5.ハニーからの手紙
ミエール城から手紙が届いたのは、翌日の事だった。
格子付きの窓の傍で、そっと手紙を読むルージュの姿を、私はベッドの上に横たわりながら見つめていた。
体が思うように動かない。
傷だらけの全身が痛かった。
だが、動きたくないのはそれだけじゃない。
皆が抱く吸血鬼へのイメージに反し、太陽を恐れずに浴びながら手紙を読むルージュの姿があまりに美しかったから、目を離すことができなかったのだ。
あの手紙の送り主は勿論、ハニーである。
ルージュは手紙をしばらく読んでいたが、やがて、くすりと愛らしい笑みをこぼした。
「ハニーったら、嫉妬しているみたい。ドッゲを警戒しているのね」
そして、葡萄酒色の目をこちらに向けてきた。
「ああ見えて、子供っぽいのよ。男だったり、自分に少し似たタイプの女だったり、とにかく気に入らない人が私の近くにいるって分かると、すぐに不機嫌になるの。だけど、それで私を縛ったりしない。だから、私はあの人が好き」
そう言って手紙を丁寧に畳むルージュを見ていると、胸がちくりと痛んだ。
ハニーの事を語る彼女の表情は、いつもの彼女とはだいぶ違う。
本当に愛している相手なのだということが分かって、それが今の私には辛かった。
──何故。
ふと、私は我に返った。
ああ、そうだ。
私は私で嫉妬している。
ルージュとハニーの関係を妬んでいるのだ。
これも秘術のせいだろうか。
アンバーの術が抑えてくれていた感情が、今の私を支配しているということだろうか。
ルージュは私を愛したりはしない。
仮に愛情のようなものを向けてくるとしても、それは、いつか屠る予定で大事に飼育する家畜に向けるものと同じだ。
そんな事、分かっているはずなのに、どうして私は期待してしまうのだろう。
息を飲み、そして目を閉じると、ルージュは溜息を吐いた。
「ミエール城を去った時も、あの人は止めたりしなかった。行って欲しくないとは言ったけれど、それでも、私の意思が変わらないと悟ると、馬車で町まで送ってくれた。その後も、私は自由に彷徨っているけれど、結局はあの人の庇護の中にずっといる。私に死んでほしくないのですって。だから、あの人はあなたとの事も常に把握しておきたがっているの」
再び目を開けると、ルージュはそっと立ち上がった。
手紙を窓辺に置いたまま、彼女は私のもとへと戻ってきた。
ベッドに腰かけると、毛布越しに私の体に触れて、静かになぞっていった。
「秘術は解けない。人狼ならば塗り返すことも出来るけれど、他の種族には解けない。あの子がここへ来ない限り、あなたは私には逆らえない。昨晩の事で分かったわね。ドッゲを殺そうとしても無駄よ」
「全部……分かっていたの?」
静かに問いかけると、ルージュは微笑み、唇を重ねてきた。
ここへ来て、もう何度も覚えたその唇の味を静かに確かめると、ルージュはすぐに顔を離してそっぽを向いた。
「あなたがどれだけ従順で無害な存在になってくれたか試してみたかったの。もう少しかかりそうね。それだけ頑固なのか、刻まれた愛が深すぎるのか。いずれにせよ、憐れなものね。中途半端は辛いでしょうに。いっそ開き直って、屠られるまでの日々を、一日、一日、大事に過ごせたら、それはそれで幸せでしょうに」
「わ……たしは……」
否定しようとしたが、難しかった。
自覚すればするほど、思考が支配されていく。
今の私はルージュの奴隷だ。
それが本来の姿のはずだった。
あの日、狩人として認められるより少し前、アンバーが単身で迎えに来なければ、私は憐れな吸血鬼の犠牲者として闇に葬られていた。
吸血鬼に攫われた者は助けるな。
そんな言葉があるくらい、本当ならば厄介なことなのに、アンバーのお陰でまともでいられていると思い込んでいたのだ。
「それでも……私は……」
震えながら否定しようとしていると、ルージュは再び私を見下ろしてきた。
暗がりで真っ赤に光る双眸に、私の心身は凍り付いた。
そんな私を軽く撫でながら、彼女は同じ毛布に入ってきた。
ひんやりとしたその体に抱かれ、震えていると、程なくして首筋に痛みが走った。
ルージュの牙が食い込んでいる。
その感触を自覚すると、体が妙に熱った。
否定できない快感が脳裏を駆け巡り、息があがる。
彼女に血を吸われるたびに、自尊心も吸われてしまっているようだった。
