7.伝書鴉の訪問
『カッライス』
微睡みの中で、その声を耳にしたのは夕暮れ時の事だった。
眠気がすっと引いたのは、誰の声だかがすぐに分かったからだ。
だが、振り返った先には、私の期待する生き物の姿はなかった。
『こっちよ』
声を頼りに視線を動かすと、ベランダの手すりにいる一羽の鴉に目が留まった。
ただの鴉に見えたけれど、目が合うと鴉はぴょんと手すりから飛び降り、窓辺へと近づいてきた。
こちらを見つめるその顔に、私はそっと視線を合わせた。
「ダイアナ……?」
鴉は顔を上げ、私を見つめてくる。
『そうよ』
「そういう姿にもなれるんだね」
『初めてお見せしたかしら。猫の方がずっと楽なのだけれど、猫の姿はあの人──ルージュも良く知っているもの。だから、他の姿も練習中なの。ちゃんと鴉に見える?』
「見えるよ」
素直にそう言って、私はため息交じりに続けた。
「魔法が使える君が羨ましい。空を飛ぶことも出来るの?」
『出来る。最初は苦戦したけれど、練習したらどうにかなった。でもね、カッライス。魔法だって限度はあるの。何でもできるわけじゃない。あなたがいなかったら、あたしだって今頃は生きていないのだから』
「ああ、そうだったね……」
溜息を吐く私を、ダイアナは鴉の目でじっと見つめてきた。
『元気がないわね。何かあった?』
「ドッゲを仕留めそこなった。あと少しだったのに」
短く答えると、ダイアナは驚いたように身震いした。
『まあ、なんてことを。カッライス、下手な真似をしちゃ駄目よ。あなたは今、囚われの身なのだから。とにかく今は、あの人を怒らせないで。アンバーを信じてあげて』
「……行けると思ったんだ。だけど、それもルージュの掌の上だった。私がどれだけ洗脳されているか試したかったらしい」
『あの人らしいわ。そうやって捕らえた獲物で遊ぶの。あたしの時だってそうだった。わざと泳がせて、あたしがあなた達に忠告するのを待ってから問い詰めてきたの』
「怖い人だね」
『ええ、とっても』
あの時とはまるで逆の立場だ。
だからこそ、私はダイアナに伝えたかった。
どうか無理をしないで欲しいと。
けれど、それを口にするより先に、ダイアナは続けて言った。
『怖いけれど、あの人だって生き物よ。悪魔の一種かもしれないけれど、生きている以上、仕留めることだって不可能じゃない』
「そう……だね」
ダイアナは励まそうとしているのだろう。
けれど、私はその気になれなかった。
ルージュを殺す。
あれほど渇望していた瞬間を、私は今、上手く想像できなかった。
ルージュを仕留めることが出来たとして、その時に私はどんな感情に至るのだろう。
きっと、今の私にとって、ルージュのいない世界というのは色の朽ちた寂しい場所なのだろう。
そうだ。
いつの間にか私は、ルージュに死なないで欲しいと願っている。
これもまた、アンバーの術が解けた変化の一つなのだろう。
『カッライス?』
そっとダイアナに窺われ、私はそちらに視線を向けた。
「ねえ、今の君の目に、私はどう見える?」
『どうって……前と変わらないわ。ええ、変わらない。昔と変わらないわ』
「違う格好をしていても?」
『勿論。どんな衣装を着ていたって、あなたはあなたよ。他の誰でもない。だから、お願い、しっかりして』
ダイアナは怯えたようにそう言った。
そんな彼女の姿を見てもなお、私は前向きになれないままだった。
「ねえ、ダイアナ。ベイビーって人を知っている?」
『ベイビー? 誰なの?』
「この城で働いている人形だよ。元は生きた人間だったらしい」
『……知っているかも。よく歌を歌っている可哀想なお人形さんの事かしら』
「たぶん、その人で合っているよ。このままだと私も、ルージュたちの手で彼女みたいな人形にされてしまうらしい」
『そうなる前に助けてあげる。ねえ、カッライス。よく聞いて。朗報があるの』
