13.魔物は魔物らしく
二人とも合格。
その言葉に驚いたのは私自身だった。
あれから時間が経った今だって、どうして私も合格だったのかは正確に理解できているわけではない。
ペリドット自身に改めて訊ねても、帰って来る答えは一緒だった。
述べられた理由通り、吸血鬼の獲物になりながら生還したことが高く評価されたのか、或いは、自らの身を守るために対魔物用武器を持てるよう計らってくれたのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
しかし、時間が経つにつれ、困惑よりも喜びの方が増していった。
ペリドットがいいというのだからいいのだろう。
これで私も魔物狩りをすることが出来るわけだ。
だが、この結果に不満そうな者がいた。アンバーだ。
「いやいや、おかしい。おかしいでしょう。アタシはともかくさ、なんであんたまで?」
「ルージュのもとから生還したからだって」
「生還させたのはアタシ! アタシの力で逃げ帰ったわけだが?」
「それ以上は師匠に聞いてよ。私だって、合格は君だけだと思っていたくらいだし」
恐る恐るそう言うと、アンバーは大きくため息を吐いた。
「そうしたいところだけどさ」
そう言って、私の隣に腰かけてきた。
座っていた場所はベッドの上だ。
ルージュの屋敷にあったものと比べてだいぶ簡素だが、この方が今は落ち着く。
屋根裏は広く、同じベッドが五つもあるのだが、どうやらアンバーは自分の荷物を置いている隣のベッドで眠るつもりがないらしい。
「その前に、お礼の続きを貰っておこうかな」
「……ここで?」
さすがに躊躇ってしまった。
一階にはオニキスとペリドットがいる。
深くは語れないが、物音が聞こえてしまうのではないかと怖くなったのだ。
しかし、そんな私の躊躇う姿を見てアンバーは面白がった。
「大丈夫さ。この小屋、こう見えて防音性が高くてね。一階の物音なんかもほとんど聞こえないんだよ。な、今だって師匠たちの声も聞こえないだろう?」
「確かに……そうだけど」
「なんだ、カッライス。アタシの言う事が聞けないのか。約束したくせに」
「勿論、約束を破る気はないよ」
「そう。それじゃあ。まずは体の傷を見せて」
主従の牙とやらは発動していないはずなのだが、アンバーの指示に逆らうことが出来なかった。
ルージュの屋敷から逃げる時からずっと着ていた黒いドレスを脱いでしまうと、アンバーはそのドレスを奪い取って床に投げてしまった。
「良かった。実を言うとこの服さ、奴のニオイがこびりついて不快だったんだよ。まあ、見た目は悪くなかったけどね。さて、次だけど」
と言って、アンバーは琥珀色の目を私の体へ向けてきた。
人間の姿をしているはずなのに、狼の姿の時よりも獣らしいのは気のせいだろうか。
そんな事を思っているうちに、アンバーは私の体に指を触れてきた。
「本当に傷だらけだね。ガラスで切った傷も随分あるが……勿論、それだけじゃない。吸血鬼の噛み傷だらけみたいだ。でも、それだけじゃないね。この傷は……ガラスでも牙でもないようだ」
アンバーが掴んだのは腕だった。
肩から二の腕にかけて大きな傷が残っている。
すでに塞がり始めているが、完全に消えることはないだろうと分かる傷だった。
「刃物で切られたんだ。ここ以外にもいくつか。血が流れていくところを見たいって」
「なるほど、悪趣味な奴だ。……震えているようだね。相当怖い目に遭ったようだね。他にも何かされたんだろう。何をされたんだ?」
そっと囁きかけられ、私は視線を泳がせてしまった。
素直に答えることがまだ難しい。
結局、私は遠回りする事しか出来なかった。
「……アンバー。吸血鬼について師匠から習った時の事を覚えている?」
「勿論」
「吸血鬼の怪しげな術については?」
「──だいたいは」
彼女は探るように見つめてくる。
その眼差しから逃れるように顔を背けると、私は覚悟を決めて話を続けた。
「吸血鬼には獲物を魅了する力がある。血を吸った相手を支配できるんだ。そうだね、君が私にしたっていう主従の牙に少し似ている力かも」
「覚えているよ。だが、それだって一時的なもののはずだ。それこそ主従の牙と同じような力しかないらしい。絶対的なものじゃないって」
「うん。その力はその通りなんだと思う。でも、吸血鬼にはもっと強力な魅了の術がある。吸血鬼の秘術って言われるやつだ。覚えているかな、アンバー。師匠が教えてくれた吸血鬼の秘術の内容について」
「──覚えている」
アンバーはそのまま声を詰まらせ、ややあってから私に訊ねてきた。
「まさか、それを……されたのか」
黙ったまま俯いてしまった。
頷くべきところだったが、体が凍り付いたように動かなかった。
しかし、この沈黙こそが答えになったのだろう。
アンバーは深くため息を吐くと、私の体をぎゅっと抱きしめてきた。
怒っている、のだろうか。
不安に思ったのも束の間、アンバーは不敵に笑いながら呟いた。
