2.追いかける理由
空が明け始めるより少し早く、私は殆ど記憶に残らない夢から覚めた。
ぼんやりとした頭で思い出すのは昨晩の事だ。
夕食の後、さほど飲んでいないはずなのに体が重たくなり、アンバーと共に客室に戻ったのは覚えている。
そこからの記憶は曖昧だ。
ただ、二つあるベッドのうちの一つが空である事と、昨日着ていたはずの服が床に散乱しているところから察するに、そういう事なのだろう。
別にどちらでもいい。
アンバーにこの関係を許したのは私自身だ。
それで彼女のためになるのなら、私は嫌ではない。
ただ少し不安もあった。
ルージュの囁きを思い出すのだ。
彼女は私とアンバーの関係も把握していた。
見ていたのだろう。
どうやって見ていたのかなんて、吸血鬼相手に抱く疑問ではない。
姿を消して幽霊のように移動する事も出来るのが彼らであるのだから。
その点については心配はいらない。
移動できると言っても、移動しているのは意識だけだという話だ。
本体は別の所にいる場合、見ることは出来ても直接干渉は出来ない。
私とアンバーの事を見ていたとしても、手を出してくるということはないだろう。
私が心配なのはそこではない。
アンバーまで危険な目に遭わないかという事だった。
今更な話ではある。
獲物を横取りされた吸血鬼はその相手を永遠に恨むと言われているからだ。
つまり、アンバーがルージュに睨まれているのは確実。
問題は、どの程度、恨まれているか。
それを探るためにも、やはりルージュを見つけ出さねばならないと私は感じていた。
食うか食われるか。
私たち二人のためには、多少の危険を冒してでも未来を勝ち取らねばならない。
だが、その切実な思いが、どうもアンバーに分かってもらえていない気もした。
隣で鼾をかいている姉が起きる前に、とっとと出かけてしまおうか。
そう思ったのだが、体はまだ重たかった。
寒さも理由の一つだろうと思い、衣服を拾うために私はそっとベッドを抜け出そうとした。
だが、そうしようと思った矢先、強い力でベッドに引き戻された。
「まだ寝てなよ。時報の鐘の音も鳴ってないじゃないか」
アンバーだ。
起きてしまったのか、起きていたのか。
「早いに越したことはないよ。日が昇っているうちがチャンスなんだから」
「まだ日も昇っていないじゃない」
半分寝惚けながらアンバーは言った。
「何なら、眠気覚ましの一発はどうだい? 昨晩のあんたの可愛い声をもう一度聞きたくなってきた」
「昨日も言ったろ。私の邪魔だけはしないでって」
「ふふん、酒のせいかな。覚えてないや」
嘘だ。
嘘に決まっている。
だが、いくらキャンキャン吠えたところでアンバーの気持ち次第で状況は変わってしまう。
現に私は仰向けのまま身動きが取れなくなっていた。
アンバーはさほど力を入れていないはず。
それでも、抑え込まれてしまうと体がびくとも動かない。
敵対する人狼と一対一の時にこの体制になったならば、それはつまり死を意味するということなのだろうと身をもって教えられた。
「ねえ、アンバー。放してよ」
正面から訴えるも、アンバーは退いてくれなかった。
代わりに大きくため息を吐いて、私の体を見下ろしてくる。
少し怖かった。
内心ふと次の満月がいつだったかを思い返してしまうほどには。
もしもこれがアンバーでなかったら、私はこのまま食い殺されることになる。
魔物の力を舐めてはいけない。
相手が男であれ、女であれ。
「アンバー」
もう一度その名を呼ぶと、アンバーは真面目な表情で訊ねてきた。
「なあ、カッライス。どうして奴を追うんだ?」
「何故って、それは──」
すぐに答えられずに言い淀むと、アンバーは言い聞かせるように囁いてきた。
「奴は師匠たちでさえ手古摺るような相手だ。その凶悪さをあんたは身をもって思い知っただろう。今だってほら、体は傷跡だらけじゃないか。アタシがあと少し遅かったら、あんたは死んでいたかもしれない」
「分かっているよ。そこは感謝しているよ」
「違う。アタシは感謝してほしいんじゃないんだ。たださ、最近のあんたを見ていると不安になるんだ。これも秘術のうちなんじゃないかって」
