4.猟犬との食事
夕食は食堂で。
ベイビーに連れられて、私は大人しく廊下を歩いていた。
念願の外だ。
もしも私がただの虜囚であれば、隙を見て逃げ出そうかだなんて思えただろう。
しかし、そうではない。
恐ろしいまでに、逃げるなんてことが考えられなかった。
仮に、私の心が自由だったとしても、今の状況でルージュから逃げおおせるなんてとても思えない。
貴重なこの機会に試せることがあるとすれば、それは一つだけ。
食堂に通されると、そこにはすでにドッゲがいた。
私の姿を前にしても全く気にも留めない。
興味がないのだろう。
黙って席に着き、私はさりげなく目の前に置かれた食器類を見つめた。
ナイフとフォークはある。
動こうと思えばすぐにでも動ける。
問題は、いつ動くかだ。
今はまだルージュがいない。
着替えているのだろうか。
部屋には私とドッゲ、それにベイビーだけ。
と、その時、ベイビーが私たちに言った。
「ルージュ様をお呼びして参ります。しばらくお待ちください」
丁寧にお辞儀をすると、そのまま部屋を出て行った。
さっそく機会が来た。
そっとテーブルに手を置くと、ドッゲがちらりとこちらを見つめてきた。
そして、沈黙を破り、私に話しかけてきた。
「話には聞いていたが、憐れなものだね」
あざ笑うようなその眼差しに、痛みを感じてしまった。
「うわばみの都では、生意気な嬢ちゃんだと思ってはいたが、さすがに今は同情せずにはいられんよ。このまま何も出来ずに、あの女に弄ばれ、家畜のように殺されるのだからね」
他人事のように語る彼の態度が不快だった。
「随分と冷たいんだね。どの組合だって狩人ってのは……世のため人のためにあるんじゃないの」
思わず呟くように言うと、ドッゲはじっとこちらを睨みつけてきた。
「ああ、その通り、正式な組合員の狩人っていうのは世のため人のためにある。いいかい、カッライス。魔物っていうのは人間の世界にいちゃいけないんだ。ましてや人を騙し、食い殺す人狼なんてものはね。今は良くても、未来は分からない。気が変われば魔物らしく振舞える。そうなる前に打ち殺すのが狩人の責任だ。分かったか、狼憑き。君も同罪だ。人狼を匿うものは、人狼と同じ。その上、吸血鬼の奴隷ときた。君が町をうろつくだけで、あの危険な吸血鬼がうろつく羽目になる。ならば、ここでお捧げしておいて、しばらく満足してもらうほかないだろう。心配せずとも、あの月毛はすぐに君と同じくあの世行きだ。ああ、それか君の方があの月毛のもとに行くことになるかもしれないな」
我慢の限界だった。
気づけば私はナイフを握り締め、立ち上がっていた。
動きづらい衣装。
それに、この数日の生活で体もだいぶ鈍っていた。
けれど、問題なく動くことは出来た。
早くあの喉笛にこのナイフを突き立てねば。
そんな思いで獣のように私はドッゲに飛び掛かった。
だが、望みは叶わなかった。
その刃がドッゲの喉を貫くより前に、体が勝手に止まってしまったのだ。
ドッゲは平然としている。
しかし、彼の力ではない。
背後から感じるのは、別の人物の冷たい眼差しだった。
「遅いじゃないか、殺されるところだった」
ドッゲは言った。
私にではない。
返答の代わりに耳に届いたのは、コツコツという靴音だった。
落ち着いた様子で近づいてきて、すっと手が伸ばしてくる。
冷たいその手が肌に触れ、思わず震えてしまった。
「悪い子ね」
ルージュだ。
その一言だけで、体は完全に動かなくなった。
「跪きなさい」
抗えなかった。
冷たい床に膝をつくと、立ち上がる事さえできなかった。
そんな私を、ドッゲは冷たい目で見つめてきた。
「さっさと話を終わらせよう。こいつと一緒の飯はまずそうだ」
「そう怒らないで、ドッゲ」
ルージュはそう言うと、私の頬に手を添えながら囁いてきた。
「カッライス、あなたにはしばらく反省してもらうわ」
直後、再び体が勝手に動いた。
後ろ手に縛られるような形で体が固定されてしまったのだ。
藻掻く私から手を放し、ルージュはそのまま離れていった。
ドッゲの正面へと座ると、私を無視する形でドッゲに話しかけた。
「さあ、決めましょうか。この先の事を」
ルージュが葡萄酒の注がれたグラスを軽く掲げると、ドッゲもそれに静かに応じ、そしてすぐに発言した。
