9.ルージュの助言
「あの子が忠告したはずよ」
ルージュは穏やかな口調でそう言った。
「その指輪を一人で使えば、すぐに悟られると。そうでなくたって、私はいつもあなたが何処にいるのか分かる。決して切れないこの縁が、少しでも深まれば、私はいつでもあなたの傍に近づける。あの子もそれが分かっているから、傍を離れたがらないのでしょうね」
微笑みつつ、さりげなく近づいて来ようとしている彼女に気づき、私は慌てて対魔物用の拳銃を手に取った。
「来るな。一歩でも来たら──」
しかし、ルージュは動じなかった。
「撃ってみなさい。どうせ当たらないわ。それに、私の方も近づいたってあなたには何もできない。撃ってみなさい。あの子を救うために取っておくべき貴重な弾を無駄にしてもいいのなら」
「……救い出す?」
思わず動揺してしまった。そんな私にルージュは恐れなく歩み寄ってきた。その手が私の頬に触れようとする。しかし、肌と肌は触れ合わなかった。
「ほらね、言ったでしょう。今の私はあなたに触れることすら出来ない。ハニーに言われているの。今は勝手な真似をしないで欲しいって。それに、たくさんご飯も貰っているから、お腹も空いていない。だから、おびえないで、カッライス」
まるで獣でもなだめるようにルージュはそう言った。その猫なで声に絆されそうになっている自分に気づき、私は慌ててルージュから距離をとった。
後退したまま反対側の壁に背中をぶつけ、息を飲みつつ私はか細い声でルージュに訊ねた。
「アンバーに何があった。君は知っているのか……」
すると、ルージュは微笑むのをやめ、そっと余所へと視線を向けた。
「ずっと見ていたもの。あの子の身に起きた事を」
「え……」
思わず前のめりになる私へ、ルージュは再び視線を向けてきた。隙あらば、こちらを支配しようという意思を感じるその眼差しだった。けれど、私は目を逸らさずに、睨み返しながら彼女に訊ねた。
「……君たちの仕業ってわけじゃないんだね」
その言葉に、ルージュは軽く目を細めた。
「いい気味だけれどその通りよ。私がやったことじゃない。ついでに教えてあげると、ドッゲの仕業でもないわ。あの子を襲ったのは魔物よ。察しはついているのではなくて?」
「──レムリア」
その名を呟くと、ルージュは軽く頷いた。そんな彼女に、私はさらに訊ねた。
「レムリアに何をされたんだ。あいつは何者なんだ。それにペリュトンは──」
質問の止まらぬ私に、ルージュはさりげなく近づき、そっと指を触れてきた。そう、触れてきた。間違いなく触れられた。その事実に背中が凍り付く。さっきは触れられないと言っていたはずなのに。
怯える私にルージュは囁いてきた。
「あの子がいつも言い聞かせていたでしょう。魔物の言う事を信じてはいけないのよ。私は一言も約束しなかったでしょう。そのままの状態を保ち続けるなんて」
からかうように笑い、ルージュは私の手をにぎって自身の左胸に触れさせた。
「だけど、あなたにとっても悪い事じゃない。今なら私を撃ち殺せるわ。けれど、撃ち殺せば、あの子を助けることは出来ないわね。あなた一人では、レムリアには絶対に勝てない」
「そんなの……やってみなきゃ──」
「ええ、お利口さん。確かに分からないわね。じゃあ、そう思うのなら、ここで私を撃ち殺してごらんなさい。ずっとそれをお望みだったのでしょう。望み通り撃ち殺して、私の命を手に入れて、一人きりで愛する狼を助けようと奮闘してみなさい。レムリアもそれを望んでいるわ。あなた一人ならば、仕留められると踏んでいるのでしょうから」
魔物の言う事を信じるな。アンバーの言葉が何度も頭を巡る。
今がチャンスだ。ずっと、ずっと、この手で仕留めたかった最愛の獲物が目の前にいる。けれど、私には自信がなかった。
ルージュの言う通りだとしたら。ルージュを亡き者にすることが、今に限っては正しい選択でなかったとしたら。
「──レムリアは、何者なんだ」
どうにかそれだけを訊ねられた。すると、ルージュは私の頬に触れたまま答えた。
「あれは夢魔の一種よ」
「夢魔……」