「秘術……」
アンバーの言葉が心身に沁みこんでくる。
何故、追いかけるのか。
それは、モリオンに先越されたくないから。
では、なぜ、先越されたくないのだろう。
ルージュ。
その名前を思い返すと焦りが生まれる。
見つけなきゃという焦り。
きっとこの焦りは彼女の命を奪うまで消えないだろう。
それでは、なぜ私は焦っているのだろう。
なぜ見つけなきゃいけないのだろう。
それは恐らく殺すためではない。
私はルージュに会って、本当は何をしたいと思っているのだろう。
「あんたはさ、奴に食べられようとしているんじゃないのか」
「……それは違う」
絞り出すように私は言った。
違う。
違うはずだ。
そう自分に言い聞かせていた。
仮にそうだとしても、違うと思い込まなくては。
「アンバー、私はルージュを仕留めたいんだ。モリオンに任せたくない。この手で仕留めたいんだ。仕留めてしまえば、私はもうルージュの迎えに怯えなくて済む。それに……君との仲を引き裂くものはいなくなる……から……」
真っ直ぐその顔を見るのが急に恥ずかしくなり、私は俯いてしまった。
そんな私を、アンバーは黙ってじっと見つめ続けていた。
そして不意に片手を離し、私の頬から胸元までを軽く撫でていった。
反発することも出来ず、じっと受け入れていると、アンバーは肩を落とした。
そして、私に告げた。
「あんたの気持ちは分かった。約束通り、アタシはあんたの邪魔をしない。ただ、あんたの方も約束してほしい事があるんだ」
「約束?」
問い返すと、アンバーは真面目な顔をして頷いた。
「この町の時報の鐘だよ。日の出と日の入りにそれぞれ鳴るだろう。朝の鐘が鳴ってから出かけ、夜の鐘が鳴ったら必ず帰って来る。夕飯は私と一緒に食べる事。その約束を守ってほしいんだ」
即答できずに黙っていると、アンバーは付け加えた。
「師匠から習ったと思うけれど、夜は魔物の時間だ。ベテランの狩人ほど魔物は昼に探し、昼に仕留めるものだ。特に吸血鬼ともなるとね。新人のあんたが立ち向かったところで、奴に一泡吹かせることすら出来ないだろう」
アンバーの言う事はもっともだ。
焦りやプライドに駆られて行動しても意味がない。
この依頼の内容次第では、組合にも迷惑がかかってしまうだろう。
ペリドットの事を思うとそれは避けたい。
「……分かったよ」
私が頷くと、アンバーはようやく私の体から退いてくれた。
「約束だぞ」
アンバーは言った。
「もしも破ったら、その時には今度こそアタシがあんたの主人になっているってことを思い出させてやるよ」
紛うことなき脅しである。
だが裏を返せば、約束を守る限りはそうしないという事ではないだろうか。
この時の私はまだ、アンバーの心情を正しく理解していたとは言えない。
それでも、彼女に対するある程度の信頼は揺らいだりしなかった。
「約束するよ」
はっきりとそう答えると、アンバーは安心しきったのか、そのまま寝入ってしまった。
再び彼女の寝息が聞こえてくるようになると、ほんの少しだけ寂しい気もした。
けれど、気持ちを切り替えなくては。
今日やることは多い。
日の出から日の入りまでの間になるべく動き回らなくてはいけない。
その為に今できることは、日の出と共に出かけられるようにする朝支度だ。
アンバーと話している間に頭も冴えたのだろう。
起き上がるのは苦痛ではなかった。
服を着て、武器の手入れをして、私物をまとめてしまう頃にようやく窓から見える空が明け始めてきた。
その美しい空を眺めているうちに、微かだが鐘の音が聞こえてきた。
時報だ。
窓を開けてみるとその音がはっきりと聞こえてきた。
昨日の夜も聞いたこの鐘の音。
この音を合図に活動を始める住民も多いと聞いている。
私もまたこの町にいる間はこの鐘の世話になるわけだ。
そんな鐘の音を耳に覚えさせながら再び窓を閉めると、すっかり眠ってしまったアンバーに近づき、その頬にそっと口づけをした。
「行ってくるよ」
その声が夢の中の彼女の意識まで届いたかは分からない。