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CALLAIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
吸血鬼の愛し子
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10.吸血鬼の秘術

 再び目を覚ますと、私は覚えのある寝室にいた。

 長い夢を見ていたのだと聞かされたら信じてしまいそうなほど、ベッドの感触が馴染んでいた。

 けれど、その一方で、私は焦燥感に駆られていた。

 目を覚まさないと。

 すでに起きているにも関わらず、私は何度もそう自分に言い聞かせていた。


 しかし、私は何も出来なかった。

 ベッドの上に寝かされたまま、逃げる事なんて何も出来なかった。

 ここ数年、ペリドットのもとで必死に修行してきたけれど、その全てが封じられてしまったかのようだった。

 まともに考える事すら出来ないまま、私はルージュの腕の中にいた。

 意識は夢現の中で混濁していたけれど、囁かれた言葉と痛み、そして認めざるを得ない快楽だけは覚えている。


「──ああ、ずっとこの味が欲しかった」


 ゾッとするほど綺麗な声だった。

 それから、意識がようやくはっきりとした時、私はベッドの上で泣いていた。

 あやすようにルージュに頭を撫でられていると、幼子に戻ってしまったかのような気分になる。

 抗おうとしても、動くことが出来なかった。


 全身が痛かった。

 ありとあらゆる場所に、傷が出来ていた。

 血をたくさん吸われたからだろう。

 起き上がることすら苦痛だった。

 それでいて、意識だけがはっきりとしているせいで、無力感がこみ上げてきた。


 だが、それだけじゃなかった。

 横たわっている間、涙が頬を伝う感触と共に、私の脳裏には恐ろしい光景が映し出されていた。

 意識を失う直前に見た悪夢。

 夢だと思いたいその現実。

 私の──私のせいで、ペリドットが撃たれたあの瞬間を何度も思い出し、吐き気がこみ上げてくる。


「師匠……アンバー……」


 呟く私をルージュは抱き寄せてきた。


「忘れなさい」

「出来ない。だって、私の家は──」


 かつて、この屋敷から連れ出された時、私はペリドット達を恨んですらいた。

 あの頃の私の家はこの屋敷に違いなかった。

 しかし、この時はもう違った。

 私の家はここじゃない。

 私にとっての家族はペリドットとアンバーになっていたのだ。

 そんな私に対し、ルージュは怒りもしなかった。

 ただ怪しい笑みをこぼしながら、私の顔を覗き込んできた。


「全部、忘れた方がいいわ。それが、あなたのためよ」


 彼女は言った。


「今はまだ混乱しているだけ。でも、時間が経つごとに、あなたは全てを忘れていく。かつて私を恋しがったのに、いつの間にか彼女らと暮らすことが楽しくなったように、ね。悪い事は言わないわ。身を委ねなさいな。どうせ逃げられないのだから」

「……逃げられない?」


 問い返す、というよりはただ繰り返しただけに近かった。

 そんな私を面白がるように、ルージュは唇を重ねてきた。

 何度も噛みつかれたその牙が舌に当たり、背筋がぞっとした。

 ただ単純に怖かったわけではなかった。

 それが吸血鬼の魔性というものなのだろう。

 獲物に噛みつかれていたいと思わせるのが彼らの術でもある。

 その術中にすっかり囚われていた為に、噛まれた傷のある場所が震えてしまったのだ。

 ルージュは唇を離すと、眩い金の髪をかき上げながら、私を見下ろしてきた。

 葡萄酒色の目を細めるその顔は、かつて何も知らなかった私が純粋にその抱擁を求めていた時と全く変わらない。


「本当に逃げようという気があるなら、あなたは逃げられるはずなのよ」


 私の全身をさすりながら、ルージュは言った。


「手も、足も、縛られてなんていないでしょう? それでも、あなたは逃げようとしない。どうしてか分かる? あなたの本心がそれを求めていないからよ。あなたは私のもとに帰りたがっていた。それなのに、野蛮で独善的な人間たちは、私たちを引き裂いた。だから、もう二度と、離れ離れにならないようにおまじないをかけてあげたの」

「お呪いって?」


 幼子のように問い返す私を、ルージュは再び抱きしめてきた。


「あなたも、もうベイビーじゃないのだから、きちんと教えておきましょう。私たち吸血鬼には特別な力がある。魅了の力もその一つよ。愛しい人間が出来たら、心を虜にしてしまうの。少し笑いかけるだけでいい。見つめているだけでいい。それだけで、人間たちは私たちのことを好きになってしまう」


