12.いばら館の庭で
月の出の時刻。
満月の光が煌々と宵闇を照らす中、私は息を飲みながら一人きりで森の中を進んだ。
普通ならば魔物や野獣、それに夜盗などを恐れる場面だろうけれど、そういった者の気配一つしなかった。
勘のいい者ならば、今宵だけは絶対にじっとしておくべきだと思わずにはいられないのだろう。
私だって理由がなければそうしていたかもしれない。
それだけに、歩めば歩むほど緊張感が増した。
そんな時だった。
ふと歩みを止めてくる目立った色が私の視界の端に映った。
この場に似つかわしくない赤色。
その色につられるように顔を上げた途端、寒気と感動が同時に呼び起こされた。
──ルージュだ。
遠目でもよく分かった。
彼女は静かに私を見つめていた。
森の木々の中からじっと。
しかし、近づいてくる気配はない。
様子を窺っているのだろうか。
それとも、もう、始まっているのだろうか。
互いに探り合っていると、ふとルージュの姿が霞のように消えた。
慌てて周囲を見渡すと、さらに遠い場所に彼女の姿はあった。
戸惑う私に対し、彼女は黙ったまま左手をあげていた。
──呼んでいる?
誘われるままに足を踏み出す前に、私はここに来る直前の事を思い返した。
ダイアナとモリオンは、今も私からそう離れていない場所にいる。
ダイアナの見立てでは、向こうもまた同じように何かしらの罠を用意しているだろうとのことだった。
素直についていけば、向こう側の罠が作動してもおかしくはない。
だからこそ、今は冷静に、周囲を見なければ。
そう思った。
だが、そんな私の思考を止めるように、声が聞こえてきた。
「カッライス」
囁くようなその声は、まぎれもなくルージュのものだった。
あんなに離れているのに、まるで近くにいるかのようだった。
「おいで」
彼女がそう言った途端、気づけば私は足を踏み出していた。
何も起こらない。
大丈夫だ。
大丈夫。
自分に何度も言い聞かせて、私はさらに前へと進んだ。
私が歩みだしたことに満足したのか、ルージュはその後もしばらく現れては消えて、消えては現れて、と繰り返し、何処かへと私を誘っていった。
そして、しばらく歩まされた末にたどり着いたのが、あの、いばら館だった。
息を飲みながら、私はその全貌を見つめた。
かつて、ここは私の家だった。
ここで暮らすことが当たり前だった。
ここは私の生家でもある。
そして、ペリドットに保護された直後は、帰りたい場所でもあった。
そのためだろう。
今はそうじゃないと思いたかったのに、いざ、その全貌を見ると懐かしくて仕方がなかったのだ。
──駄目だ。
私は自分に言い聞かせた。
──ここは忌まわしい場所のはずだ。
再び攫われたあの日、ここで私はルージュの隷属にされてしまった。
アンバーに捧げるはずだったものを、ルージュに奪われてしまった。
だから、忌まわしい場所。
そうであるはずなのに。
「カッライス」
再び名を呼ばれ、私は我に返った。
声のした方へと視線をやれば、ルージュは離れた場所でじっと立ち尽くしていた。
そして、私の視線が自分に向いたことを確認すると、そのまますっと消えてしまった。
その先にはハニーが言っていた庭がある。
いばら館の名に相応しい、薔薇の庭園だ。
誘われるままにそちらへ向かうと、早くも懐かしい香りがしてきた。
小さい頃、私は本気でルージュの事が好きだった。
母親のように慕っていたのだ。
彼女から与えられる愛を信じて疑わなかった。
そこに裏があるなんて思いもしなかったのだ。
ペリドットたちが攻め込んできた日の事もよく覚えている。
幼い私はルージュと引き裂かれたのだ。
共に逃げようとしたその時、猟銃を持った恐ろしい形相の狩人たちが屋敷に入ってきて、ルージュに向けて発砲したのだ。
あの時、私は悲鳴を上げた。
恐ろしかったのだ。
ルージュが殺されてしまうと思って。
だから、自ら前へと飛び出した。
ルージュを庇おうと彼らの前へと飛び出して、盾になろうとしたのだ。
ルージュは私を止めようと手を伸ばしたが、そこへ再び銃声が響いた。
銃弾は私の頭上を飛び越え、後ろへと飛んでいった。
