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CALLAIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
吸血鬼の愛し子
11/133

11.満月の日

 ルージュに囚われて以降、私は時間の感覚をすっかり失っていた。

 常に厚手のカーテンで閉め切られた寝室は、一定の明るさを保っている。

 時計もなく、窓も隠され、昼なのか夜なのかなんて分からないまま過ごしていた。

 睡眠も、食事も、時間を推測することの役には立たない。

 ルージュの吸血に付き合う回数もまた同じことだった。

 そうしているうちに、私は段々とかつての思い出を忘れかけていった。


 本当に夢だったのだろうか。

 楽しい夢を、見ていただけだったのだろうか。

 アンバーとふざけ合った感覚すら遠ざかっていく。

 その懐かしさに手を伸ばすことすら出来ず、ただ茫然と過ごしていた。

 狩人になるための修行をしていたことすら嘘のように、私は無力な存在に逆戻りしていた。


 これからどうなってしまうのだろう。

 そんな事すら考えられなくなっていった。

 それどころか、目覚めるごとに秘術は私の意識を蝕んでいった。

 寝室に一人で寝かされていると、ルージュの事が恋しくなる。

 昼か夜かなんてどうでもいい。

 ルージュが傍にいてくれればそれでいいとすら思うようになっていた。


 その日もまた、私は一人で寝かされてルージュの帰りを恋しがっていた。

 全身の傷が疼き、心の底から主の抱擁を求めている。

 そのまま死の口づけを受けるのだとしても、私の体は断末魔ではなく歓喜の声をあげていたのだろう。

 しかし、そんな私の視界に入ってきたのは、ルージュの姿ではなかった。


「カッライス……」


 囁くような声が聞こえ、微睡から意識が少しだけ回復した。

 日付も時間も分からない私に対し、声の主はひと目でその日が満月の日である事を教えてくれた。


 獣だ。

 狼だ。

 背中にマントを羽織った麦色の狼がそこにいた。


 爪が床に当たる音と、荒い息遣い。

 隠しきれない存在感を放ちながら近づいてくるその姿を見ているうちに、私は我に返っていった。


「アンバー?」


 名前を呼ぶと、彼女はその名に相応しい琥珀色の目を少し細めた。

 ベッドに前脚をかけると、覗き込んできた。


「血の臭いが酷い。怪我をしているのか?」

「……大したことはないよ」


 どうにか返事をしながら、それでも私はまだ意識が少し混濁していた。

 これは夢だろうか。

 そんな疑問が浮かんできたのだ。

 アンバーもまた私の反応が鈍い事に気づいたのだろう。

 長い鼻先で私の体をぐいっと押してきた。


「よし、大したことないなら今すぐ立つんだ。さっさと逃げなくては」

「アンバー……本当にアンバーなの?」

「寝言を言っている場合じゃないんだ、カッライス。早くしないと奴が戻ってくる。頼むからしっかりしてくれ」


 そう言って、アンバーは私の着せられていたドレスの裾に噛みついて引っ張ってきた。

 ずるずると引きずられ、ベッドから立ち上がった直後、私は眩暈を感じた。

 思えば、長くまともに歩いていない。

 アンバーに体を支えて貰いながらその事を思い出していると、ふさふさの毛並みと覚えのあるニオイに包まれ、じわじわと意識が覚醒していった。


「アンバー……ああ、本当にアンバーだ」

「遅くなって悪かった。組合のやつら、皆、怖気づきやがってさ。でも、アタシ、あんたをどうしても見捨てられなかったんだよ」

「ありがとう……アンバー」

「礼を言うのはまだ早いよ。ここを無事に出て、ふたりで師匠のもとに帰ってからだ」


 アンバーはそう言うと、寝室をとことこと歩いて扉の外の様子を窺った。

 私も立ち上がってどうにかその後を追い、彼女に倣って廊下を確認した。

 そして、その三角の耳元でそっと訊ねたのだった。


「師匠は……大丈夫なの?」

「大丈夫だ。里の人たちが手当てしてくれたし、知らせを受けてオニキスも駆けつけてくれた。けれどね、組合では今ちょうど別の仕事をしているらしくてさ。ほら、ジルコンっていただろ。あの男があんたを見捨てるように言ってきたんだよ。組合長でもないくせにさ」

