4.不機嫌な相棒
「男のニオイがする」
酒に酔ったアンバーがそんな事を言ったのは、共にベッドに入ってしばらく経ってからのことだった。
私にはちっとも分からない狩猟本能とやらを好きなだけ満たしたかと思えば、我に返ってすぐにそんな事を言ったのだ。
私は呆れながら答えた。
「シャローズ刑事と一緒に現場を回ったって言ったろ。それに、警察も半数以上は男性だし、当然じゃないか」
だが、アンバーは納得せずに唇を尖らすのだった。
「そのシャローズって人は中年男性って言ってただろ? そうじゃなくて、若い男のニオイだよ。乳臭い小僧のニオイ」
となると、恐らく探偵のリップルの事だろう。
目敏いならぬ鼻敏いものだと感心する。
別に抱き合ったわけでもあるまいに。
「その言い草。リップルさんは私たちと同じくらいだよ」
呆れてそう言うと、アンバーはじっと見下ろしてきた。
人間の姿だというのに獣のようで少し怖かった。
「……あのさ、言っておくけど、本当に何もないからね。シャローズ刑事と別れたあとで高台から町を見ていたら話しかけられたんだ。その時にしばらく一緒にいただけさ」
「ふうん」
アンバーはそう言ってから、私の隣でふて寝をした。
「別にいいけどね、男なんてさ」
「じゃあ、なんでそんなに不機嫌そうなの?」
揶揄い半分で聞いてみると、アンバーは皮肉交じりに答えた。
「さあ、自分でも分かんない」
「何だそれ」
呆れつつ、私は窓の外へと目をやった。
月が綺麗に見える。
満月まではまだかかる。
そのせいで苛立っているわけではないようだが。
「──で? 明日もまだいるかどうかさえも分からないあの女を捜しに行くってわけ?」
刺々しい口調で訊ねてくるアンバーの背中に、私は肯いた。
「勿論だよ。それに、ルージュはまだいる。それは間違いないよ。そうでなかったら、どうしてあのメッセージを残した」
「模倣犯かもよ? それで、今頃焦っているかもしれない。プロの吸血鬼狩りまで来ちゃったってさ」
「その可能性も全くないなんて言えないけどさ、でも、模倣犯が『あなたのせいよ』なんて書くと思う?」
口紅の吸血鬼の噂はだいぶ広まっているらしいが、『あなたのせいよ』というメッセージは初めてだった。
模倣犯がたまたま思いついただけと言われたらそれまでだが、けれどやっぱり私は思ってしまう。
ルージュが言っているのだと。
「なあ、カッライス」
アンバーは答える代わりに質問返しをしてきた。
「もしかしてとは思うけれど、この事件に関して責任を感じていたりはしないよな。あんたが存在しようとしまいと吸血鬼っていうのは生きるために血を吸うし、食欲を抑えきれずに獲物を殺すものだ。奴はその本能をあんたのせいにしているようだけど」
そう言って、彼女はちらりと振り返ってくる。
その表情には先ほどまでのケモノらしさは感じられない。
ただただ心配しているらしい。
「大丈夫だよ」
私は答えた。
「それは分かっているさ。私の反応を面白がっているんだろう。或いは心が傷つかないかと期待しているのかな。いずれにせよ、奴の望み通りの反応なんて見せられないよ」
そうは言ってみたものの、内心はどうだっただろう。
ベルーガの家にあったあのメッセージを見た時、私の脳裏に過ったのは犠牲者たちの生前の話だった。
彼らが命を奪われたのは私のせいじゃない。
そう自分に言い聞かせても、動揺してしまう事は防げなかった。
全く気にしないなんて事は無理だ。
それを胸張って言えるほど、私は強くない。
ただ、それを悟られてはならないのだ。
己の弱点を誰よりも先に自らが知り、それを必死に隠し通して敵に悟られる前に蹴りをつける事。
これもまたペリドットの教えの一つだ。
「見せられない、ねぇ」
アンバーは妖しく笑いながら言った。
「何が可笑しいのさ」
