3.城に飼われた猟犬
また朝が来た。
いつの間にか一人になっているベッドの上で、私は静かに目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む白い光をしばらく眺め、這いずるようにベッドを降りる。
体が重い。
昨日よりも、一昨日よりも、さらに重たくなっている。
その重みに抗うように床を這いながら向かったのは、ベランダへ続く窓辺だった。
カーテンをどうにか開けるとすぐに、すっかり白くなった空が見えた。
ベランダには誰もいない。心の何処かで期待した猫の姿もない。
それを静かに確認すると、溜息を吐いて、どうにか立ち上がった。
体中が痛かった。
生傷がさらに増えている。
その痛みで思い出すのは、昨晩のことだった。
ここへ来てから毎晩、私はルージュの餌にされている。
抵抗することすら厳しく、やめてと懇願することすら難しい。
そんな無力感に苛まれながら味わう屈辱に、身も心も憔悴しきっていた。
もはや思い出せなかった。
私はどうやって狩人なんてやっていたのだろう。
その感覚すら分からなくなっていく。
そんな中でも辛うじてまだ自我を保てていたのは、か細いながらも希望の光が残っていたからだ。
──アンバー……。
見捨ててほしいと願いながらも、心の何処かでまだ期待を捨てられないでいる。
アンバーのもとに帰りたいという気持ちが、ルージュの秘術に埋もれきれずに残っている。
それを思い出させてくれるのが、ダイアナの訪問なのだ。
今日も来るだろうか。
いつの間にかそんな事を考えている自分に気づき、どうしようもなくなった。
今の自分を最も縛るもの。
それが、吸血鬼の秘術だ。
かけられた以上、一生苛まれることになるこの術を、私自身は自ら解くことが出来ない。
助けを待つことしか出来ないことがあまりにもどかしかった。
その上、ここには罠が仕掛けられている。
厄介な猟犬がいる。
窓辺から少しだけ確認できる外の様子に、私はふと視線を向けた。
城の庭を横切り、森へと入っていく人物の姿が見えたのだ。
ドッゲだ。
猟銃を抱え、森林へと入っていく。
それから程なくして、けたたましい破裂音が聞こえてきた。
かつては私だって聞きなれていたはずのその音。
だが、心がざわついた。
数分後、彼が獲物を抱えて戻ってくるのを目にするまで、私は気が休まらなかった。
それからしばらくして、撃たれてしまった哀れな獲物が鹿であることを確認してからようやく、心が少しだけ落ち着いた。
ドッゲの日々の働きについては、ルージュだけでなくベイビーからも聞かされている。
彼が仕留めた獲物の肉を、私は口にしているらしい。
ドッゲがルージュの事をどう思っているのかは分からない。
ただ、少なくとも正式な組合員の猟師であるはずの彼が、賞金首であるはずのルージュについてあまり関心を向けていないらしいことは確かだった。
無論、万が一、その本心を隠して親しいふりをしていたとしても、ルージュが彼に仕留められるような事なんてないだろう。
ドッゲだってベテランだ。
正義感だけで狩人をやっているわけじゃない。
ルージュの厄介さを分かっているからこそ、真に求める獲物以外には関心を向けていないのかもしれない。
彼の人狼への想いは本物だ。
そう評価したのはルージュだった。
少なくともルージュが認識した頃には既に、彼は人狼狩りで賞金を稼いできたという。
各所で悪事を働いていた者は勿論、ただ密かに暮らしていただけの者だって、人狼であることが知られれば彼の餌食となった。
その中にはルージュの友人もいたらしい。
それを巡って、対立したことだってあったらしい。
けれど、今はもうそういう時ではない。
彼女は言った。
──時間の経過が全てを薄めてしまった。今、彼に期待しているのは、その働きだけ。
働き。
それは勿論、アンバーを巡っての働きだろう。
警告はした。
ルージュは度々そう呟く。
けれど、その警告をアンバーが決して守れない事だって彼女は分かっている。
本当は死んでほしくないと言いながら、彼女はいつも微笑みを浮かべる。
彼女の本心は違うところにある。
その薄気味悪さがまた怖かった。
「ドッゲ……か」
私はルージュに逆らえない。
しかし、それ以外はどうだろう。
今のところ、危害を向ける気にはならないが、ベイビーには拳を向ける事だって出来るだろう。
ならば、ドッゲはどうか。
彼だって同じだ。
