10.悪い狼に食べられて
助けが来る。
ルージュが立ち去った後、私はその気配を静かに感じていた。
その度に、胸の奥に沸き起こるのは希望ではない。
言葉にならない不安だった。
誰が来るかは分からない。
だが、もしも、アンバーがここへ来たら、私はどうしよう。
勿論、連れ帰られるのだろうけれど、素直について行けるか不安だったのだ。
この城に連れてこられてから、何日経っただろう。
その間に、私の心身はすっかりルージュの奴隷である事実を思い出していた。
そして主人たるルージュは、私に命令したのだ。
悪い狼からは、逃げろと。
──私はどうしたらいい。
ベッドの上で膝を抱えていると、不意に近くで大きな物音が聞こえた。
ルージュではなさそうだ。
ドッゲだろうか、それともベイビー。
いいや、どちらでもない。
どちらでもないという直感が、私に囁いてきたのだ。
痛む足に鞭打って、施錠された扉へと恐る恐る近づいて、耳をくっつけてみると、その向こう側で誰かが慌ただしく部屋を検めているのが分かった。
吐息は荒々しいが、声を発していない。
周囲を警戒している様子から、この城に住む者ではなさそうだということが分かった。
息を飲みながら扉を離れようとしたその時、微かな物音に気付いたのか、その人物は私の部屋へと駆け寄ってきた。
ドアノブが回るが、扉は開かない。
その様子をただ眺めていると、向こう側から声がしてきた。
「カッライス……いるんだな」
「……アンバー」
その名を口にした瞬間、膝から下の力が抜けてしまった。
安堵したのだと言いたいところだったが、そうではなかった。
アンバーの気配、そしてあの声。
かつて愛した彼女が間違いなくそこにいるというのに、この時の私の胸に広がっていたのは再会の感動ではなかったのだ。
震える体を自ら抑え込み、私は自分が何を感じているのかを静かに理解した。
恐怖だ。
私は、アンバーを怖がっている。
「鍵は何処だ……カッライス、中から開けられるのか?」
答えられない。
だが、早く答えないと。
ここでもたもたしていれば、ドッゲが来てしまうかもしれない。
息が詰まりそうになる中、私は言った。
「鍵は……わからない。内側からは開けられないんだ」
「くそ……せっかく見つけたのに」
ドンっと扉を叩く音がして、私はびくりと震えてしまった。
だが、言わないと。
はっきりと告げないと。
まるで義務か何かのように自分を奮い立たせて、私は扉の向こうへと声をかけた。
「ねえ、アンバー……せっかくだけど──」
「鍵を探してくる。誰が持っているか知っている?」
「アンバー……」
「小間使いが怪しいところだな。あの女が持っているとしたら、厄介かもしれない。どうにかあの気色悪い猟師に見つからないようにしないと」
「ねえ、私の話を聞いて」
「とにかく、カッライス。今、あんたが何を言おうと、何を思おうと、アタシの事は止められない。待ってろ。絶対に取り返す!」
それっきり、彼女は走り去っていってしまった。
説得は失敗に終わった。
気配が遠ざかっていく中、私は無力感に苛まれていた。
何を言おうと彼女は止められない。
だが、そうなると、いよいよ焦燥感に苛まれる。
きっと、私はルージュの事しか頭にないのだろう。
アンバーがいなくなってからすぐに、私は部屋の中を這ってうろつき、隠れ場所を探していた。
見つけたのはベッドのカーテンの裏だった。
そこに包まり、身を隠し、震えながら待っていたのだ。
こんな抵抗は無駄だ。
それは分かっていた。
アンバーは鼻がいい。
この部屋に踏み込まれたりすれば、すぐに見つかってしまうだろう。
それでも、身を隠していたかったのだ。
そうしないとルージュの機嫌を損ねてしまうから。
再び足音が近づいてきたのは、それからだいぶ経ってからの事だった。
何処から鍵を見つけてきたのだろう。
普段、誰が持ち、何処に保管されているのかも分かっていなかったそれを、アンバーはあっさりと持ってきて、扉を開けてしまった。
ぎい、と音がして、緊張感が増した。
アンバーは声を発しなかった。
呼吸を荒くして、中へと踏み込んできた。
