2.恋人からの伝言
動く気になれない。
重苦しい衣装が体にぴったりと張り付いている。
まるで鎖のようだった。
視界の中にある姿見が、私の姿を映している。
だが、凝視する気にもなれなかった。
今の自分の姿を見たくなかったせいでもある。
着飾らされ、ベランダに続く窓の前で力なく座る私は、どれほど惨めなのだろうと想像すると怖かったのだ。
窓は相変わらず施錠されている。
その鍵を開けるつもりなんてルージュにはないだろう。
この部屋に私を置いたまま、何処かへ行ってしまった。
部屋の扉にも鍵はかかっている。
開けられるのはベイビーとルージュだけ。
朝食以降、二人とも姿を見せてはいない。
放置された私に出来ることは、ただ待つことだけだった。
糸の切れた操り人形のように床に座り、膝を抱えている事しか出来ない。
登り切った太陽が、私の背中を照らしている。
その温かさだけが、今の私の退屈を紛らわしてくれていた。
不意に声が聞こえてきたのは、そんな時の事だった。
『カッライス』
囁くようなその声。
聞き取ったのは耳ではない。
ハッと我に返り、振り返ってみれば、テラスに小さな獣がいた。
猫だ。
黒猫だ。
「……ダイアナ」
小声でその名を呼ぶと、黒猫は応えるように尻尾を揺らした。
こちらをじっと見つめ、口を動かすことなく彼女は言葉を伝えてくる。
『会話はできるようね。よかった』
その姿に思わず縋りつきそうになる。
けれど、私はすぐにその気持ちを堪えた。
駄目だ。
ここでルージュを裏切ってはいけない。
ダイアナだってルージュに睨まれているのだから。
「ここに来ちゃダメだ。ルージュを怒らせてしまう」
『大丈夫よ。あの人は今、眠っている』
「寝ている……分かるの?」
ルージュが今何をしているのか、少なくとも私には分からない。
だが、ダイアナは猫なりに胸を張りながら答えた。
『ええ、あたしには分かるの。なんたって魔女ですもの』
「吸血鬼の眠り……ってやつか」
もっとも無防備になると言われる時間でもある。
この時に見つけ出せたら、狩るのも容易だろう。
それでも、今の私には相当難しい事だ。
ここを出る術がない為だ。
それに、出られたとして、今の私にルージュを殺すことなんて出来るだろうか。
ルージュが死ぬ。
考えるだけで恐ろしくなってしまう。
『眠ってさえいればあの人も怖くはない。今のうちに、あなたに大事なことをお伝えしておくわ』
「大事なこと?」
『恋人からの伝言よ。すぐに迎えに行くから待ってろ、ですって』
──アンバー。
一瞬だけ、私は嬉しく感じてしまった。
だが、すぐにその気持ちも振り払った。
「ダイアナ……頼む。アンバーを止めて。そこから動かないように伝えて欲しい」
『無駄よ。あたしの言う事なんて聞きもしないんだから』
「君だけが頼りなんだ。この城は危険すぎる。ドッゲが目を光らせている」
『知っているわ。あの人だって。でも、聞く耳も持たない。村の人達もアンバーを引き留めようと必死よ。だから、今、あの人は幽閉されているのよ』
「幽閉……」
『クレセントだったかしら。村の人の命令でね。ルージュの事もあなたの事も広まって、ちょっとした騒ぎになっているの。あなたを食べ損ねたことを愚痴る声もあるみたいだけれど、吸血鬼を敵に回しかねないとなれば仕方がないって人が大半みたいね。それで今、村の人達が、アンバーを説得しているみたいなの。人間の事なんて忘れろって』
「……それでいい」
そう言ったものの、心苦しくなってしまった。
クレセントたちに任せておけば、アンバーもいつかは諦めざるを得なくなるだろう。
ドッゲだって、単身で村に突入するなどという馬鹿な真似はさすがにしないはずだ。
このまま時間が過ぎていけば、私たちは二度と会う事もないだろう。
そう、二度と。
震えそうになる手を必死に握り、私はダイアナに言った。
「ダイアナ。お願い。アンバーを守ってあげて。ドッゲに仕留められないように」
すると、ダイアナはあからさまに溜息を吐いてから答えた。