 幼い頃の私もまた、そうやって懐かされていたのだろうか。

 そうだとしても、私はルージュを拒むことが出来なかった。

 そして、あの時からだいぶ経った今ですら、心の底から彼女を憎むということが出来ないままでいる。

 それが吸血鬼の恐ろしさなのだろう。

 しかし、本当の恐ろしさはそこではない。

 ルージュは続けた。


「でも、好きになってもらうだけじゃ足りなすぎる。私たちが求めるのは何でもいう事を聞く奴隷。絶対に逆らえないお人形を手に入れるためには、特定の相手だけに使える秘術を使わないといけないの。ねえ、カッライス。あの赤毛のもとで吸血鬼の事はどれだけ学んだの? 人間たちは、どのくらい私たちの事を知っているのかしら」


 ペリドットのもとで私はアンバーと共に様々な魔物の知識を与えられた。

 その中にはもちろん、吸血鬼のことも含まれていた。

 吸血鬼の怪しげな術はいくつもあって、ルージュが語った魅了の力も含まれていた。

 その中に一つ、妙に記憶に残っていたものがある。


 ──吸血鬼に処女や童貞を奪われた者は、二度と彼らに逆らえなくなる。


 黙ったまま息を飲む私に、ルージュは囁いてきた。


「いいえ、あなたが知っていたとしても、知らなかったとしても、同じことね。過去は変えられないもの。失ったものも二度と戻らない」


 彼女の声に反応して体が疼いてしまった。


「震えているのね。それとも、喜んでいるのかしら。気持ちよかったでしょう、大人の悦びを知るのは。好奇心の強いあの若い狼に手を出される前で良かった。知っているのよ。あなた達が時折、口づけを交わしていた事。あの狼の狩猟本能とやらに付き合っていたのよね。でも、口づけに止まってくれて本当に良かった。あなた達が一度でもその先まで行っていたならば、この秘術は通用しなかったもの」


 目を逸らす私に、ルージュは言った。


「後悔しても遅いわ。それに、怖がらなくていい。戸惑いも溶けるように消えていくから。そうなれば、かつて、あの人狼女を愛していた気持ちも忘れていくでしょう。あなたは自ら服を脱ぎ捨てて私に血を吸われるようになる」

「私の事も……いつかは殺すつもりなんでしょう?」


 問いかけると、ルージュは笑みを深めた。


「そうね。いつかはそうなる。でも、その頃になれば、あなたは死すら恐れなくなるでしょう。怖がらせたりしない。気持ちよく死なせてあげるから安心して。でも、いざ死んでしまったら悲しいわね。遺された体はどうしましょうか。全身の血を抜いてお酒に加工して、肉と臓器は親友を喜ばせる美味しい料理の材料に。残った皮と髪と骨で綺麗なお人形を作ってもらおうかしら。ああ、この綺麗な目は薬漬けにして取っておかないと。代わりに同じ色の宝石で作った目を入れるの」


 淡々と語りながらルージュは私の頬を撫でる。

 冗談で言っているわけでもないのだろう。

 そして、何よりも恐ろしいことに、私自身が、心の何処かでそんなルージュの言葉に従おうとしていたのだ。

 そう、あの時、私は逃げられなかった。

 逃げるという意思を保てなかった。

 楽しそうに未来を語るルージュの姿はあまりに美しくて、その手で滅茶苦茶にされたいと思ってしまっていたからだ。


 これが秘術の影響なのかどうか、私は吸血鬼じゃないから分からない。

 ただ確実に言えるのは、このまま誰も助けに来てくれなかったら、私は自らの足でルージュのもとから逃げ出すことすらしなかっただろうという事だ。

 こうしてあの時の事を書き記すこともなかったし、誰にも語らず、誰にも知られず、ルージュの傍に居続けただろう。

 吸血鬼に攫われた者は諦めろ。

 これは、今この世を生きる人々の全てが生まれるよりずっと前から伝わる教えでもある。

 ベテランの吸血鬼ハンターであっても、誰かを助けるための狩りはあまりしないのだという。

 私がペリドットたちに保護されたのは全くの偶然で、彼らの目的は飽く迄も周辺の安全確保だった。

 だから、あの時はルージュの事を深追いせずに、追い払うに止まったのだろう。

 となれば、ペリドットの負傷を知った組合の者たちが、私を助けに来てくれるなんてことは全く期待できなかった。


「これからはずっと一緒よ」


 ルージュの囁く言葉が毒のように染み込んでいったのを覚えている。

 恐怖と屈辱に覆いかぶさるように、彼女への好意を覚えてしまったのも、秘術によるものだったのだろうか。

 そのままただ時間が過ぎていくだけで、きっと私は彼女の手による幸福な死を待望するようになっていたのだろう。


 でも、私はそうならずに済んだ。

 吸血鬼の秘術とは、何にも勝る絶対的なものではなかったのだろう。

 身も心も疲弊し、何も分からなくなる前に、あの場所を抜け出すことが出来たのも大きい。

 決して私一人の力によるものではない。

 もしも、誰も助けに来なかったなら、抗う事すら難しかっただろう。


 そう、あの時、手を──いや、前脚を差し伸べてくれる者がいなかったら、私は今頃、この世にいなかったかもしれない。

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