4.とある青年の想い
ムーという青年に話しかけられたのは、見世物小屋の会場を後にしようとしていたまさにその時だった。マガラニカ氏と座長がいなくなった直後を狙って、彼は私たちに接近してきた。
警戒したのか咄嗟にアンバーが睨みを利かせたが、彼は立ち止まりはしなかった。アンバーを恐れていないのではない。どうやら気づいていないようだったのだ。それだけ、ゆとりがなかったのだろう。
「あの、すみません……ちょっといいですか」
恐る恐る彼は口を開いた。
「何かな? 悪いけれど、今日はもう遅いから──」
アンバーはさっさと断ろうとしたが、何となく気になって、私は被せるように訊ねた。
「少しだけなら」
アンバーが不満そうに溜息を漏らすのが聞こえたが、ムーはそれにも気づかない。途端に目を輝かせ、さっそく切り出してきた。
「狩人さん達なのですよね。このホテルに潜む魔物を狩るために来た」
私とアンバーが静かに頷くと、彼は深呼吸をしてから続けた。
「僕、ムーっていいます。ここの一座の裏方として働いてもうすぐ一年になります。ようやく仕事に慣れてきたところにあの事件が起こって、同期はやめたいってよく言っています。僕も怖いんです。けれど、皆とは少し違うことが怖くて……」
「違う事?」
アンバーが不審そうに訊ねると、ムーは周囲をちらりと確認してから小声で言った。
「狩人さん達、先程はペリュトンにお会いしたのでは。どうしてお会いしたのでしょうか。まさかとは思いますが、ペリュトンが……」
彼の言わんとすることにすぐ気づき、私は素早く否定した。
「いえ、違います。マガラニカ氏と座長が会わせてくれただけですよ。今宵のショーの花形として」
私の言葉にムーは少しホッとした様子だった。
そんな彼にアンバーがやや意地悪い調子で訊ねた。
「もしや、疑っていた?」
するとムーは必死になって否定した。
「い、いえ、違う。違うんです。その逆なんです……」
そして、大きく溜息を吐いてから、彼は落ち込んだような表情を浮かべた。
「僕、彼女の事をずっと心配しているんです」
その言葉に、思わず私はアンバーと顔を見合わせてしまった。私たちの反応も気にせずに、彼はペリュトンの事を語り始めた。
ペリュトンとレムリアが見世物小屋の花形になったのは、ムーが働き始めたばかりの頃だったらしい。つまりはまだ一年ほど。その一年でペリュトンはあっという間に評価を高め、今ではショーの最大の見せ場を任されるまでになった。
長期滞在の客の中には毎日のようにペリュトンの歌を聞きに来ては、贈り物をする者もいるらしい。そして、遠くからもウワサを聞きつけて一度ペリュトンのショーを見たいとわざわざここへやって来る者もいるという。
「素晴らしいじゃないか。何を心配することが?」
アンバーがそう言うと、ムーは暗い表情のまま私たちを見つめてきた。
「狩人さん達もお気づきでしょう。ペリュトンは人間ではないのです。どう見ても魔物です。勿論、動物にも大人しいものと猛獣がいるように、魔物にも色々いるのでしょう。彼女はきっと大人しいタイプなんだと信じてしまう。しかし、それならばそれで、彼女は本当に幸せなのだろうかといつも気になっているんです」
「ほう、それまたどうして?」
アンバーの問いに、ムーは気まずそうな様子ながらはっきりと答えた。
「それは……普段のペリュトンがいつも何かに怯えているように見えるからかもしれません。レムリアさんは本物の娘のようにペリュトンのお世話をしていて、ペリュトンもそんなレムリアさんの事を信頼しているようなのですが、それ以外の人間全てに怯えているようなんです。それが僕にはどうしても引っかかって……」
彼の言葉を聞きながら、私は楽屋で目にしたペリュトンの姿を思い返した。あの時のペリュトンは椅子に座っていた。私たちの存在に怯えているようだったが、確かにレムリアのいうことだけは信頼しているように思えた。
しかし、気になっていた点はある。足の鎖だ。娘のように愛しているとしたら、あの鎖は何だろう。勿論、魔物だからということはあるかもしれない。アンバーたちのような人狼みたいに人間に近い知性があるわけではないのだとしたら。しかし、それならば確かに、ムーの言うことも分かる気がしたのだ。