「ジルコン……ジルコンね」


 その名前には憶えがあった。

 組合に古くからいるベテラン狩人である。

 だが、気難しいタイプの男性で、私が保護された時のみならず、アンバーが保護された時も、彼はあまり良い顔をしなかったらしい。

 そのため、私もアンバーも苦手な大人として認識していた。

 彼が見捨てろと言ったとしても、さほど意外なことではない。


「彼らしいや。そう言っているところが目に浮かぶようだよ」


 素直にそう言うと、アンバーは軽く笑って、慎重に廊下へと出た。

 それに倣って私もまた音を立てないよう慎重に廊下へ踏み出した。

 裸足だからか床が異様に冷たく感じてしまう。

 アンバーの背中にしがみついて緊張感を紛らわしていると、彼女は辺りを警戒しつつも会話を続けた。


「勿論、組合長や他のメンバーは君を心配しているようだ。でも、ルージュを退治するには準備が必要で、それには時間がかかるなんて言い出してさ。アタシにゃ事情なんて分からない。でも、あれ以上待てるかってなって、飛び出してきたんだ。動かないのはまだいいよ。動こうとするアタシに忠告してきたんだ。ペリドットやオニキスさえ、アタシが助けに行くことをあまりよく思っていなかった」

「君は教え子だから、危険な目に遭わせたくなかったんだと思う」


 精一杯考え付く限りの理由を私は口にした。


「仕方ないよ。それだけ人間にとって吸血鬼は脅威なんだ」


 自分に言い聞かせるように言ったことを覚えている。

 組合の者たちのやむを得なかったという判断については、今も疑ってはいない。

 だが、そのまま見捨てられるかもしれないとなると、心穏やかでいられないのも当然だろう。

 だから、あの時は私自身の心の安定のためにも、必死になって、負傷したペリドットは勿論もともとあまり良い印象のなかったジルコンでさえ悪くないのだと自分に言い聞かせなくてはいけなかったのだ。

 アンバーもそんな私の態度から察するものがあったのだろう。

 少し落ち着いた声で彼女は言った。


「そうだね。確かにあんたの言う通りなのかもしれない。……人間にとってはね」

「油断しないで」


 私は不安になってアンバーに囁いた。


「あの人は恐ろしい人なんだ。君まで師匠のように大怪我をしたら私……」

「ああ、勿論、舐めてかかったりはしない」


 安心させるようにアンバーは言った。

 そしてさらに廊下を進み、突き当りから行き先の様子をちらりと窺ってから、さらに続けた。


「それに、まともにやり合うつもりはないよ。今回の目的はあんたの奪還だけ。そのために、奴のことは反対方向に誘き出している」

「誘き出した……どうやって?」

「人狼の武器の一つさ。吸血鬼が怪しげな術を使うように、人狼もまた人間には出来ない力がある。師匠はさすがに教えてくれなかったけれど、師匠の持っていた本にあったんだ。ちゃんと使ったのは初めてだったけれど、うまく行ってよかった」


 アンバーが再び歩みだす。

 目指しているらしき階段はすぐそこだ。

 屋敷の構造と薄っすらと残っている記憶をすり合わせるに、ここは屋敷の三階らしいと分かった。

 見えている階段を真っすぐ下りれば出口があるはずだ。

 のそのそと歩くアンバーを追いかけながら、私は小声で訊ねた。


「どんな術なの?」


 すると、アンバーは周囲を窺いながら教えてくれた。


「遠吠えを使うんだ。本には確か……操りの唄って書いてあったかな。人狼の血が濃い者ならば、野山の犬や狼を操ることが出来るんだ。その力を使って、屋敷を別方向から攻めさせたんだ。ある程度攻めて奴が出てきたら戦闘させる。今頃、戦っているはずだよ」