慌てて振り返ると、そこにはもうルージュはいなかった。
私を諦めて、逃げざるを得なかったのだろう。
あの時、私はただひたすら、逃げたルージュの無事を願っていた。
庭園を進むと、噴水が現れた。
その水の音を背に、ルージュは静かに月光を浴びていた。
その恐ろしく美しい姿に見惚れそうになりつつ、私は彼女へと声をかけた。
「約束通り、来たよ」
すると彼女は目を細め、こちらへと目を向けた。
「おかえりなさい」
まるで本物の家族のような声だった。
「懐かしいでしょう。あなたが育った生家だもの」
「……忌まわしい場所だ。私とアンバーが引き裂かれそうになった」
すると、ルージュは静かに言った。
「そう思うのは今のあなたがあの狼に囚われているからよ。おいで」
引き寄せるような彼女の手招きに、一瞬だけ体が応じそうになった。
けれど、どうにか踏み止まった。
代わりに伸びるのは手だ。
マントの下に隠した銃にその手が伸びる。
そんな私の反応を見て、ルージュは面白がるように笑みを漏らした。
「あの狼もまだまだ若いわね。その術も隙だらけよ」
そして、再びルージュが手を動かすと、今度は別の現象が起きた。
銃を握ろうとした手に妙な力が入り、つかみ損ねたのだ。
「ほら、言った通りでしょう?」
ルージュの静かなあざけりに、私は息を飲んだ。
怒りと屈辱。
それに、恐怖が呼び起こされる。
私にはやはり、まだまだ早い獲物なのだろうか。
自信が徐々に削がれていく気がして、必死になってその不安と支配を振り払った。
縋りつくように掴むのは銃だ。
今度こそ間違いなく掴んだそれを、私は迷いなくルージュに向けた。
「あまり、私を舐めるな……」
震えながら引き金を引くも、当然ながら当たらない。
だが、ルージュにとっては意外だったらしい。
顔色を一瞬だけ変えて、彼女は姿を消した。
そして今度は噴水の向こうに現れ、こちらを窺ってきた。
「悲しいものね」
ルージュは言った。
「月光の城では、あんなに言う事を聞いてくれたのに。良かったわね、カッライス。愛した相手が人狼で。もしも彼女がただの人間だったら、奪われずに済んだのに」
囁くようにそう言うと、ルージュは突然、姿を消した。
──何処だ。
私はすぐに神経を研ぎ澄ました。
姿は見えない。
並みの人間であれば、この時点でもう成す術はないだろう。
何処にいるのかも分からないまま餌食になるだけだ。
けれど、私は少し違う。
私には抗う爪と牙がある。
それに、ルージュに対する警戒心と同じくらい強い愛着もある。
彼女に強く惹かれるこの感情。
この執着。
それらは私の中にある警戒心を少しだけ解いた際に顔を覗かせる。
愛するルージュは今、何処にいるのか。
その気配、その匂いが少しだけ伝わった瞬間、私はそちらに向かって発砲した。
銃口が火を噴くと、銃弾を受けたのか薔薇が散った。
外れたのだろうか。
そう思ったが、途端に私の視界には赤く光る目が映り込んだ。
姿を消していたルージュが再び現れたのだ。
場所は正確だった。
やはり狙いは逸れている。
それでも、かすりはした。
次に、私の目に映ったのは、右肩を抑えるルージュの姿だった。
赤い目がこちらを恨めしそうに見つめてくる。
意外だったのだろう。
それに、痛かったのだろう。
ナイフで切った時と同じだ。
かすっただけでもその毒は、着実にルージュを苦しめる。
黙ったまま眉間に皺を寄せる彼女に、私は落ち着いて銃口を向けた。
「これで終わりだ」
そして、引き金に指をかけた。
ようやく。
ようやく全てが終わる。
彼女さえ仕留めれば、私はもう怯えなくていい。
だが、そんな時だった。
突如として別の銃声が響いたのだ。
我に返った私の前に物陰から何かが飛び出してきた。
カラスだ。
しかし、実体がない。
カラスの亡霊とも言うべき何かだ。
一瞬警戒したものの、すぐにそのカラスの正体にぴんと来た。
カラスは懸命に私に向かって鳴く。
その声は人語ではない。
しかし、不思議なことに、私の頭には理解できた。
(今すぐ逃げて!)
ダイアナの信号だった。




