12.夢魔と吸血鬼
翌日、だいぶ重たい体を引きずりながら、私は再び見世物小屋を訪れていた。昨日と同じ警備員に声をかけてみれば、私の顔を見るなり彼は座長からの伝言を聞かせてくれた。それによれば、できれば夕方までにレムリアが会いたいと言っている、とのことだった。ムーでもマイヤでもなく、レムリアだ。
昨晩までは難しそうだったのに、明らかに不穏な香りがする。罠かもしれない。そんな事は分かっていた。だが、行かないという選択肢なんてない。大丈夫、私には武器がある。いつもの武器よりもだいぶ少ないけれど、丸腰なんかではない。
(……それに、あなたは一人じゃない)
耳元でルージュに囁かれ、背筋が凍り付く。昨晩の事が頭を過ぎり、気が気でなくなりそうだった。それでも、私はそんなルージュの声にすら背中を押されるような気持ちで、レムリアの寝泊まりしている部屋へと歩んでいったのだった。
見世物小屋の団員たちが寝泊まりしている場所はまちまちだ。
人によっては宿泊客と同じように客室に泊まっているが、人によっては楽屋を根城にしてしまっているという。
マイヤなどはその類だったが、もちろん多くはない。彼女がそうしているのは猫と過ごしたいからなのだろう。
一方のレムリアはというと、高級な客室も用意されたらしいのだが、ペリュトンが怖がるという理由で、彼女もやはり専用の楽屋に寝泊まりしているとのことだった。
というわけで、楽屋を訪ねてみたところ、すぐに応対はあった。出てきたのはレムリア本人だ。中に通されてみれば、あのきつい香水のにおいが私を出迎えてくれた。
奥にはペリュトンもいる。やはり鎖に繋がれ、怯えているようだった。
「思っていたよりも早くて助かりました」
レムリアは開口一番そう言った。
「なるべく早くお会いしたかったのです。あなたとお話がしたかったので」
微笑む彼女に座るよう促され、私はソファに座った。楽屋というだけあって非常に狭くごちゃごちゃとしているが、ソファだけは高級だ。大人しくしていると、レムリアは私の反対側に座って、じっと顔を見つめてきた。
「……どうしました?」
思わず訊ねると、レムリアは目を細めた。
「いいえ。ただ、ちょっといい香りがしたもので」
「香り……?」
「ええ。香水とは違った魅惑的なものです」
彼女がそう語った時、離れた場所から鎖の動く音がした。ペリュトンだ。甘えたくなったのだろうか、レムリアのもとに歩み寄ってくる。そんな彼女の接近を振り返りもせずに手でなだめながら、レムリアは私に言った。
「カッライスさん……少しだけ私の目をご覧になってくださいませんか」
「……え」
不意打ちだった。仕掛けてくる気配すら見せなかった。私に分かったのはただ、レムリアの目が怪しく光ったということだけ。その後は、急に視界が揺らぎ、気づいた時にはソファの上に倒れていた。それだけじゃない。上に誰かが乗っている。レムリアではない。レムリアではなく、ペリュトンの方だ。
──しまった。
ピイ、と、鳥のように鳴いて、ペリュトンはただただ私を見つめていた。その目を見ていると、段々と瞼が落ちていく。
駄目だ。眠ってはいけない。いけないのに。力が抜けていく。
夢の世界の足音が、脳裏の向こうから聞こえてくる。そんな状況の中で、影の中から囁く声が聞こえてきた。
(安心なさい)
ルージュだ。その名を認識した瞬間、眠気が去った。
ペリュトンが小さな悲鳴をあげて私の上から退いた。目を擦りながら、どうにか周囲を確認してみれば、私の目の前には先程まで目の前になかった赤色が見えた。
「ルージュ……」
声をかけるも、彼女は振り向かない。ただただレムリアを見つめていた。
「大した度胸ね」
ルージュは言った。
「私に気づいていながら、喧嘩を売ってくるなんて」
「あら、違いますよ」
と、レムリアは答えた。
「喧嘩ではありません。これは狩りですよ」
その途端、レムリアの様子が変わった。
周囲の景色がぐらつき、空間が歪んでいく。魔術か。困惑を隠せない私の目の前で、ルージュは落ち着いた様子のまま前を向いていた。静かにレムリアを見据え、微動だにしない。
「──そう。随分と自信がおありなのね」
ルージュは言った。
「私を狩ろうだなんて、大胆な女性。でも、嫌いじゃないわ」
その言葉に、ようやく私は気づいた。
──狙いは……ルージュなのか……。
レムリアの笑みがさらに深まる。
歪な色気を伴う眼差しが、ルージュに向けられている。
「まあ、嬉しい。私、ずっと、ずっと、あなたとお近づきになりたかったんです。けれど、あなたの傍には常に目を光らせた素敵な王子様がいる。どうすれば、ここに来てもらえるか、ずっと、ずっと、考えていたんです」
「……そう。それで、まずはこの子を狙ったのね。初めから、そのつもりで」
「ご安心ください。あなたの後で、その狩人さんもちゃんといただきます。その人もその人で、あなたの一部が刻まれた特別な人間ですもの」
何の恐れもなく、レムリアはそう語った。私が武器を持っていることなど分かっているだろう。けれど、思えば彼女はアンバーを捕らえてしまったのだ。それだけの強さがあるということ。恐怖心が少しだけ顔を覗かせようとしている。そこへ、ルージュが小さく笑みをこぼした。
「さぞかし高名な吸血鬼たちを狩ってきたのね。そんなあなたに見初められて、光栄よ」
「それだけ長生きした吸血鬼というものには価値があるのですよ。さあ、お話はこのくらいにしましょう。ここはまだ夢うつつの狭間。けれど、たとえあなたであっても逃れられない。あなたと深く結びついた狩人さんが動けない限りは……。人間なんかを可愛がって執着したことが仇となりましたね」
そう言って、レムリアは軽く手を上げた。その瞬間、周囲の空間が不自然にねじれた。現れたのは無数の腕だ。紫色のその腕が、ルージュを捕らえようと蛇のように襲い掛かる。
しかし、ルージュは動かない。いや、動けないのだろうか。そう思った途端に、奇妙な危機感に襲われ、私はとっさに起き上がった。
──獲られてしまう……私のルージュを!