ルージュではないのだから。
──ドッゲさえ止められたら。
少なくとも、彼さえどうにかしてしまえば、アンバーは無事でいられる。
だが、具体的にどうすればいい。
今の私には、ドッゲが寝泊まりしている部屋に向かうだけでも困難だ。
この部屋から勝手に出る事さえ難しいというのに。
もどかしさを抱えていると、ふと扉がノックされた。
振り返ると鍵が開けられ、着替えを手にしたベイビーが入ってきた。
「おはようございます、カッライス様。本日のお召替えをお持ちしました」
相変わらず人形のような仕草でお辞儀をして、ベイビーはベッドの上に着替えを置いた。
昨日、一昨日と、また違う衣装だ。
やはり動きにくそうな窮屈なデザインで、着る気にもならない。
嫌悪感を隠し切れずに軽く睨みつけていると、ベイビーは朗らかな様子のまま私に話しかけてきた。
「お具合はいかがですか。後でまた傷のお手当てをいたしましょうね。そうそう、今宵はルージュ様がお夕飯を食堂でお召し上がりになりたいとのことでしたよ。ドッゲ様もご一緒するようです」
「……ドッゲも」
呟く私にベイビーは笑いかける。
「今後の予定についてのご相談のようですね。今月末にはルージュ様がハニー様のもとに旅立たれる予定ですが、ドッゲ様はもうしばらくここに滞在したいとご希望です。きっと、そのあたりについても話し合われるのでしょう」
ドッゲ。
ルージュが去った後も、しばらくここに居たいと希望するのは何故か。
やはり、アンバーを狙っての事だろう。
諦めきれないというわけだ。
そうであるならば、脅威は去らない。
ルージュに幾ら懇願しても、無駄だろう。
アンバーが消える事は、ルージュにとっても望ましい事に違いないのだから。
ならば、止める方法は一つしかない。
「私もその場に同席するってことだね……?」
そっと呟くと、ベイビーは頷いた。
「はい。お夕飯はドッゲ様が仕留められた新鮮な獲物がメインとなります。鹿にせよ、山鳥にせよ、私が美味しく調理いたしますので、どうかご安心くださいませ」
「そっか。楽しみにしているよ」
軽くそう言いつつ、私は必死に思考を巡らせた。
ドッゲと会う機会が得られる。
ルージュもその場にいるとはいえ、またとない機会だろう。
食堂ということは、武器だってある。
ナイフにせよ、フォークにせよ、殺傷能力のある何かしらは手に入る。
後の事は考えなくていい。
ドッゲさえ仕留めてしまえば、それでいい。
たとえ、その後にルージュによるきつい処罰が待っていたとしても、私の目的は達成されるのだから。
──これなら、アンバーを守れるはず。
少しだけ希望の光が見えてきた。
そんな気がした。
「前向きなお返事、嬉しいわ」
と、不意に声が聞こえ、私は顔を上げた。
いつの間にか、部屋にはルージュの姿もあった。
息を飲みつつその顔を見上げると、ルージュもまた薄っすらと赤く光る眼をこちらに向けてきた。
「おはよう、カッライス」
淡々とした様子で声をかけられ、私は無言でうなずいた。
素直なその態度に満足したのだろう。
ルージュはすぐにベイビーへと視線を戻した。
「後の事は私に任せて。お前は他の仕事をなさい」
すると、ベイビーは丁寧にお辞儀をして、部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まると、ルージュはベッドに腰かけて、私を真っ直ぐ見つめてきた。
「ベイビーが言った通り、今後の事を今宵決めるわ」
「ドッゲは……ここに残るの?」
問い掛けると、ルージュは目を細めた。
「希望しているのは確かよ。だけど、滞在を認めるかどうかはまだ決めていないの。認めるならば、ベイビーの他、私の従者をいくらかこの城に残しておかないといけないわね」
「あいつは……そこまでしてアンバーの毛皮を……?」
「執念深い人のようね。いかにも猟犬だわ。あの子も可哀想に、月毛になんて生まれなければ、あんな人に目を付けられずに済んだのにね」
そう言って、ルージュは楽しそうに笑った。
この状況が楽しくて仕方がないのだろう。
だが、私は何も言い返さなかった。
足掻く手段はある。
私だって、遊びで狩人をしていたわけじゃないのだから。
黙ったまま耐えていると、ルージュは笑うのをやめ、立ち上がった。
そして、ベイビーも持ってきた衣装を手に取ってから、私を振り返った。
「さあ、そろそろ着替えましょうか」




