2.血の繋がらない家族
さて、熱烈な歓迎を受けた私だけれど、心を開くことは簡単でなかった。
当然だろう。
これまで何の問題もなく、愛情を受けて育ってきたと思っていたのに、ある日突然知らない大人たちに保護され、縁もゆかりもない場所に連れてこられたのだから。
おまけに姉だという事になったアンバーはそれまでの私にとって未知のレベルで騒がしく、一緒にいるだけで落ち着かない。
そんな私の願いは、ルージュが迎えに来てくれることだった。
けれど、一日経っても、二日経っても、ルージュは迎えに来てくれなかった。
当時の私はとにかく視野が狭かった。
そのようにルージュが育てていたせいでもあるのだが、ルージュのいない世界など滅んだっていいと本気で思っていた。
もしもこのまま迎えに来てくれないのならば、生きていても仕方がない。
すぐにそんな極端な考えに取り憑かれ、飲まず食わずのまま三日を過ごしていた。
そして四日目の朝、私はとうとうアンバーに叱られた。
「あのさぁ、いい加減にしなよ」
ベッドの上に蹲る私の目の前に同じように蹲り、アンバーは私を睨みつけてきた。
「一体何度説明したら分かるわけ? そのルージュってやつは悪い吸血鬼だったんだよ。騙されていたんだよ。あんたのこと愛してなんていなかったんだ。本当の愛をくれるのはさ、そいつじゃない。師匠とこのアタシ。今日だって美味しいスープを作っているんだよ。三日も食べてないあんたのためにさ。そろそろ食べなよ、もったいないじゃないか」
「いらない。そんなに美味しそうなら、君が食べなよ」
「食べないと死んじゃうよ?」
「別に……それでもいい」
遠ざけるように言ったその声に力が入らなかったことを覚えている。
本当に死んでしまうかもしれないと思いはしたけれど、その事への恐怖は不思議と湧き起らなかった。
当時の私はそれだけルージュに憑かれていたのかもしれない。
そんな私の態度が歯痒かったのだろう。
アンバーは獣のように唸りながら麦色の髪をかき乱して、苛立ち任せに私の肩を掴んできた。
「んもう! そんなに死にたいなら、今ここでアタシが食っちまうぞ!」
アンバーはそう言って大きく口を開けて脅かしてきた。
人間の姿をしているはずなのに、どうしてか冗談に思えなかったのは、本能的な恐怖を覚えたからなのかもしれない。
だが、本当に食べられてしまうより先に、いつの間にか部屋に来ていたペリドットが私たちの間に割って入った。
「こら」
そう言って、ペリドットはアンバーの頭を軽く小突いた。
「せっかく助けたってのに食おうするな」
「冗談だもん」
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ、アンバー。ちょっとカッライスと二人きりにさせて欲しい。外で的当ての練習でもしておいで」
「はーい」
しょんぼりしながらアンバーはベッドから飛び降り、そのまま騒がしくバタバタと足音を立てて部屋を出ていった。
そのまま階段を駆け下りていく音を聞いていると、ペリドットがため息交じりにベッドの縁に座り、話しかけてきた。
「アンバーの言う事は気にしなくていい。君にはまだまだ時間が必要だ。ただ、お腹が空いた時は恥ずかしがらなくていいってことは伝えておこう」
「……欲しくない」
「欲しくないのならそれでもいいよ。お腹が空いた時は遠慮なく言ってくれればそれで。あと、アンバーの事だけど、嫌わないでやってくれるか。乱暴だったかもしれないけれど、君の事を本気で心配しているんだ。勿論、私もね」
始終、冷静な口調でペリドットはそう言った。
思い返してみればみるほどペリドットの情の深さを感じずにはいられない。
ただ、その頃の私はまだ彼女の愛情を感じ取れるだけの余裕がなかった。
ただ壁に寄り掛かり、膝を抱えて、問いかける事しかできなかった。
「ルージュは……?」
ペリドットは軽くため息を吐いた。
だが、叱ったりせずに彼女は答えた。
「今の君の望み通り、いつか迎えに来ようとするかもしれないね。でも、申し訳ないけれど、引き渡すわけにはいかない。狩人以前に人間としてね」
静かなその主張に、私は何も言えなかった。
その時、私は何を思っていただろう。
ルージュがそんな事をするわけがない。
そう思っていただろうか。
とにかくあの頃はルージュの事を信頼しきっていたはずだけれど、きちんと思い返してみれば、その心情はそう単純でなかった気がする。
この時の私は確かこう思っていたのだ。
仮にペリドットの話が本当だとしても、私はそれでいいのだと。
ルージュに殺されるのなら、本望だと。
これが長生きした吸血鬼の恐ろしさなのだろう。
その頃はまだ怪しげな術で魂の根底に鎖を繋がれてしまうような事はなかったと思うのだが、それでも私はルージュを実の母親以上の存在として認識していた。
実に厄介なことだった。
ペリドットもきっとその厄介さを内心感じていただろう。
けれど、彼女は穏やかな表情のまま私に視線を向けてきた。
「とにかくさ、君が心を開くまでにいくら時間がかかったとしても、私は気にしないよ。それが大人ってもんさ。アンバーはまだまだ『待て』が出来ない子供だから、さっきみたいにごちゃごちゃ何か言ってくるかもしれないが。まあ、その時は私が言い聞かせておく。君は焦らず、ここで静かに過ごすといいさ」
そう言って笑いかけてくる彼女に、私は視線を返せなかった。
それでも、私は覚えている。
この時の彼女の言葉が、不機嫌なままだった心の何処かに引っかかった事を。
