3.犠牲になった人々
犠牲者は五人。
職業、性別、年齢はバラバラだが、一人暮らしであることは共通している。
その記録は文字列としてならば既に頭に入っていた。
だが、今日の私はその事実を文字ではなく事実として認識するために足を動かした。
最初に訪れたのは、マリナという女性の家。
およそ一か月前に吸血鬼と思しき犯人の手によりこの世を去った最初の犠牲者だ。
年齢は二十代半ば。
酒場で働いていた派手な印象の女性で、夜の繁華街で様々な人物と交流を深めていたという。
その為にこの殺人を痴情の縺れと決めつける声も多かったらしい。
色恋沙汰で誰かの恨みを買ったのだろうという噂がまるで事実のように広まった結果、町の人々はこの事件を他人事として認識し、安堵したわけだ。
──けれど、実際にマリナをよく知る人々は恨みを買うような女性じゃなかったと述べておりましてね。
そう言ったのは、犠牲者たちの家を見たいという私を案内してくれたシャローズ刑事だった。
自ら同行してくれた彼は、犠牲者それぞれの情報を簡単に教えてくれた。
──今思えばそれは正しかったのですが、アタシ共はどうも長年の勘というものを過信してしまうらしい。彼女に申し訳ない。
マリナが変わり果てた姿で見つかった際、部屋には一滴も血が流れていなかった。
それにも拘らず全身の血が抜かれ、壁には口紅でチェックマークが描かれていた。
犯人の特定に繋がる証拠は一切見つからず、マリナの交友関係を洗って浮かび上がった疑わしい人物も、結局は疑わしいで留まってしまった。
そうこうしているうちに六日経ち、同じ手口による犠牲者が出た事で、ようやくマリナという女性の怨恨とは関係ないと気づく人々は増えたのだった。
アパートは古いけれども広々としていて、派手な衣服は全てクローゼットにきちんとしまわれていた。
家族や友人などの写真がほんの少しだけ飾られていて、あとはガラリとしている。
小さなテーブルにはグラスが置いてあって、一輪の薔薇がさしてあった。
事件当時から放置されていたのだろう。
薔薇の花はだいぶ痛んでいた。
マリナが倒れていたのは玄関付近だったという。
ベランダの窓が開けっぱなしになっていて、そこに背を向ける形で倒れていた。
逃げようとしたのだろう。
しかし、逃げられなかった。
襲われたのは、恐らく偶然なのではないだろうか。
たまたま空腹の時に目をつけられ、狩られてしまった。
一通り頭の中で情報を整理しながら、私は壁に書かれたままになっている口紅のメッセージを確認した。
チェックマークの形が目に入った瞬間、短い記憶が蘇った。
文字も教えてもらえなかった幼い頃、ルージュは私との意思疎通にチェックマークを使っていた。
その場に応じて意味が変わり、それだけでは多くのやり取りなど出来なかった。
それでも、不都合はなかった。
不都合がないように、自由を制限された状態で暮らしていたからだ。
──この形。やっぱり。
チェックマーク一つで絶対に見抜けるなどと言うつもりはない。
ただ、その形には憶えがある。
ルージュが書いていたものによく似ている。
ハート型に見えなくもないその形は、見れば見るほどルージュの書いていたものと瓜二つだった。
次に訪れたのは、シーという男性の家だ。
年齢は十代後半。
町の近隣にある小さな村で生まれ育ち、稼げる仕事を求めてこの町に来たばかりだったらしい。
マリナの事件があった六日後、職場に現れない彼を心配した同僚が家を訊ねたところ、変わり果てた姿で見つかった。
場所はマリナが暮らしていたアパートよりもさらに狭い一室。
さほど広くないベッドの上で半裸の状態で見つかった彼は、目立った外傷はなかったものの首筋にマリナにもあったような噛み傷が残されていた。
争った形跡もなく、血痕もない。
ただ寝室の壁にはマリナの時のように口紅で書かれたメッセージが残されていた。
『ベイビー、この文字が読める?』
状況が状況だけに彼の事件もまた怨恨だと主張する者もいたらしい。
