8.消えた相棒
アンバーが突然いなくなったのは、その次の日の夜の事だった。
広大なアトランティスを嗅ぎまわり、マイヤからもさり気なくレムリアたちの様子を見てもらい、それでも大した収穫がなく辟易しながら二人で夕食をとったその後だった。
店の外にあるトイレに行ったまま戻ってこない彼女を待ち続け、待ち続け、おかしいとようやく気づいたのは、アンバーが向かったはずその場所を訪れ、中を確認してみても、誰もいないことを知った時だった。
アンバーの荷物は、その身を守るもの以外ほとんど全て私が預かっている。だから、そう遠くへはいかないはずなのだが。
──何か気になる事でもあったのかな。
真っ先にその身を案じなかったのは恐らく、私としてもアンバーが人狼であるということの強みを、無意識かつ頑なに信じていたからこそなのだろう。
アンバーが危険な目に遭うはずがない。無意識にそう思っていたのだ。しかし、それがどうも違うかもしれないと感じ始めたのは、レストランの閉店時間になり、やむなく先に客室に戻って一人でベッドの上に横たわり、一時間、二時間と経過していった時だった。
──アンバー……?
荷物は預かっているが、身を守るための武器は持っているはずだ。暴漢に絡まれるようなことがあったとしても、人狼である彼女が負けるとは到底思えない。
けれど、だからといって、何事もないだろうなどと片付けることはもう出来なかった。
だってここはハニーの領域なのに。
──もしや。
ベッドから身を起こすと同時に、寒気を感じてしまった。
もしも、アンバーの身にまずいことが起こっているとしたら。真っ先に考えられるのは、ドッゲだ。ここはアトランティス。オーナーはハニー。ルージュだっているし、ベイビーの姿だってあった。ドッゲが紛れていてもおかしくはない。
一度不安になってしまうと、眠気も疲れも吹き飛んでしまった。けれど、私は途方に暮れていた。私にはアンバーのような嗅覚はない。ダイアナという心強い味方も今は猫として保護されてしまっている。一人きりで捜すにも、彼女が今、どこで何をしているのかが全く分からなかったのだ。
それでも、分からないなりに捜さねば。狩りはいつだってそうだ。何処に獲物がいるかという手がかりは少ない。草の根をかき分けながら手がかりを見つけ出し、居場所を探るしかないのだ。
仮にアンバーが一緒に旅をしなかったら、どの道、一人きりで狩りをして稼ぎ、ルージュを追わねばならなかったのだ。一人でなんとかしないと。
最低限、戦える準備だけを整えて、私は静まり返ったアトランティスの廊下へと抜け出した。アンバーがいなくなった場所へとまずは真っ直ぐ向かって、そこから頼るのは自分の勘だった。レストランとトイレの間あたりの位置を見つめ、私は静かに周囲を見つめた。
アンバーが何の理由もなくふらつくなんてことはないだろう。この道のりの間に、何かを見つけたのではないか。そう思ったのだ。
しかし、いざ見渡してみれば、どこもかしこも怪しすぎた。何処へ行くべきか迷った挙句、私は真っ先に客室とは反対の方向へと歩みだした。
あてなんてものはない。目に映るものに対する直感を頼りにさまようばかりだ。それが一体、何の役に立つかなんてわからなかったけれど、どうしてもじっとしていることが出来なかったのだ。
けれど、彼女らしき姿はどこにもなかった。夜中に人が集まる場所も、逆に人気がなくなる場所も、その気配すら感じない。孤独にさまよい続けていくうちに、私はどんどん不安になっていった。あの麦色の髪が恋しくてたまらなかった。
「アンバー……」
歩いているうちに、ふと思い出したことがあった。
それは、死霊使いが住み着いていた古い館での依頼のことだ。あの時も、私はアンバーを探して心細い戦いを強いられていたのだ。