その為だろう。
彼女が立ち去った後で、私はふとベッドから下りてみる気になった。
ふらつく足でどうにか立って、初めてここへ来た日にアンバーが突っ伏していた机へと向かった。
その正面にある窓から外を眺めると、家の前の広場でカカシや的を相手にはしゃぎ回るアンバーの姿が見えた。
ペリドットに見守られながら、彼女は木製の銃を構えていた。
その時の私には、彼女らが何をしているのか正確に分かっていなかった。
遊んでいるのではなく、狩人の修行だと知ったのはもうしばらく後の事である。
ただ、コルクで出来た弾丸が的に当たるたびに、眩い笑みで喜んでいるアンバーの姿は、私の目に焼き付いた。
とはいえ、人はたった半日ではなかなか変われないのだろう。
その夜も、私は食事を拒否した。
しかし、ペリドットは勿論、アンバーもまた無理強いしてくることはなかった。
自分たちだけ食事を済ませると、アンバーはいつものようにではなく、いつになくこっそりと忍び足で戻ってきて、自分のベッドへと直行していった。
だが、沈黙がしばらく流れた後で、耐えきれなくなったと見えて、彼女の方から話しかけてきた。
「あのさ……」
視線を少しだけ向けると、アンバーはどこか悲しそうな表情を浮かべていた。
「さっきは御免ね。脅かしたりして。怖かった?」
黙って首を横に振ると、アンバーは少し安心したように笑みを浮かべた。
「良かった。……でも、反省しないとだね。自分の思い通りに他人が動かないからって怒鳴っちゃダメなんだって師匠に叱られちゃった。いくらその人の為だって思っていたとしてもね、その人にはその人のタイミングっていうのがあるんだって。待ってあげることが出来なかったら、その優しさは偽物になっちゃうんだって」
「……偽物?」
「うん。アタシもちゃんと理解しているわけじゃないんだけど、何となく師匠の言っていること分かるよ。だから、御免。でも、信じて欲しいんだ。アタシ、あんたが死んじゃったら嫌なんだ。せっかく姉妹になったのに寂しいじゃない」
そう言って視線を逸らすアンバーの顔に、昼間見た時の笑みが重なった。
表情がころころ変わるのは今も変わらないが、そこにある種の魅力を感じたのはこの時が初めてだった。
魅力だけではなく、ある程度の親しみも感じることが出来たのだろうか。
ともあれ、その夜の私は不思議とアンバーの話にきちんと耳を傾ける気になれたのだ。
「ねえ、カッライス」
「なに?」
「アタシが師匠の実の子じゃないって事は、知っている?」
黙って頷くと、アンバーは笑った。
「顔も全然似てないし、そりゃ分かるよね」
そして、窓の外へと視線を向けながら語りだした。
「アタシの本当の両親はもう死んじゃったんだ。アタシが赤ん坊の頃にね。それからずっと師匠に育てられてさ、楽しかったけれど、でも、やっぱり寂しかったんだ。里の子たちみたいに学校に行けるわけじゃないし。勿論、師匠は優しいよ。けれどね、前に師匠に町まで連れて行ってもらった時に、同じ年頃の子たちが集団で遊んでいるところを見てから羨ましくなっちゃって……。だから、アタシ、カッライスが来てくれてすごく嬉しかったんだ」
「学校に行きたかったの? 行かせてもらえなかったの?」
私がそんな質問をしたのはきっとペリドットにまだ少しの不信感を抱いていたからなのだろう。
どうにかして疑いたいという気持ちがまだ残っていたからこそ、こんなことを聞いたのだ。
だが、アンバーはそんな私の意図など気づかない様子で苦笑いしながら答えた。
「事情があってね。師匠のせいじゃないよ」
「事情って?」
「うーん、そうだな。持病みたいなやつ。そのうち、ちゃんと教える日が来るかもしれないけれど……」
けれど、今は語りたくないのだろう。
さすがに当時の私も察することが出来て、その時はそれ以上深く聞かずに終わった。
ただ黙り込んでいると、私はどことなくそわそわした気持ちになった。
アンバーが身の上を語ったせいだろう。
何となく自分の事を無性に語りたくなったのだ。
「私……私も……本当の両親を知らないの」
そして、間髪入れずに弁解した。
「でも、ちっとも寂しいって思った事はなかった。ルージュが傍にいてくれたから。怒鳴られたり、叩かれたりしたことなんて一度もないし、怖い夢を見て泣いていた時は優しくて抱きしめてくれた事だってあったもの。……だから、ルージュが本当は吸血鬼で、悪い人なんだって言われても、どうしても信じられないの」
「……そっか」
アンバーは静かに頷いた。
「でも、魔物って皆そうなんだよ。逃したくない獲物にとことん優しくするんだ。食べる直前まで乱暴なことはしないんだって。そして信用させてから食べてしまうの。だから、魔物を信じちゃいけないんだよ。この世界にはね、そんな魔物がいっぱいいるんだ。吸血鬼だけじゃなくて……色々」
「アンバーは魔物に詳しいの?」
嫌に断言してきたからだろう。
私はそんな問いを投げかけた。
単純に気になったからで他意はなかった。
だが、アンバーは気まずそうに目を逸らし、答えたのだった。
「師匠が教えてくれたんだよ」
そして咳払いをしてから、アンバーは続けた。
「何にしろさ、今は信じられなくてもそのうち分かる時が来るよ。多分ね」
その言葉を丸々と信じることは勿論出来なかった。
けれど、此処へ来た当初のように丸々と拒絶するという気持ちも薄れ始めていた。
少しずつではあったけれど、この夜から私の人生が変わっていったのは間違いなかった。