バタンと扉が閉まると、息が止まりそうになった。
「カッライス」
アンバーが呼びかけてきた。
返事はできなかった。
けれど、思っていた通り、隠れても無駄だったのだろう。
アンバーは真っ直ぐ私のもとへと近づいてきた。
強引にカーテンを引き剥がされ、呆気なく見つかると、いよいよ震えてしまった。
床に手を突いたまま俯く私に、アンバーは手を伸ばしてきた。
「カッライス。落ち着け」
「ダメだ……怖い……怖いんだ」
私の言葉を聞いて、アンバーは一瞬だけ躊躇った。
だが、何が起こっているのかをすぐに理解したのだろう。
彼女は溜息を吐くと、小さな声で言った。
「分かっていたさ。こっちが本来のあんたなんだって。けど、こっちだってはいそうですかと引き下がれるかって話だ」
そう言って、私の肩を力強く掴んできた。
「アンバー……やめて……」
涙目になる私を抑え込むと、アンバーは自嘲的に言った。
「おとぎ話の悪い狼にでもなった気分だよ。いや、そもそもそういう部分はアタシにもあるんだろうね。あんたが震えれば震えるほど、やめようって思えなくなる」
「やめて……」
悪い狼からは逃げなさい。
ルージュの命令が頭を過ぎり、私はとっさに身を屈めた。
アンバーの手を掻い潜り、そのまま逃げようとしたのだ。
自分でも、何故、そんな事をしているのかが分からない。
だが、とにかく、そうしなければならないという思いが、私を動かしていたのだ。
アンバーは不意を突かれたようで、一瞬だけ、私の逃亡を許した。
だが、すぐに冷静さを取り戻し、落ち着いた様子で追いかけてきた。
私の方はと言えば、空しい抵抗だった。
傷つけられた足が痛み、満足に立ち上がることも出来ない。
あっという間に捕まってしまった。
「うっ……」
思わず呻く私を引き寄せて、アンバーは言った。
「狩りごっこは終わりだ」
そして、私の体を抱きかかえると、そのままベッドへと放り投げた。
背中を打って呻く私に、アンバーは覆いかぶさってきた。
もう逃げようがない。
観念して震えていると、ほんの短い間に事は済まされた。
雪が解けるかのように心もまたじわじわと解されていく。
やがて、震えは止まり、私の意識が明確になった。
知らず知らずのうちに霧に包まれていた思考が、急に冴え渡ったかのようだった。
「アンバー……わ、私は……あっ──」
再び敏感な場所を触られて呻く私の反応を見て、アンバーは軽く笑って解放してくれた。
「目が覚めたようだね」
そう言って、さっさとベッドから降りようとする彼女の手を私は自ら掴んだ。
ついさっきまで、彼女の事が怖かったのが嘘のようだった。
求めるような私の眼差しを見て、アンバーも私が何を言いたいのか分かったのだろう。
彼女は溜息交じりに私の体を抱き寄せ、首筋に軽くキスをしてきた。
ルージュがいつも噛む、あの場所だった。
「続きは後で。まずはここを出ないと」
そう囁きながら、アンバーは私に何かを手渡してきた。
冷たく、硬いそれ。
久しぶりに手に馴染むそれ。対魔物用の拳銃だった。
「……うん」
小さく頷いてから共にどうにか立ち上がり、銃をしっかりと握り締めて、私たちは外へと出ようとした。
アンバーに力強く引っ張られながら、冷たい床を裸足のまま歩む。
ルージュにつけられた傷が酷く痛む。
だが、その痛みを感じるたびに私は自覚した。
ああ、ようやく助かるのだと。
再びアンバーと共にいることが出来るのだと。
そして、改めて恐ろしくなった。
ルージュに殺される事を、私は仕方ないとすら思っていた。
ひょっとすると、望ましいとも思っていたかもしれない。
怖いという感情は表面的なものに過ぎず、心の何処かで彼女の手によってベイビーのような人形にされる日を望んでいたのではないかと。
──早くここから出ないと。
もう二度と、ルージュの奴隷になんてなりたくなかった。
このただでさえ小さなプライドを、ズタズタにされたくなかったのだ。
しかし、部屋からそっと抜け出そうと扉を開けたその時、早くも私たちの歩みを止める人物がそこにいた。
ルージュではない。
ドッゲでもない。
ベイビーだった。