けれど、あの時は一人ではなかった。あの時はダイアナが一緒にいた。当時は決して味方ではなかったが、それでもルージュに言いつけられている通りに私の傍を離れなかったのだ。
今は違う。今はダイアナもいない。本当に一人きりで、不安と戦わねばならなかった。
「何処にいるんだ、アンバー……」
悔やむべくはすぐに異常だと気づけなかったことだろう。
しかし、どんなに悔いたところで、私に時間は戻せない。拳を握り締め、涙をこらえながら、私は夜通しアンバーを探し続けた。
それでも、アンバーはどこにもいなかった。気配すら、どこにも。
最後の希望を胸に抱き、私は二人で泊っている客室へと戻った。もしかしたら、入れ違いになって、帰ってきているかもしれない。鍵を持っていなかったかもしれないから、閉め出されて困っているかもしれない。
そんな期待と共に、客室へと戻っていったが、廊下には誰もいなかった。では、中は。実は鍵をちゃんと持っていて、すでに中で待っているという可能性は。答えはすぐに示された。客室の中には誰もいなかった。
「アンバー……」
声が震えた。
時刻は明け方近く。眠気と疲れがどっと押し寄せてきて、涙をこらえることも出来なくなっていた。膝から崩れ落ちたまま、私はしばし床を見つめた。
「どこに行ったんだ。何があったんだ。アンバー……アンバー……」
絶望に思考が苛まれかける。だが、その時、ふと思い出したことがあった。指輪の存在だ。ルージュに持たされ、アンバーが改造したあの指輪だ。
指輪はきちんと保管してある。満月の夜という条件は外れたが、一人で使うのは勇気がいった。アンバーの介入なしにこれを嵌めれば、気配を殺すことが出来ない。それはつまり、指輪を通して見ているということを、ルージュにも知られるということなのだろう。
けれど、今はそれでもよかった。ルージュの様子が知りたかった。アンバーがいなくなった事に何かしら関わってはいないか、どうしても確かめたかったのだ。もしも、彼女のもとにアンバーが囚われていたら。
「ごめん……アンバー……一人で使うよ」
罪悪感を軽く覚えながらも、私は涙目になりながら指輪を嵌めて瞼を閉じた。
涙が弾みでこぼれ、床へと落ちていったその途端、脳裏に光景が浮かんだ。前に見た時と恐らく同じ部屋だろう。座り心地のよいソファベッドに寝そべり、その様子をベイビーが静かに見守っている。
視線の主はルージュに違いない。しかし、彼女はその場から全く動かなかった。薄っすらと目を開けたまま、ただじっと前を見つめている。
前にダイアナが言っていた吸血鬼の眠りというものだろうか。そんな事を思っていた矢先、ルージュが不意に笑みを漏らした。そんな主人の様子にいち早く気づいたベイビーがそっと訊ねた。
──いかがなさいました、ルージュ様?
明るく落ち着いた声が脳内に響いた。
そんなベイビーに視線を向ける事もなく、ルージュは答えた。
──面白い事があったの。
──面白い事……ですか。
──忌々しい狼の身にトラブルが起きたみたいなの。
──まあ。それはきっと、カッライス様もさぞかしご心配なさっていることでしょう。
──ええ、そうみたいね。健気な事に、恋しがって探し回っていたようよ。……ともあれ、退屈な日々の良い刺激になりそうだわ。
そして、ルージュは軽く息を吐いてから、呟くように言った。
──それにしても。
と、そこで、私は身震いを感じた。
「いけない子たちね。私の大事な指輪を薬物で改造してしまうなんて」
その声だけが妙にはっきりと聞こえた。
異様な寒気を感じ、私は瞼を開いた。とっさに振り返ってみれば、誰もいなかったはずの客室の一角に覚えのある姿があった。
音もなく、気配もなく、まるでずっとそこにいたかのように、彼女は立っていた。
「……ルージュ」
震えた声でその名を呼ぶと、彼女は口元に笑みを浮かべた。