「……すごい、君がそんな力を使えるなんて知らなかった」


 素直に褒めた、というよりも羨んだ。

 差があるのは、身体能力だけではなかったらしい。

 しかし、この時はもう嫉妬すら出来なかった。

 その差によってこうして助けて貰っているのだから当然かもしれない。

 そんな私の態度の違いに気づいたのだろう。

 いつもとは違い、アンバーは自慢したりしなかった。

 ただ静かに笑ったのみだった。


「黙っていたからね。あんたにも師匠にも」


 そして、彼女は深刻な表情を浮かべた。


「ただ、この力は一定時間しか持たないんだ。……そろそろ戻ってくるかもしれない。奴のニオイがさっきより強くなった気がする」

「鉢合わせは不味い。私は武器を持っていないし君だって」


 この時は武器のみを口にしたが、そうでなくて本当に恐れていたのはルージュ自身の姿だった。

 アンバーとの再会で、秘術の影響が一時的に弱まっていたとはいえ、彼女に直接睨まれたら従ってしまうのではないかと自分でも恐れていたのだ。

 しかし、その事情については、この時、アンバーに告げることは出来なかった。


「ああ、そうだね。行こう」


 ただただアンバーの指示に従って、私は静かに階段を下り始めた。

 張り詰めた空気の中、最後の段を下りた私たちの前に現れたのは、屋敷の玄関である。

 その佇まいを見て、かつて、この場所からペリドット達に連れて行かれた日の事を思い出した。

 嫌がった私は組合の狩人の一人に抱えられ、無理やり連れだされたのだ。

 かつてはあんなに嫌だったのに、その場所から今は自分の足で逃げようとしている。

 アンバーとぴったり体をくっつけながら、ぴしゃりと閉め切られた玄関へと向かっていった。

 気を抜かずに慎重に、足音を立てないように意識しながら向かっていく。

 鍵は閉まっている。

 その事に気づくと、アンバーは小さく唸った。


「来た時は開いていた……つまり」


 彼女が振り返って毛を逆立てる。

 その直後、階段の踊り場より殺気を感じ、息が詰まりそうになった。

 すぐに視線を向けることが出来なかった。

 だが、それが良かったのかもしれない。

 無様に震えるしかなくても自我を保つことは出来たのだから。

 そんな私に、冷たい声はかけられた。


「私の目を見なさい」


 ルージュだ。アンバーの事は目に入っていないらしい。


「見なさい」


 二重にかけられたその号令に、私は動揺してしまった。

 アンバーの背中にぎゅっとしがみついたまま、跪いてしまう。

 そんな私の反応が異様だったのだろう。

 アンバーも焦りを見せ始め、さらに獣のように唸りながらルージュを威嚇した。


「聞こえたでしょう、カッライス」


 もう駄目だ。

 逆らうことが出来ない。

 震える私にアンバーが唸るのをやめ、声をかけてきた。


「どうした、カッライス。立て」

「……出来ない」


 どうにか絞り出した声は、我ながらあまりに弱々しかった。

 この時、私は自ら思い知ったのだ。

 吸血鬼に攫われた人間は見捨てるべきなのだと。

 それは、多くの人々がそれぞれの有限の時を積み重ねて得た一つの知恵であり、真実だったのだろう。

 きっと人狼だって、普通ならば吸血鬼とやり合わないものなのだ。

 そう思ってしまうくらい、絶望的な状況だった。

 だが、アンバーはまだ諦めていなかった。


「頼む……効いてくれ」


 そう言ったかと思うと、私の左手に噛みついてきたのだ。

 強い痛みに刺激され、一瞬だけルージュへの緊張が別の緊張へと塗り替えられる。

 その隙に、アンバーは怪しげな声で私に囁いてきた。


「立つんだ。そして、ついて来い」


 すると、不思議なことが起こった。

 あれほど恐ろしかったルージュの気配を、ほとんど感じなくなったのだ。

 気づけば私は自分の足でしっかりと立っていて、アンバーの動きについて行っていた。

 まるで、アンバーがこれからどう動くか予め知っているかのよう。


「逃がさない」


 ルージュが怒りを込めてそう叫んだ。

 だが、アンバーの足も、私の足も止まらなかった。

 扉は無理だと悟ったのだろう。

 アンバーが破ったのはすぐ隣の大窓だった。

 ガラスの破片が飛び散り、けたたましい音が響き渡る。

 裸足でそこを乗り越えるのは普通ならば躊躇いそうになるが、この時ばかりは気にしていられなかった。


「こっちだ。走れ」


 窓を乗り越えて外へと転がり込んですぐ、アンバーの号令が聞こえてきた。

 その言葉に引っ張られるように、私は再び立ち上がった。

 ガラスに触れたり、踏んだりした場所があちこち痛むし、マントも羽織っていない身では非常に寒かった。

 だが、立ち止まるという事は出来ず、走るアンバーに続いて私も必死で走った。


 背後で屋敷の扉が開かれる。

 ルージュは追ってくる気だ。

 逃げ切れるわけがない。


 恐怖に心が覆われそうになったその時、森林へと逃げようとするアンバーが月夜に向かって遠吠えをした。

 程なくして複数の返答が近づいてきた。

 森林から聞こえたその声の主たちは、すぐに姿を現した。

 野生の狼たちだ。

 私たちを避けるように通り過ぎていくと、そのまま真っすぐルージュのもとへと挑んでいく。


「時間稼ぎにしかならない。急げ」


 アンバーに言われ、私は振り返ることなく前へと進んでいった。

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