みなんてない」
「せっかくの観光地なのになぁ。勿体ないよ。アタシなんて丸四日使っても全部見たわけじゃないんだ。聞く話じゃ、アトランティスの中だけでも数日潰れるらしいしね。こんな娯楽だらけとは思わなかった」
「その様子じゃ、お金持ちの状態も長続きしなさそうだね」
皮肉交じりにそう言うと、アンバーは笑いながら言った。
「端からそのつもりさ。お金は使えるときに使っておかないと、いつどうなるか分からない身分だからね」
含みのある言葉に、私はそっと彼女の表情を窺った。
その顔からは、まだまだ眠たそうだという事しか分からない。
しかし、内心はどうなのだろう。
気の敏い者──例えば他の組合の同業者などは、アンバーの正体を見破る者がいてもおかしくはない。
問題を起こさず、静かに暮らしている魔物に目くじらを立てて大騒ぎするような狩人なんて、魔物狩りの資格を持つ者にはいないと信じたいところだが、絶対にいないなんて断言できるほど私はこの世の全てを知っているわけではない。
もしかしたら、金目当てに騒ぎを起こし、アンバーに武器を向ける者がいてもおかしくはない。
そう思うと急に怖くなってきた。
「君こそさ、今日くらいゆっくりしたら?」
不安を隠してそう言ってみると、アンバーはぼんやりとした眼でこちらを見つめてきた。
「何故だい? アタシはただ遊んでいるだけなんだけど」
「遊び続けるのも疲れるんじゃない? たまには落ち着いた場所でのんびり過ごした方がいいんじゃないかって思ってさ」
「アタシの心配より自分の心配をしろよ、カッライス」
私の思いをよそに、アンバーはそう言って笑い飛ばした。
「力も持久力もアタシとあんたじゃ全く違う。……それとも、人狼のアタシが一人で町をうろつくのはそんなに不安かい?」
「……えっと」
急に図星をつかれて狼狽えてしまった。
そんな私に、アンバーは言った。
「全く分かりやすい奴だな、あんたは。見ているだけで不安になっちまう。あの吸血鬼から見ても、愛おしいほどだろうね」
「そうやってバカにするがいいさ。相手が弱いと舐めてかかった狩人は大抵怪我をするものなんだから。ルージュだってそうさ」
言い返してみるも、アンバーはため息交じりに答えた。
「どうだろう。奴が考えなしにあんたをバカにしているといいけれどね。愛おしいと思っていても、狩る時は手加減なんてせずに全力で来るかもしれない。なんたって途方もない時間を生きた吸血鬼なんだ」
「分かっているさ。だから、私も慎重に行動している……そのつもりだよ」
魔物との勝負は圧倒的に人間側が不利だ。
通常の武器が通用しないという事だけでも重たい事実だが、肉体的な差や人間には到底真似できない魔術の類を防ぐのは、訓練をいくら積んでいても気が抜けない。
考えれば考えるほど不安は増してしまう。
だが、だからと言って、安全地帯にいつまでも居座るのは魔物狩りの資格を持つ狩人として失格だろう。
そもそも、私に安全地帯なんてものはない。
ルージュと敵対している以上、何処にいようといずれは対面する事になるのだから。
「今日一日休んだところで気は休まらない。動いていた方が安心するんだ。いつ、ルージュが襲ってきてもいいように覚悟しておかないと」
「……アタシと一緒にいれば、ルージュが襲ってきても一緒に戦えるんだけどね」
アンバーの冗談交じりの言葉に、私もまた愛想笑いをしながら問いかけた。
「手伝ってくれないんじゃなかったの?」
「ああ、手伝いはしないよ。飽く迄も観光だ。観光の中で奴が忍び寄ってきたら、吠えて追い払うってだけさ」
「それならダメだ。約束したんだ。この町の人と。ルージュを止めて、犠牲になった人たちの無念を晴らすって」
「無念を晴らす? いつの間にあんたは報復屋になったんだ?」