「──で、あんたはアタシたちに何を期待しているわけ?」
アンバーが突き放すように問いかけると、ムーは息を飲みつつ答えた。
「無茶なお願いだってのは分かっているんですが……もしも……もしも、あの事件の犯人がペリュトンだったとしたら……僕の願いを聞いて欲しいんです……どうか……どうか、ペリュトンを殺さないで!」
思ってもなかったその訴えを前に、私たちは口を噤んでしまった。
その後、ムーは仕事が残っていたようで、すぐに他のスタッフに呼ばれて立ち去ってしまった。無茶なお願いだと分かっている。分かっていても、言わざるを得なかったのだろう。
客室に戻る前に、私はアンバーと共に酒場のカウンター席に並んで座り、軽い食事と酒を嗜みながら何となく見世物小屋での話を振り返った。仕事に関係ある事、ない事、さまざまな話題の海を共に漂っていく。そして、最後に到達したのが、ムーの話題だった。
切実な彼の訴え。その表情を思い出すたびに、私は胸がざわざわしてしまった。何となくではあるが、ムーの気持ちが分かるような気がしたのだ。
もしも、アンバーが人狼であることが分かってしまったならば、そして、私に護り切れるような力も自信もなかったならば、きっとムーのように懇願することになるだろう。
「……にしても、彼、随分と切実だったね。それだけあの天使ちゃんを心配しているってことかな。もしかして、恋……ってやつなのかな」
アンバーがぽつりと呟いた。
「確かに可愛いお嬢ちゃんだったもんね。相変わらず何の種族だか分からないけれどさ。あの楽屋、香水のニオイだらけで全然鼻が利かなくてさ」
「ねえ、アンバー。ムーさんの言っていたこと、どう思う?」
「どの話?」
「天使ペリュトンにとって今の生活が幸せなのかどうかっていう話」
アンバーはしばらく考えて、そしてため息交じりに答えた。
「さあね。そればっかりはペリュトンに聞かないとわかんないんじゃないかな」
「……そうだよね」
言われてみればその通りだ。ムーから観たペリュトンの不安そうな表情も、それだけでは彼女が幸せなのかどうかも分からない。けれど、ムーの心配している気持ちというものも本物には違いないのだろう。
──どうか、ペリュトンを殺さないで。
彼の言葉を思い出し、私もまた溜息が漏れた。
「もし、ペリュトンが事件の犯人だったら……どうする?」
アンバーにそっと訊ねてみると、彼女はため息交じりに答えた。
「その時は相談だね。支配人と座長の意見も聞かないといけないだろうし」
心成しかその声はどこか暗かった。
見るからに人間ではないペリュトンがああやって大切にされているのも、人間を襲わない無害な魔物であると信じられているからだ。
でも、そうでなかったと発覚してしまったら、その魔物はどうなってしまうだろうか。私は隣に座るアンバーの横顔を見つめながら考えた。
アンバーは赤ん坊の頃にペリドットたちに保護された。人食い狼だった両親はどちらも仕留められ毛皮になり、遺されたアンバーをどうすべきかで組合の狩人たちの意見は分かれた。まだ赤ん坊なのに、殺すべきだという声があがったのだ。
ペリドットたちのように庇う者がいなければ、アンバーはその場で殺されていたか、魔物の子を欲しがる物好きに売り払われていたかもしれない。アンバーの事を執拗に狙うドッゲたちのような狩人ならどうしていただろう。
ともあれ、多くの人々にとって魔物という存在はそういうものなのだ。となれば、ペリュトンだって無事ではいられないだろう。
私がムーのために願うべきことがあるとすれば、それはこの事件の犯人がペリュトンではないということなのかもしれない。
その後、食事を終えて客室に戻ると、アンバーは鍵を開ける前に眉をひそめた。
「……ん?」
「どうしたの?」
気になって訊ねるも、アンバーはすぐには答えてくれなかった。
無言でそのまま鍵を開け、恐る恐る扉を開ける。中には誰もいないように見えた。しかし、よくよく目を凝らすと、ベランダを遮るカーテンに何かの影が見えた。
ここは高層。だから不自然だ。あり得ない。それなのに、その影は確かにあった。その影は猫の形をしていた。