「さっそくだが、滞在の件だ。しばらくここに置いてくれ。主様不在のこの城を番犬のように守ってやるよ。無論、組合の連中には何も言わない」
「私は別にそれでもいいわ」
ルージュはあっさりと言った。
そして、ちらりと私に視線を向けてきた。
「でも、それじゃ不満だって言いそうな人がそこにいるの」
ドッゲの視線も軽くこちらに向く。
見下すようなその目に、私も睨み返した。
文句の一つでも言いたかったが、口が動かなかった。
ルージュの術で封じられているのだろう。
「この城は君のものじゃないのか、ルージュ。そのペットの許可が必要なのか」
ドッゲの言葉に、ルージュは軽く笑った。
「必要って程じゃないわ。でも、可哀想でしょう。この子はね、本当にあの狼を愛しているのよ。だから、毛皮にして欲しくないのですって」
「それは困ったな」
と、ドッゲは薄気味悪い笑みを浮かべた。
「あれは俺の獲物だ。本当なら、赤ん坊のうちに手に入れて、とっくの昔に絞めているはずだった。こうして居場所が分かったっていうのに、獲るなと言われてもね」
「月毛なら誰でもいいのでしょう?」
ルージュは言った。
「あの里になら他にも似たようなのがいるはずよ。それに、私も捜してあげるわ。ハニーなら、もっと広い視野を使えるかもしれない。何ならもっと上等な毛並みの狼が見つかるかもしれないわ」
「分からないな」
だが、ドッゲは首を傾げる。
「君だって、あの狼にほとほと困らされていたって言っていたじゃないか。いなくなった方がありがたいのだろう。それなのに、どうして庇う」
「さあ、どうしてかしらね」
ルージュは微笑みながら言った。
「別にどうしても庇いたいわけじゃないの。あの子じゃないと駄目だとあなたが言うなら、無理には止めないわ。ただ、ずっと見ていた子だから、少しだけ情が湧いただけよ」
「情、ねえ」
ドッゲは苦笑しながら葡萄酒を飲んだ。
「その割に、狩るなら狩るで、奴の毛皮を高値で買い取りたいなんて言うんだね」
「どうせ避けられないのならね。あの子の毛皮をカッライスにあげたいの。毎日、愛する人の屍のニオイに包まれていれば、死も怖くなくなるでしょうから」
ルージュの言葉にドッゲは笑ってみせた。
「恐ろしいね。だが、嫌いじゃないよ。そこまでしてあの毛皮が欲しいのなら、くれてやってもいい。こいつへの贐にもちょうどいいからね」
蔑むような眼差しを受け、全身の毛が逆立ちそうだった。そこへ、ルージュの声が私へと向けられた。
「カッライス」
短く名を呼ばれると、突然、口が自由になった。
戸惑いつつ、私は息を吐き、ドッゲに向かって吠えるように言った。
「彼女に……手を出すな……」
掠れた声でどうにかそう言うと、ドッゲは無表情でこちらを睨みつけてきた。
私はその目を睨み返し、唸るように続けた。
「彼女は……うちの組合員だ……まっとうに生きている人間だ。お前に殺される道理なんてどこにもない。そもそもさ……彼女が人狼だなんて、どこに証拠があるっていうのさ」
「愚かだね」
と、ドッゲはつまらなさそうに言った。
「獲物が善良かどうか、そんな事どうだっていい。金になるかどうかだ。そうだね、罪があるかどうかというならば、月毛なんかに生まれてきたのが罪だ。黒だの白だの赤だの灰だの、とにかく違う毛色ならば見逃してやっても良かったんだがねぇ。それに証拠か。確かにないね。だから撃って確かめる。死んだときに狼になれば、当たりだ」
「……貴様」
飛び掛かりたい気持ちで一杯だった。
だが、それは許されない。
藻掻くことしか出来なかった。
そんな私を見下しながら、ドッゲは葡萄酒をあおる。
「まあ、楽しみに待っているがいいさ。奴が間違いなく人狼だったら、立派な毛皮にしてやるよ。そうやって、未練を一つも残さないようにしてやろう。処刑の日までその毛皮に寄り添うといい。夢枕で、愛し合うことくらいは出来るかもしれないね」
殺してやりたかった。
だが、立ち上がる事すら出来なかった。
ただただ憎むことしか出来ない事が悔しくて、狂ってしまいそうだった。
そこへ、料理は運ばれてきた。
異形の姿をした、物言わぬルージュの使い魔たちが私に近寄ってきた。
彼らの怪力に抱き起され、抵抗も出来ないまま席に座らされる。
目の前に料理が用意されたが、手を着ける気にならなかった。
ルージュとドッゲは無言で料理を口に運ぶ。
食器のぶつかる音だけが響く中、私はただじっと涙をこらえていた。