ダイアナは焦ったように話を逸らしてきた。
「朗報?」
『ええ、都に助っ人が来たのよ。たまたま立ち寄ったそうなのだけれど』
「誰?」
『モリオンよ』
──モリオン。
その名前を聞いた途端、私の心に微かな灯がともった。
私以外にルージュを狙う酔狂な男。
確かに彼はアンバーたちにとっては助っ人となり得るだろう。
だが、同時に怖かった。
もしかしたら、ルージュを仕留められてしまうのではないか。
「……よくないね」
私がそう言うと、ダイアナはじっと見つめてきた。
『いいことよ』
訂正するように彼女は言った。
『今ね、アンバーとモリオンがやり取りできるよう、このあたしが繋いでいるの。この姿に慣れたのもそのせいよ。伝書鳩ならぬ伝書鴉ってところかしら。でね、近いうちに、モリオンと協力して、アンバーがここへ助けに来ることになった』
「アンバーが……彼女は今……」
『まだあの村にいる。でも、抜け出す術が思いついたってこと。あとは機会を窺うだけ。その後はモリオンと合流して、あたしも含めて三人でルージュに立ち向かう』
「──危険だ。村の人達を敵に回す事になる。それに、ドッゲだっているのに」
『大丈夫。あたしたちを信じて』
頷きたいところだったが、上手く返事が出来なかった。
怖いというのが正直な感想だ。
私のせいで三人とも敗れてしまったら。
アンバーが仕留められてしまったら。
考えるだけでぞっとする。
だけど、それだけだろうか。
ひょっとすると私は、心の何処かでルージュから離れたくないと思い始めていたのかもしれない。
ダイアナもそれを危惧していたのだろう。
私の反応は予想通りだったのだろう。
けれど、少しも気に留めずにただ告げたのだった。
『作戦は詳しく教えられない。だけど、あたし達のうちの誰かが、必ずあなたを迎えに行くわ。だから、希望を捨てずに信じて待っていて』
「ねえ……ダイアナ。私、怖くて」
『お願い、カッライス。あなたにかかっている術の事は分かっているわ。でも、どうか、気を強く保って。くれぐれも、自暴自棄にならないで欲しいの。アンバーはあなたを絶対に諦めない。それが人狼だもの。それにあたしだって、あなたに命を救ってもらったのよ。このまま殺されてほしくないの』
切実なその訴えが、私の魂に響いたのだろうか。
それ以上、拒む気にもならず、私は静かに頷いたのだった。
だが、異変を感じたのはその時だった。
部屋の中が凍り付くように冷えたと思った矢先、気づいたら私の背後から腕が伸びてきたのだ。
ひんやりとしたその手に強引に抱きしめられ、私は初めて彼女の接近に気づいた。
「ルージュ……」
扉が開く音すらしなかった。
ダイアナも気づかなかったのだろう。
窓の向こうで鴉の体のまま驚いたように仰け反った。
そんな彼女に視線を向けて、ルージュは声をかけた。
「お話は終わった?」
色気を存分に含んだその声が、あまりに恐ろしかった。
いつも噛まれる首筋に吐息がかかり、動けなくなる。
震えたまま抱きしめられつつも、私はどうにかダイアナに向かって叫んだ。
「……逃げて!」
その一言で、ダイアナは我に返った。
慌てて体勢を立て直すと、一目散に何処かへ飛んでいった。
ルージュは落ち着いた様子でそれを見送った。
やがて、ダイアナの姿がすっかり小さくなると、長い溜息を吐いた。
「ダイアナと何を話していたの?」
小さな子供を諭すような口調で、ルージュは私に訊ねてきた。
答えないと。
答えないと。
何度もそんな思いがこみ上げてくる。
だが、同時に、答えたらどうなってしまうのかが頭を過ぎった。
板挟みになった末に私の口から漏れ出したのは、小さな悲鳴のような言葉だった。
「……答えたくない」
私の返答に対し、ルージュは面白がるように低く笑った。
「少し、指導しなきゃいけないようね」
そう言って、ルージュは私を無理やり立ち上がらせた。