だが、その動機が怨恨かどうかはさておき、マリナの時とは明らかに違う点がある。
それは、マリナが逃げようとしていたことに対し、シーは死の直前まで逃げるそぶりを見せていないことだ。
恐らく直前まで彼とベッドを共にしていたのだろう。
──もうすぐ里帰りの予定があったらしくて。
シャローズ刑事の言葉を思い出す。
──久しぶりに親御さんに会うことを楽しみにしていたそうです。
この犯行がルージュのものにしろ、違う誰かのものにしろ、亡くなった人は帰ってこない。
その嘆きは、三人目の犠牲者であるラグーンの家、四人目の犠牲者であるベルーガの家と次々に訪れていくにつれ、さらに重くのしかかってきた。
ラグーンは漁師だった。
近隣の村出身の三十代の男性で、故郷には妻子があった。
息子と娘が一人ずつ。
妻は三人目の子を妊娠中。
生まれてくるのを楽しみにしていたらしく、漁師仲間にも妻子の事を度々語っていたらしい。
彼がもう何処にもいないなんて。
故郷の村での葬儀の際、愛妻はただそうとだけ呟いたという。
ベルーガは四十代の女性で海鮮料理が売りのレストランに努めるコックだった。
夫と子供を早くに亡くし、一人で暮らしていたが、親しみやすい性格は人々から好かれ、近所づきあいも良好だった。
休暇を取って近隣の都市へと旅行することを楽しみにしている最中だったらしい。
ラグーンも、ベルーガも、玄関先で亡くなっていたという。
不意を突かれたのは間違いない。
恐らく訪問客を装って襲い掛かってきたのだ。
そして、ベルーガの死から六日後に、今度はクラブという若い男性が襲われた。
昨日見せて貰ったのが彼の家だ。
まさか自分が殺されるなんて思わず、犯人を自宅に招き入れたのだろう。
皆、終わりは突然だった。
運が悪かった。
たまたま一人で暮らしていて、目を付けられたばっかりに被害に遭ってしまったのだから。
しかし、実際に現場を見せてもらうと、心がざわついた。
実際に彼らが生きていた形跡がたくさん残っているためでもあるが、そこへさらに口紅のメッセージが残されていたせいでもある。
ラグーンの家には『私はここにいる』とあり、ベルーガの家には『あなたのせいよ』とあった。
そして、クラブの家にあったのが『いい子にしなさい』という言葉。
文字が当たり前に読めることは、ペリドットの家を出てからかなり役に立った。
財産と言ってもいい。
だが、ルージュは敢えてそこを突いてきているのだろう。
チェックマーク、私はここにいる、いい子にしなさい、ベイビー。
それらは確かにこれまで報告されてきたけれど、『あなたのせいよ』は初めて見た。
あれは、間違いなく私へのメッセージだ。
私のせいで彼らが死ぬ羽目になったと言いたいのだろうか。
──ルージュ……。
黄昏時、その名を呟きながら、私は高台から町を眺めていた。
犠牲者たちの家々が一望できるその場所は、町の象徴でもある湾を見ることも出来る。
夕日を受けてキラキラ光る海は綺麗だ。
幼い頃からこれまで無縁で、実際にこの目で見るのが初めてだったからこそそう思うのかもしれない。
ただ、その美しさも今は心細さを覚えてしまうものだった。
──どこにいるんだ、ルージュ。
「ここに居らしたんですね」
ふと、背後から声をかけられ、我に返った。
振り向けばそこにはリップルがいた。
「シャローズ刑事に聞きました。被害に遭われた方の家を全て見てきたそうですね」
「ええ……手掛かりがあるかもしれないと思って」
「どうでしたか? 犯人はやっぱり吸血鬼なのでしょうか」
リップルの問いに、私は少しだけ考えた。
人に出来ない事と断言はできない。
直接見ることが出来たのはクラブの遺体だけだが、首筋の噛み傷は確かに吸血鬼の牙の痕に似ている。
私の首筋に残っているあの傷だ。
だがそれも、誰かが吸血鬼の仕業に見せかけるという事は出来ないわけでもない。
とはいえ、現場には血痕が残されておらず、遺体もあの傷以外の目立った外傷がない。
速やかに捕らえ、速やかに血を抜いたと考えるならば、やはり吸血鬼の仕業だとどうしても考えてしまう。