ムッとして言い返すと、アンバーは答えた。
「いやね、そうやって強がるあんたも、奴からすれば愛おしいんじゃないかって思ってね」
「愛おしい? ルージュにそんな感情が果たしてあるのかな」
「あるさ。何せ、アタシも魔物の端くれだからね。同じ魔物として気持ちが少しは分かる気がするんだ。愛おしくて苦しめたくなる。愛おしくて食いたくなる。アタシもそういう意味では奴と同類なのかもな」
「全然違うよ」
私はすぐに否定した。
「君はルージュとは違う。これまで何度も言っているけれど」
「何度も言っているけれどさ、そう簡単に魔物を信じちゃダメだよ。たとえこのアタシであってもね」
アンバーはそう言ったけれど、疑いきれないのはどうしようもない。
彼女が望むのなら躊躇わずに一糸纏わぬ姿になれるし、気が変われば殺されると分かっていても無抵抗で身を預ける事だって出来る。
その信頼が、共に育ってきた上で築かれたものなのか、彼女の人狼としての力による賜物なのかは分からない。
でも、私にはどちらだって良かった。
彼女との関係は、ルージュと対立する上での盾になる。
呼ばれていると分かって冷静でいられるのも、きっとアンバーのお陰なのだ。
だから、アンバーが再び狩猟本能とやらを満たしたいと望むならば、疲れていようと眠かろうと応じることは全く苦痛ではなかった。
しばらく身を預けた後、彼女の腕の中で冷めていく熱を感じながら、私は静かに思いを巡らせた。
アンバーがその気になれば、このまま私を木偶にすることだって出来る。
ルージュを追いかけるなと彼女が命じるだけで、私はこの仕事を放棄してしまうのだろう。
そもそも、引き受けすらしなかったかもしれない。
でも、アンバーはそんな事を命じたりしない。
命じることが出来ない。
そこが彼女の優しさであり、人間らしさなのではないかと思ってしまうのだ。
「なあ、カッライス。まだ起きてる?」
アンバーはそう言って背中を直に撫でてきた。
黙って頷くと、彼女はホッとしたように微笑んでから、続けた。
「昨日の約束、覚えているよね。アタシはあんたの仕事を手伝わないよ。だけど、邪魔もしない。日が昇り、日が沈むまでの間ならね」
「覚えているよ。時報の鐘でしょう? 今日は約束通りちゃんと帰ってきた」
「それならいいよ。夕食は一緒に食べよう。その後も抜け駆けはダメだ。夜は私の傍にいると約束してほしい。私以外の魔物に遭わないように」
「──約束するよ」
素直にそう答えると、アンバーは私の頭を撫でてきた。
その感触に浸っていると、段々と安堵が広がり、眠くなっていった。
気づけば私は夢の中にいた。
満月の夜、もふもふになった子狼のアンバーと身を寄せ合って眠った少女時代の夜の光景。
あの頃には想像もしなかった関係になってしまったけれど、彼女との触れ合いで生まれる癒しは全く変わっていなかった。
ただただ優しい夢が覚めてしまうと夜の時間は終わっていた。
アンバーはぐっすり眠っていて目を覚ましそうにない。
その横で静かに朝支度を終えると、私は彼女の寝顔をじっと見つめた。
静かに眠っていると少女時代とあまり変わらない愛らしさが彼女にもある。
この姿が狼になる時があるなんて普通の人は信じないだろう。
けれど、それでも、私だって不安になる事がある。
世間は人狼に厳しい。
もしも正体がバレてしまえば、アンバーがどんな主張をしても命を奪おうとする者は現れるだろう。
私もまた彼女を庇う者として処される可能性はある。
治安を乱していなくとも、乱そうとしていると疑われ、その疑いだけで排除されることだってあるだろう。
どうか、そんな危険にアンバーが巻き込まれないように。
願いを込めながら、私は彼女の頬にキスをした。
「行ってくるね、アンバー」
その呼びかけに、アンバーは寝言で答えてきた。