「魔物狩りなんて報復屋みたいなもんだよ。依頼の大半は、大切な人が犠牲になった人間から来るものだし」
「……言われてみれば確かにそうかもね」
アンバーはそう言ってから、改めて私に言った。
「だが、だからこそ、気を付けて欲しい。怒りに身を任せちゃだめだ。狡猾な吸血鬼は人間の感情すら利用するって言うからね」
「ああ、無茶はしない。約束する」
「そうしてくれよ。分かっているよな。日没の時報が聞こえたら──」
「すぐに帰る。夕飯も一緒に食べるからさ。だから、心配しないで」
アンバーは狼のような目をじっとこちらに向けてきた。
そして、しばらく黙って私の顔を凝視していた。
彼女がその時に思っていたことはどんな事だっただろう。
私が思い出していたのは、ペリドットの言葉だ。
私を止めることは出来ない。
師匠であるペリドットでさえ。
そのペリドットよりも確かな権限を持っているのがアンバーである。
彼女がその気になれば、私は自分の意思で行動できなくなるはずだから。
けれど、アンバーはそうしなかった。
苦笑を浮かべてから彼女は言ったのだった。
「それならいいんだ」
期待していた返答に、私もまたホッとした。
客室の扉がノックされたのは、ちょうどその時の事だった。
「朝早くに申し訳ありません。カッライスさんにお客様です」
扉の向こうで宿の従業員がそう言った。
不審に思いつつ、そっと開けてみると、そこには従業員と共に二人の警官がいた。
身分証を呈示しながら彼らは言った。
「突然すみません、カッライスさんですね。シャローズ刑事の使いで参りました」
「シャローズ刑事の?」
彼に何かあったのだろうか。
そう思った矢先、もう一人が小声でそっと告げてきた。
「探偵のリップルさんが遺体で見つかりました」
その報告に、私は絶句してしまった。
それからしばらく、報告に来た警官とどのようなやり取りをしたのか、私はうまく思い出せない。
ただ、彼らに経緯を伝えられたことと、アンバーに何かしらを告げて宿をあわただしく去った事は覚えている。
そのまま直行したのは、リップルが遺体で見つかったのだという現場だった。
現場は、昨日共に訪れたあの取り壊し予定の集合住宅だった。
足を踏み入れてすぐに、私は動揺してしまった。
人の遺体なんてこれまで何度も見てきた。
それこそ、最後の犠牲者であるクラブの遺体だって実際に見たのだ。
だから、亡骸が怖いというわけではない。
けれど、リップルは違った。
酷い有様だったわけではない。
ただ眠るように彼は倒れていた。
起こせば目覚めるのではないかと思うほどに表情は穏やかだったのだ。
だが、二度と起きないということは、胸元に突き刺さったままのナイフが示していた。
刺し傷からの失血。
それが、彼の死因らしい。
何にせよ、リップルは横たわっていた。
聞かされたことが事実であると間違いなく目にして、私は愕然とした。
人の死に慣れていないわけではない。
だが、昨日まで普通に話していた相手をこういう形で失ったのは、これが初めてだった。
それも、あんな話の翌日に。
──僕は晴らしたいんです。
ここでそんな話をしたばかりだったのに。
彼の亡骸が横たわるその壁には口紅のチェックマークと共にメッセージが書かれていた。
──もうすぐ迎えに行く。
誰に当てたものなのか、すぐに分かった。
「リップルさん……」
生前の彼の表情を思い出し、私はぐっと奥歯を噛みしめた。
そんな私を気遣うように、シャローズ刑事は近づいてきた。
彼が何か言おうと口を開いたその時、一人の警官が現れた。
シャローズ刑事のもとへと近づくと、その耳元でそっと何かを告げた。
途端に、シャローズ刑事の表情が変わった。
「犯人らしき男が見つかったそうです」
──男?
その言葉に、目を丸くしてしまった。