好きなだけ嬲り、血を吸ってしまうと、ルージュは屍のような私の体を抱きしめながら低く笑った。
「この辺にしておかないと、ハニーと楽しむ前に壊れてしまうわね」
ハニー。
まただ。
その名前に私は思わず反応し、ルージュの腕を強く握ってしまった。
そんな私の反応に気づいたのだろう。
ルージュはじっと私の顔を覗き込むと、しばらくして軽く目を細めた。
「ねえ、カッライス。あなたも嫉妬しているの?」
頬を撫でられ、私はたじろいだ。
目を逸らしたかったが、許されていない。
逆らうことが出来ないままに、ただじっとルージュを見つめ続けた。
すると、ルージュは震える私をぎゅっと抱きしめて、囁きかけてきた。
「安心して。あなたはあなたで大事な宝物。だから、こうしてちゃんと取り戻したのよ。今だって散々可愛がってきたでしょう。少し体に触れるだけで、ほら、もう私の指を受け入れようとする。嫉妬する必要なんてないのよ」
ルージュの胸に顔を埋めながら、私は静かに目を閉じた。
頭を撫でられていると、何も知らなかった幼子の頃のような気持ちになっていく。
母親の愛を求めていた私を、そのまま丸め込んでいたルージュ。
ペリドットに救われたばかりの頃は、ルージュの抱擁を求めて泣いたことだってあったのだ。
ルージュに抱かれている今、あの頃の気持ちを思い出すと、突き放すことが出来なかった。
これは秘術のせいだけなのだろうか。
それだけではないように思えてならなかった。
赤子の頃から植え付けられていた種が芽吹いているように、私の心はルージュに靡きかけていた。
本当は殺されたがっているのではないのか。
何度も投げかけられたその問いを思い出してもなお、私はルージュから離れられなかった。
たとえ玩具だとしか思われていなくても、私はやはり心の何処かでルージュの事を愛したままなのだ。
嫌いになれない。
憎むことが出来ない。
秘術があってもなくても、この気持ちは変わらないのではないか。
そんな思いが駆け巡ると、いよいよ私の心は混乱していった。
「ハニーの方はあなたを気に入っているようよ」
ルージュは囁くように言った。
「また顔を見たいと書いていたもの。乳飲み子だったあなたを二人でお世話した日々の事が懐かしい。手がかからなくなるまでは、あの人の手をだいぶ借りたの。まるで二人の子供のようで、とても幸せだった。小さなあなたは妖精のように愛らしくて、私たちに無垢な笑みを向けてくれた」
懐かしむように語る彼女を、私はそっと見つめた。
「それなのに、二人して私を殺すつもりなの……?」
「そうよ」
目を細め、慈しむように、ルージュは私にそう言った。
「人間は必ず老いて死んでしまう。どんなに大切に可愛がっていても、花が枯れるように、あなたも段々老いていく。いつかは私たちを置いて、冥界の果てに連れ去られてしまう。それが嫌なの。若くてきれいなうちに、枯れてしまうその前に、とっておかないと。ベイビーを見たでしょう? 今の私たちになら、あなたの体も綺麗にとっておくことが出来る。あなたの魂も、留めておくことだってできる。そうすれば、ずっと私たちと一緒にいられるわね」
「そんなのは嫌だ……そんなものになりたくない……」
震える私を見つめ、ルージュは微笑みながら言った。
「あなたの意思なんて関係ないわ。もう私たちの物なのだから」
その後は、どのようにして移動したか覚えていない。
ただ気づいたら、私はいつも閉じ込められているあの部屋に寝かされていた。
ベッドの上で、ひたすら震えながら感じるのは、消毒液の臭いだった。
全身を手当てしてくれたのはベイビーだ。
いつものように能天気なまでに明るく振舞いながら、彼女は私を介抱してくれた。
その事はよく覚えている。
それに、交わした会話だって、忘れてはいない。
「ねえ、ベイビー」
「なんでしょう?」
「君は辛くないの?」
すると、ベイビーはガラス玉の目をじっとこちらに向けてきた。
こくりと首を傾げ、いつもあまり変わらない微笑みを浮かべたまま、彼女は答えた。
「悲しい事も、辛い事も、全部忘れてしまいました。ルージュ様はそんな私を可愛がってくださるのです。理不尽に叱られた覚えも、怒鳴られた覚えもありません。蔑ろにされる事もありません。だから、私は幸せです」
それは、強がりでも何でもない。
本心からの答えのようだった。