『アンバーなら大丈夫よ。彼女を信じてあげて。そして、忘れないで。アンバーはまだ、あなたのことを愛しているの。それはずっと変わってないんだから』
愛している。
愛……。
その言葉に少しだけ意識が引っ張られた。
手放したはずの未来への希望を思い出してしまいそうになる。
抗えば抗うだけ苦しくなるはずなのに、諦めてはいけないと、心の奥底から声がしてくる気がした。
けれど、それだけだった。
「ごめんね、ダイアナ」
私は静かに言った。
「今はまだ、ここを去ることすら考えられないや」
そんな私の態度に、ダイアナは深く溜息を吐いた。
『……いいわ。いずれにせよ、アンバーの気持ちは変えられないもの。……そろそろあの人が目覚めるみたい。また来るわ』
そして、すっとダイアナは姿を消してしまった。
それから数十分ほど、私は再び孤独な時間を過ごしていた。
だが、不意に扉の鍵が開く音がした。
現れたのはベイビーだ。
だが、そのすぐ後ろから、ルージュが現れた。
ベイビーはルージュを残すとすぐに一礼し、退室していった。
二人きりにされて、私は静かに目を逸らした。
ささやかな抵抗だった。
「お客様がいらしたようね」
ルージュが言った。
「なんのこと?」
すぐにそう答えたが、ルージュは目を細めて言った。
「誤魔化しても無駄よ。かつて可愛がっていた猫の気配がするもの」
お見通しということだろう。
私はそのまま口を噤み、床を見つめ続けた。
ルージュの鋭い視線が痛い。
それでも、顔を上げないように、我慢し続けた。
そんな私に、ルージュは容赦なく訊ねてきた。
「何の話をしたの?」
幼い頃に向けられた時と同じような優しい声だった。
黙っているのが辛い。
それでも抵抗を続けていると、ルージュはそっと近づいてきた。
目の前にしゃがむと、私の手を掴む。
そのまま優しく持ち上げられたその瞬間、私もまた釣られたように立ち上がってしまった。
体が勝手に動いたのだ。
動揺する私の心の隙を逃さず、ルージュは囁いてきた。
「目を見て」
逆らえなかった。
葡萄酒色のその目に怯える私を抱きしめて、ルージュは諭してきた。
「言いたくないなら無理しなくてもいい」
そして、首筋に噛みついてきた。
「うっ……」
痛みと高揚に心身が疼く。
倒れそうになる私を抱え、ルージュはさっそく血を吸い始めた。
体中が熱い。
これまでに噛まれた場所、そして弄られた場所が、次々に熱を帯びていく。
どうやら私の心身は、この刺激を喜んでいるらしい。
そう気づいた瞬間、恥じらいと一緒にプライドが消えていくのを感じた。
ルージュが牙を離す。
軽く息を吐き、呼吸を整えながら彼女は言った。
「あの子は、まだ諦めていないのね」
低く呟くその言葉に、私の身が強張った。
この反応こそが答えになってしまっているだろう。
けれど、どうしようもなかった。
「それなら仕方ないわ。毛皮になってしまう未来も阻めない。ドッゲに伝えましょう。望みの獲物が自ら向かってくると」
「……ルージュ」
すがるようにその名を呼ぶと、ルージュは少しだけ面白がるように笑みを浮かべた。
「アンバー……。あの子の事になると、まだまだ顔色が変わるようね」
「お願い……アンバーに手を出さないで。お願いだから」
泣きそうになる私を、ルージュはじっと見つめながら言った。
「可愛いわね。牙を失ったあなたは。甘えた声で私に懇願することしか出来ないなんて。あれほど殺そうと本気でかかってきたのが嘘みたい」
「ねえ、ルージュ……」
しがみつく私に、ルージュは言い聞かせてくる。
「あなたがどれだけおねだりしても意味がないわ。どうしても止めたいならば、あの可愛い猫ちゃんを通して説得し続けなさい。安心して。私はそこまで冷血じゃないわ。向かって来ないならば、猟犬をけしかけたりしない。約束するわ」
その約束が、守られるかどうかなんて分からない。
それでも、私は必死だった。
必死に何度も頷いて、必ず説得すると何度も誓ったのだった。
ルージュはそんな惨めな私を見つめ、満足そうに微笑みを浮かべていた。