「可能性は高いと言えます。そうでなければ、吸血鬼に近い魔物の一種かもしれません」
「なるほど……そうなると情報を集めている僕も少し怖くなってきました」
リップルは苦笑しながらそう言った。
怖がっているようだが、何処か飄々としている。
そんな彼に私もまた問いかけた。
「リップルさんは探偵でしたね。いつからこの事件を追っているんですか?」
「最初からです」
すんなりと彼は答えた。
「最初の事件の被害者であるマリナさんの死が、痴情の縺れだと断定されたことに腹を立てた人物がいたのです。彼の依頼を受けて、僕も情報を集めていたのですよ」
「なるほど。では、今もその人物の指示で動いているのですね」
「……そうだったんですけれどね」
と、リップルは意味ありげに呟いて、私の隣で町を眺めだした。
その横顔から、この話題にはあまり触れてほしくない意図を感じてしまい、私は慌てて話を変えた。
「ともあれ、警察とは別視点で情報を集めてらっしゃるのなら心強いです。気になる情報があったらぜひ教えてください。吸血鬼は色んな場所に潜みますから」
「ええ、それは勿論。僕の方もプロの魔物狩りの方が加わってくださったのは心強いです。とにかく情報を集めて事件の真相を突き止め、終止符を打つお手伝いをするのが今回の仕事です。依頼主から頂いた報酬分はしっかり働かないと」
「ルージュ……口紅の吸血鬼の特徴はご存じですか? 太陽のような金髪に、葡萄酒色の目をした女です。ぞっとするほど美しい顔立ちをしているので、それなりに目立つはずなのですが」
会話を続けながら私は再び町を一望した。
犠牲者たちの家々に、私たちの泊っている宿、大通り、市場、繁華街、町で一番目立つ高級ホテルなど、気になる場所を視線で追った。
高台からこうやって見ると、この町は広いようでいて狭い。
「吸血鬼って、姿を消したりできるって聞きました」
リップルが言った。
「幽霊のように突然現れて、人を襲うのだと。だとしたら、目立つ容姿でも誰も気づかないものなんじゃないんですか?」
「それが……そうとも言えません。姿は消せても消えている間は誰にも干渉できないからです。六日に一度の捕食だけでは喉が渇くらしいと言われています。どこかで姿を現して赤ワインを飲んでいるはず。それに、人間のように睡眠も必要なはず。流れ者のはずだから、宿を取っているか、何処かに住み着いているか、誰かに匿われているか……。いずれにせよ、町の誰かに目撃されているはずなんです」
「──なるほど。そういうものなんですね」
リップルはそう言ってから、一人呟いた。
「太陽のような金髪に、葡萄酒色の目……ぞっとするほど美しい顔立ちの女……」
彼の反芻を聞きながら、私はさらに町を見渡した。
明るい場所と、暗い場所。
もっと日が落ちればもっとはっきりしてくるだろうけれど、夕焼け色に染まる今の時間でも真っ暗な場所が確認できた。
明かりが一切つかない。
高台から見ると、逆に目立つ区域だった。
「リップルさん……あの暗い場所って何か分かります?」
指をさして訊ねると、リップルも共に眺めてから答えた。
「ああ、あの場所はですね。古い集合住宅なんですよ。長く潮風に当たり続けて劣化してしまったらしくて取り壊しが決まっておりましてね。住民たちは皆、別の場所に引っ越した後なんですよ」
「という事は、無人なんですね」
身を潜めるにはお誂え向きの場所。
「気になりますか? ちょうど数日前、あの場所も何度か調査しに行ったんです。もしよろしければ、夕食ついでにお話でも──」
リップルがそう言いかけたところへ、重々しい鐘の音が響いた。
日没の合図だ。
気づけば太陽は見えなくなっていて、東の空は既に暗くなっている。
その音に耳を傾けながら、私はリップルに答えた。
「折角ですが、御免なさい。そろそろ戻らないと。心配性の連れ合いが待っているんで」
苦笑いしながらそう言うと、リップルもまた軽く笑いながら肯いた。
「では、また明日以降にお会いしましょう」