6.歌う人形
このままだと、私もいつか、ベイビーみたいになってしまう。
ここへ来てからずっと、かつて、私自身がその名で呼ばれていた時の事を思い出す。
静かで、美しく、誰にも邪魔されない屋敷の中で、私は確かに幸せだった。
ルージュはとても優しくて、穏やかで、私に嫌なことを強制したりしない。
代わりに読み書きすら教えてくれていなかった事が後で分かったけれど、ペリドットに保護されなければ、そんな事実すら知らないまま過ごしていたのだ。
あのまま飼われていたならば、私はどれだけ長生きしていたのだろう。
もしかしたら、もうこの世にはいなかったかもしれない。
ルージュの手には代わりに、私の生んだ小さな娘がいて、かつての私たちのような関係を築いていたかもしれない。
いずれにしたってこのままであれば、私はそういう未来を歩むことになる。
実母が辿った道を歩まされることになるのだ。
そのあとは、ベイビーみたいになるのだろう。
人形にされて、着飾って、ルージュたちのために彼女と共に働くのだろう。
狩人だったことも、アンバーと愛し合っていた事も忘れて。
想像しているうちに、震えが生まれた。
いけない。
こんなことを考えていてはおかしくなってしまう。
気を強く持たないと。
けれど、そう思う傍から、疑問が浮かんでくるのだ。
気を強く持って、それでどうなるというのだろう。
ここを出る機会は、本当にやって来るのだろうか。
ドッゲを排除することに失敗した以上、同じような機会は二度と訪れないだろう。
そうなれば、アンバーは本当に仕留められてしまうかもしれない。
怖かった。
いつか、いつの日か、アンバーの毛皮をルージュが持ってくるかもしれないという可能性が。
今、こうしている間にも、アンバーが撃たれているかもしれないということが。
ドッゲはベテランなのだ。
私が生まれるより前から、何人もの人狼を仕留めてきたのだ。
そんな彼にとって、アンバーは絶好の獲物だろう。
放っておいても自ら向かってくるのだから。
「どうして、こんな事に……」
ベッドの上に横たわったまま、私は何度も拳を握った。
自分の事が憎くてたまらなかった。
あの時、あの村を信用しすぎなければ。
クレセントについて行かなければ。
アンバーの言う事を聞いていれば。
ルージュになんて囚われなければ。
ドッゲを殺していれば。
色んな思いが脳裏を駆け巡り、私の心を締め付けてくる。
最初から私なんていなければ、アンバーを危険な目に遭わせずに済んだのに。
暗い部屋にずっといるからだろうか。
思考もどんどん暗く、淀んでいく。
そんな中で、ノックの音が聞こえた。
「カッライス様、お昼ご飯をお持ちしました」
ベイビーだ。
いつものように明るく声をかけてくる。
返事を待たずして扉は開かれ、ベイビーは料理を運んできた。
机に丁寧に置くと、ガラス玉の目をこちらに向けた。
変わらぬ微笑みを浮かべたまま、彼女は目を細める。
「今日はとてもいい天気ですよ。ルージュ様のご機嫌がよかったら、今度こそお外に出して貰えるかもしれませんね」
「ねえ、ベイビー。君は本当に昔の事を覚えていないの?」
私の問いに、ベイビーはこくりと首を傾げた。
「以前もお答えした通り、全て忘れてしまいました。記憶を保管していた私の脳は、丁寧に取り出されて保存されているそうです。けれど、元に戻しても、記憶は戻らないでしょう。食用に加工されてしまったらしいので」
「ねえ、君は恐ろしくないの。自分の体が食べられてしまうんだよ?」
「よく分かりません。それらが私の体の一部だったことすら、もう覚えていないのです。大切な人も、愛しいはずの故郷も、思い出も、全て放り出したくなるようなことが、私には起きていたのでしょう。でも、何も思い出せないのです」
表情は穏やかなままだった。
けれど、本当にその心が穏やかでいるのかどうか分からない。