手に取ったのは拳銃だ。ここは夢うつつ。完全なる夢ではない。懐に忍ばせた銃を手に取る事が出来たのだ。引き金を引くと同時に破裂音が響き、腕の数本が同時に撃ちぬかれた。
思わぬ攻撃だったのだろう。レムリアが怯んだ。殺せはしなかった。だが、対魔物用銃弾は、この世界でもわずかに通用するらしい。
「……少々、お痛が過ぎますね」
レムリアの声に怒りがうかがえる。だが、その視線が私へと向けられた瞬間、ルージュの姿が音もなくふっと消えた。それも一瞬の事で、再びその姿が現れる。私の目の前ではない。レムリアの背後だ。
「お痛が過ぎたのはあなたの方よ、レムリア」
「そんな馬鹿な……どうして……」
すぐに振り返ろうとするレムリアに応えることなく、ルージュはそっと抱擁し、首筋に口づけを交わした。すぐさま甲高い悲鳴があがり、レムリアが暴れだす。だが、その死の抱擁からは逃れられなかった。
近くにいたペリュトンが怯えて縮こまる。だが、どうしていいのか分からないのか怯えるばかりで主人の助けに入る様子はなかった。そんな憐れな天使の眼差しを無視する形で、ルージュは捕食を続けた。
しばらくすると、レムリアの腕からとうとう力が抜け落ちた。
瞼は開きっぱなしだ。そして、その瞳も。
やがて、空間のゆがみは収まった。きっとここは完全に夢から覚めたうつつの世界なのだろう。
息を飲む私の前で、ルージュはレムリアの体を離し、口元を拭う。
力を失ったレムリアの体が人形のように落ちていく。そして、床にぶつかると同時に、ぐしゃり、と、塵のように崩れてしまった。後に残るのは僅かな塵だけだ。
「夢魔らしく、儚いものね。これで私の仕事は終わりよ」
「待て、ルージュ。アンバーは……」
すると、ルージュは目を細めてこちらを振り返ってきた。
「愛する人の大切な場所で、とんでもないショーをしようとしていた馬鹿な魔物は排除出来た。あとは、私には関係ないわ。あの狼が何処へ売り飛ばされようとも」
「それなら、こっちだって考えがある」
すぐさま銃口を向けると、ルージュは微笑みながら答えた。
「いいの? そんな事をして。せっかく、あなたにチャンスを与えようというのに」
「……チャンス?」
「愛しい狼を助け出すチャンスよ。もうすぐ、ここへあなたの協力者がやって来る。あなたにとって大事な助っ人となるでしょう。けれど、そのチャンスを不意にしてまで私が欲しいのならば、相手をしてあげてもいいわ。その代わり、あなたは恋人と二度と会えなくなるでしょう。……お忘れではなくて? 昨日、一昨日、誰に体を委ねたのか」
穏やかな口調でそう言われ、私はそのまま固まってしまった。
ルージュがここで命じればどうなるか。答えは分かっている。私は再び自由を失う事になる。彼女さえその気になれば、私の意思なんて簡単に捻じ曲げられる。
アンバーを助けることもせずに、彼女について行ってしまうのだろう。
「何故、私を自由にする」
銃口を向けたまま、私はルージュに訊ねた。
「さっさと殺せばいいものを……」
「まだ分からないの? あなたを愛しているからよ」
囁くようにルージュは言った。
「人間であるあなたの求める愛とは少し違うかもしれない。ハニーに向ける愛とも違う。けれど、これもまた愛よ。私はね、愛のない狩りをしたくないの。ただ食欲を満たすためのつまらない狩りで、たった一つしかないあなたの命を無駄に消費したくない。アトランティスは広いけれど、とっておきの日まであなたを捕らえておくには狭すぎる。それに煩すぎるわね。だから、せいぜいその日まで、安全な場所で、あなたなりの幸せを感じながら過ごしてくれればそれでいいの……」
にこりと笑う彼女に、異様な恐怖がこみ上げてきた。煙に巻いているのか、本気なのか、それも分からなかった。
相手は吸血鬼だ。人間じゃない。生きてきた時代も長さも違い過ぎる。それだけに、理解しようにもしきれない。そんな捉えどころのなさに戸惑っていると、楽屋の扉が激しくノックされた。
「レムリアさん、いるんでしょう。すぐに開けてください!」
ムーの声だ。
「ようやく来たようね。後はうまくやるのよ。もっとも、私に抱かれたくなったならば、あなたの方から訪ねておいでなさい。好きなだけ、甘えさせてあげる」
ルージュはそう言い残し、止める間もなく消えてしまった。逃がしたのか、逃がしてもらったのか。
判断に迷う状況に戸惑っていると、不意に足にしがみつく者がいた。ペリュトンだ。私に甘えるように服の裾を引っ張り、何かを訴えてくる。
どうやら、扉を開けるよう促しているようだった。