「だが、完璧なわけじゃないようだね。そうじゃなかったらあんたを連れ出せなかったはずだ。そうか。絶対的な力ってわけじゃないわけか」
「逃げる時、彼女の目を見なかったのも良かったのかもしれない。吸血鬼の力は目に宿るっていう話も聞いたでしょう。でも、どちらにせよ、あの時に抗えたのは間違いなく君のお陰だよ。私一人じゃどうにもならなかった」
「ああ、そうだな。……でも、そうか」
大きくため息を吐いてアンバーは項垂れ、不敵に笑いだした。
「はは、こんな事ならさっさと奪ってやればよかったんだ。魔物のくせに、人狼のくせに、人間の真似事をしてあんたの気持ちなんかを窺っちまってさ。どうなんだ、あんたは。奴で良かったのか」
「……良くないよ」
震えながら私は言った。
反射的に飛び出た本音でもあった。
「私は、君が良かった。比べるまでもない」
しがみつきながらそう訴える私を、アンバーはじっと見つめてきた。
無表情だったせいか、その目の向こうで何を考えていたのか、探るのが難しかった。
けれど、しばらくすると彼女は急に私の体をベッドに押し倒した。
「アンバー……」
声をかけると、彼女は眉間に皺を寄せつつも囁いてきた。
「吸血鬼の秘術ね」
疑うように彼女は呟くと、私の首筋に触れてきた。
そこにも治りかけの傷がある。
恐らく痕が残るだろうと思われるルージュの噛み傷だ。
その具合をしばらく確かめたかと思うと、アンバーはその場所に軽く爪を立てた。
息を飲んでしまった。
他人に触れられるのが怖い繊細な場所だからというのもあるが、アンバーの様子がいつも以上に荒々しく感じてしまったからでもある。
それだけ飢えているのか、はたまた怒っているのか。
判別のつかないまま、私は黙って彼女に身を委ねた。
アンバーは首筋の傷に顔を近づけると、小さな声で呟いた。
「奴のニオイが残っている。これも秘術のせいかな」
「取り消せないらしいからね。だから、吸血鬼に攫われた者は助けに行くな、なんて言われていたんだろうさ」
自嘲気味にそう言うと、アンバーは浮かない表情のまま黙り込んだ。
言いづらい事があると狼のように小さく唸るのは昔からの彼女の癖だ。
ほんの少しだけその唸り声を漏らしてから、彼女は覚悟を決めたように私に言った。
「……取り消せなくとも、塗り替えることは出来るかもしれない」
「塗り替える?」
思わぬ事を言われて問い返すと、彼女は身を起こし、仰向けになる私の顔をまっすぐ見下ろしてきた。
「主従の牙が通用したからね。それなら、もっと強い術を使えばどうだ」
「まだ何かあるの?」
「ああ、吸血鬼の秘術に似た奴がね。ただ、実際に使ったことはないよ。本に書かれていたのを覚えているだけだ。それが本当に出来るのかどうかさえ分からない。実際に試してみない事には」
「どんな術なの?」
問いかけると、アンバーは即答した。
「言っただろう。吸血鬼の秘術に似た奴だよ」
何を言わんとしているのか気づき、目が泳いでしまった。
だが、すぐに一つの疑問が浮かび、私は恐る恐る訊ねた。
「その……今の私に……使えるの?」
「そこが違う部分ではあるね。吸血鬼は最初の相手になればいいわけだろう。人狼は最後の相手になればいいんだ。つまり、対象となった獲物が自分以外の誰かと深い関係になるまでは、自分の支配下に置くことが出来る。主従の牙のように手頃に使える術ではないけれど、期間も効果も高いらしい」
「つまり……試す価値はあるってこと?」
確認するように問いかける私の体を、アンバーは抱き起した。
一般的な恋人同士がどのように肌を重ねるかなんて見たことはないけれど、少なくともこの時の私たちの様子は、人間同士の交わりとは少し違った雰囲気だったように感じる。
思えば、幼い頃の捕食ごっこの延長みたいなものだっただろう。
そのせいか、アンバーの事をどれだけ信頼していても、無防備な姿で身を委ねるのは緊張したし怖かった。
そして、その怯えを隠しきれていない私の態度を、アンバーもまた楽しんでいるように見えた。
彼女は言った。
「たとえ、ここであんたが嫌だと言っても、アタシはもう躊躇わないよ。魔物は魔物らしく。捕まえた獲物で欲を満たすだけ。たとえそれであんたに嫌われたとしても、一時的なものだ。すぐにあんたはアタシに従う事になる。この術がうまく行けば、の話ではあるが」
「嫌ったりしないよ」
私は正直に告げた。
「それに言ったでしょう。私はルージュではなくて君が良かったんだ」
本能的な恐怖心を抑えてはっきりとそう言った時、私は急に心細さを感じた。
どこかで見られているような気がしてならない。
ペリドットもオニキスも一階にいるはずなのに。
言葉ではっきりとルージュを拒んだ事への恐怖だろうか。
しかし、取り消すつもりなんて全くなかった。
そんな私の体にアンバーはぴったりと身を寄せると、その手を背中に這わせてきた。
そして、子守唄でも歌うように穏やかな口調で、彼女は言ったのだった。
「じゃあ、遠慮なく」