魂が繋ぎ止められているとはいっても、彼女は人形なのだ。
怒ったり、悲しんだりすることが、出来なくなっているのかもしれない。
「ああ、でも」
と、ベイビーは付け加えるように言った。
「でも、何故だか覚えている歌がいくつかあるんです。目を覚ました時から、私はよく一人で歌を歌っていました。ルージュ様に褒めて貰った事が何度もあります。何の歌なのかは全く覚えていないのですが、気分転換にお聞きになりますか?」
問い掛けられて、恐る恐る頷くとベイビーは嬉しそうに目を細め、そして窓辺へと歩んでいった。
ベッドに座る私の前に立つと、外からの光を浴びながら彼女は歌いだす。
君 手折りし 赤い薔薇
今は散りて 塵となる
けれど 眼に焼き付きたるは
焔のごとき 深紅の色
消して褪せぬ その面影は
さながら 茨の棘のごとく
わが心身を 苦しめる
ああ 愛しい君よ
もう戻らぬ その背中を
どれだけ思えば 忘れられる
いいえ その日は来ないでしょう
何故なら 痛みも苦しみも
今や唯一の 友なのだから
ベイビーの歌声はまさに小鳥のようだった。
初めて聞く歌だったけれど、不思議と心に沁みてくる。
そして歌い終わったその瞬間、私は気づいた。
ベイビーのガラス玉の双眸から、ほろりと何かがこぼれたのだ。
涙だ。
「あ……」
ベイビーは自らもそれに気づくと、両手で顔を覆い、口元に笑みを浮かべた。
「すみません、カッライス様」
「大丈夫?」
「はい……大丈夫です」
そう言って、ベイビーは再び顔を上げた。
涙は拭き取られ、もう何処にも残っていない。
いつものベイビーの顔がそこにはあった。
「この歌の事を、私は覚えておりません。タイトルも、そして、どうして知っているのかも。けれど、歌い終えるといつも、こうやって涙を流してしまうのです。変ですよね。人形なのに涙が流れるなんて。でも、この涙の意味も、私は思い出せないのです。思い出さなくていいのだと、ルージュ様はおっしゃいます。忘れた方がいい事なのだから、と」
「けれど、君はその歌を確かに知っているんだね」
私の言葉にベイビーは困惑した様子で頷いた。
「この歌について詳しく覚えている脳は、もう私の頭にありません。歌だけが、魂に焼き付いていたのです。この涙もまた、焼き付いたものなのでしょう。だから、私はこの歌が好きなのです。涙の意味は分かりませんが、歌うと何故だか心が癒されるのです。それに、ルージュ様も喜んでくださいますから」
健気に語る彼女を見ていると、私は段々と憂鬱な気持ちになってしまった。
この歌は、間違いなく本来のベイビーにとって大事な歌のはずだったのだ。
もしかしたら、ルージュに捕らわれるに至るまでの理由がこの歌にも秘められているのかもしれない。
けれど、もう何も分からないのだ。
ベイビー自身が自分の名前すら分からなくなってしまっている以上、彼女の手掛かりはこの歌に辛うじて残るのみ。
そうやって、忘却されていくのだろう。
そして、私も。
私もいつか、こうなるのかもしれない。
ルージュにこのまま弄ばれ、用無しとなれば、第二のベイビーにされるのだろう。
ベイビーにはこの歌が残った。
では、私には何が残るのだろう。
アンバーへの想いはどのような形で残るだろう。
「カッライス様?」
と、ベイビーが私の様子を窺ってきた。
はっと我に返ると、ベイビーは恐る恐るといった様子でこちらを見つめてきた。
「それで……どうでしたか、私の歌は」
「ああ……」
感想を欲しがるその眼差しを受け、私は軽く微笑みながら答えた。
「とても綺麗だったよ。ベイビーは歌が上手なんだね」
すると、ベイビーは嬉しそうに笑みを浮かべた。
そうしていると、今の彼女が人形であることを忘れてしまいそうだった。
「他にも覚えている歌があるんです。また機会があれば、ぜひお聞きください」
嬉しそうに語るベイビーに、私はそっと頷いた。