「ええ、夢喰い人というの。人の夢に入り込んでその人の魂を貪ってしまう種族よ。貪り尽くされればただじゃおかない。ここで亡くなった人々は、みんなレムリアの犠牲者よ。ただね、夢喰い人自体は魔物としてはそんなに脅威ではない。魔力があまり高くない人達だから、直接触れあえない距離だと何もできないの。けれどね、彼らは知能がとても高い。あらゆる手段で魔力の低さをカバーしてみせる。レムリアの場合は、同じ夢魔の一種で夢鳥と呼ばれる種族を使役することで自由に狩りが出来るようね」
「夢鳥……それってペリュトンのこと?」
「そうよ。あの子は天使ではない。美しいその見た目を人々の脳裏に焼き付けて、夢枕に立つことができるの。そうは言っても魔物としては無害に近いわ。小食だし、せいぜい楽しい夢や怖い夢を食べてしまうに留まるから。問題は、夢喰い人のような別種族に使役されている場合ね」
「つまり、ペリュトンを使って狩りをして、レムリアが人を殺しているっていうことか」
「そういうことよ」
静かに、そして、淡々と言う彼女の手を、私はぎゅっと掴んだ。
「そこまで分かっていて、どうして何もしないんだ。恋人のホテルが荒らされているっていうのに。夢魔なんかよりも吸血鬼の方がずっと強いんじゃないの?」
すると、ルージュは私の手を掴み直して、幼子に言い聞かせるような態度で答えた。
「そうしたいのは山々だけれど、どこかの誰かさんのおかげで私も万全じゃない。それに、素の魔力が高くなかろうと、強者がずっと強者らしく生き残れるようなものでもないわ。分かるわね。彼女に好き放題させてしまっているのはあなたの責任でもあるのよ」
咎めるようにそう言われ、私は答えに窮してしまった。ルージュは万全じゃない。それは、私が狙った状況でもある。けれど今は、やはりここで仕留めるわけにはいかない。アンバーの無事が確認できるまでは、少しでも手がかりが欲しかった。
「アンバーは何処にいるんだ。レムリアに何をされたんだ」
「あの子は今、見世物小屋の舞台裏にいるわ」
「見世物小屋……」
「レムリアの管理する区域の檻の中にいる。カーテンで仕切られた鉄製の檻の中で、声がかれるまで叫んでいた。けれど、誰も助けにはきてくれない」
「まさか、皆、ぐるなのか」
「いいえ、それは違う。座長も、ムーも、そしてマイヤも違う。あなたの敵といえる存在はレムリアだけ。けれど、そのレムリアが見世物小屋での権力をにぎっている。座長ですら、彼女の私物に触れることは許されないの。とっておきの見世物だから、勝手に触れないで欲しいといって、鍵のかかった部屋に封じられているようね」
「──アンバー」
檻の中で声がかれるまで叫んでいる。それだけで、心が痛んだ。早く助けてやらないと。逸る心が抑えきれない。しかし、そんな私をルージュはそっと抱きしめてきた。
「カッライス」
ルージュは静かな声が、脳裏を揺さぶってきた。
「落ち着いて聞きなさい。あなたの愛する狼はね、満月の日にデビューさせられる予定よ。いいこと、満月の夜にはいい趣味をお持ちの大人の希望者が集って、夜明けまで魅惑のパフォーマンスをするのがあの見世物小屋の恒例行事なの。そこで、レムリアは何をしようとしているか分かる? 幕を開ければ檻の中には狼の姿のあの子がいる。そして、満月の夜が終わりを迎え、日が昇ると同時に……ねえ、あなたなら檻の中で何が起こるか分かるでしょう?」
「まさか……まさか──」
動揺がさらに増したその瞬間、ルージュの牙が首筋に深く食い込んだ。
「あっ……」
痛みに屈して震える私から、ルージュは血を奪っていく。そして、満足すると牙を抜いて、恍惚とした吐息を漏らした。解放されると途端に血の気が引いてしまった。動揺と、貧血で、立っていることすら難しい。そんな私を支えながら、ルージュは言った。
「あの子を助けてあげたいでしょう。場合によっては協力してあげてもいいのよ」
「協……力……?」
「満月の夜まで日はないわ。悩んでいる暇なんてない。もしも、間に合わなかったら、あの子は終わりよ。一生、見世物として過ごす事になるでしょう。私はそれでもいいの。けれどね、ハニーがそれを望んでいないの。人狼の見世物だなんて、このホテルには相応しくないもの。だから、私としても阻止してあげたい。ね、利害が一致しているでしょう」
けれど、私には分かった。この協力、ただでは実現しないのだろう。
「──何が望みなんだ」
唸るように訊ねると、ルージュは心から嬉しそうに笑った。
「狼のかけた術を解いて欲しいとあなたの口で言いなさい」




