1.新しい我が家
「今日からここが君の家だ」
そう言ったペリドットの横顔を、秘かに睨みつけた事を今でもよく覚えている。
大人しく手を繋がれてはいたけれど、彼女たちに保護されてからずっと、私は心を閉ざしたままだった。
その当時の自分の気持ちも鮮明に思い出せる。
これの何処が私の家だ。
勝手に決めないで欲しい。
私はそう思っていた。
あの頃の私にとっての家とは、物心ついた頃から暮らし続けていた豪奢な屋敷に他ならなかった。
それに比べてペリドットが連れてきた家は小屋のようなもの。
だが、建物の規模の問題なんて些細なことだ。
たとえ連れてこられた先が、元から暮らしていた屋敷よりもさらに立派な場所だったとしても、私は不機嫌なままだっただろう。
私にとって重要なことはただ一つ。
そこにルージュがいるかどうかだけだったのだから。
ルージュ。
その吸血鬼の名を口ずさむと、今でも背筋がぞっとする。
それでいて心の奥底にぼんやりと懐かしい気持ちが浮かび上がってしまうのも、あれからずっと変わらない。
仕方のない事だと諦めている。
どんなに心を入れ替えようと、幼少期の大事な時期を彼女と共に過ごした事実は変えられない。
その時に受けた愛情が偽り、或いは下心があってのものだったと分かっていても、幼い頃に植え付けられた彼女への愛着はそう簡単に消えてくれないのだろう。
今でさえそうなのだから、あの頃の私が、ペリドットよりもルージュの方を信頼していたのも無理はないことだ。
それをペリドットも分かっていたようで、私がちっとも楽しくなさそうだと気づいてからも怒ったりはしなかった。
彼女はただ苦笑いをして、弁明するように私に言った。
「あのお屋敷に比べたらそんな顔にもなるか。ただね、ああ見えて丈夫な家なんだよ。嵐が来ても耐えられるくらいには。それに、ちょうどいい広さだと思う。三人で暮らすにしたって狭くはないはずさ」
「三人……」
ペリドットの言葉を繰り返し、私は再び沈黙してしまった。
環境が突然変わってしまうという事は、子供にとって戸惑わずにいられないことだ。
物怖じしない性格ならまだしも、私はどちらかと言えば人見知りな方で、長らくルージュと共に過ごした屋敷以外の世界を知らなかった。
そんな私にとって、ルージュ以外の人物との共同生活なんて想像すらできなかった。
それも、同じ年頃の子供も一緒だなんて。
だが、一方で子供らしい好奇心もあるにはあった。
その好奇心が不安の中に一滴の期待を生んでいたのも事実だった。
ペリドットが娘として養っているというその子供──今日から私の姉になるのだというその子供はどんな人物なのだろうかと。
「ああ、そうだ。忘れていた」
私にとっては新しい家の扉を開ける直前、ペリドットは思い出したように呟き、しゃがみ込んで私と視線を合わせてきた。
明るい緑色の目で見つめられていると、どことなく不安な気持ちになったことを覚えている。
当時はまだペリドットというこの赤毛の女性を信じられずにいたのだ。
「いつまでも君じゃいけないね。名前はあるんだったっけ?」
「ルージュは私のことベイビーって呼んでいた」
甘い呼びかけは今でもたまに夢に見る。
当時の私にとっては、一刻も早く聞きたい声でもあった。
だが、ペリドットはそんな私を哀れむような眼差しで見つめ、静かに諭すように言ってきたのだ。
「それは名前じゃないよ」
むっとする私に対し、ペリドットは根気強く教えようとした。
「あいつはね、これまで攫った全ての子供をベイビーって呼んでいたらしい。名前を忘れさせ、帰る場所をなくしてしまうんだ。いずれは豚や鶏のようにご馳走にしてしまう。子供のうちは可愛がっていてもだよ。君は何人目のベイビーだったんだろうね」
「そんなの……」
信じない、と何故かその時は言い切れなかった。
叱られると思ったからだろうか。
ともあれ、黙り込むしかなかった私に、ペリドットは言った。
「名前が思い出せないなら、これから考えるしかないか。どんな名前がいい? 何か希望はあるかい?」
その問いに、私がどう答えたのか正確に思い出せない。
ただ、ペリドットの反応からして、特に希望はなしという事になったのは確かだ。
ペリドットはしばし考え込み、ふと私の目を覗き込んでから呟くように言った。
「それにしても、綺麗な目だ。……ああ、そうだ。カッライスっていうのはどうだろう」
馴染みのない響きに顔をあげると、ペリドットは笑いかけてきた。
「私の所属している狩人の組合ではね、慣習として宝石の名前を名乗るんだ。私のペリドットという名前もそうだ。そして、これから一緒に暮らすことになる教え子のアンバーもね。いずれ狩人になることを見越して私がつけた名前なんだ」
「カッライスも宝石?」
「うん。そうだよ。勿論、絶対に狩人にならなきゃいけないってわけじゃない。将来何をしたいかは、ここで一緒に暮らしながらゆっくり考えてくれればそれでいい」
「カッライス……」
特に気に入ったわけでもなかったが、嫌でもなかった。
どうせ拒んだところでルージュのようにベイビーと呼んでくれるわけでもない。
当時の私はまだまだ幼かったが、それを理解できるくらいには大きかった。
「気に入らなかった? 何なら他にも考えるけれど」
ペリドットの言葉に、私は静かに言ったのだった。
「別にいい」
こうして、私の生涯の名前は決まったのだった。
思い返してみれば、その呆気なさに苦笑してしまう。
でも、名前なんてそういうものなのかもしれない。
多くの人は自分が名付けられた瞬間なんて覚えていないだろうから。
さて、名前が決まってしまうと、いよいよ次は姉との対面だった。
ペリドットにうまく丸め込まれながら渋々向かったのは、寝室のある二階だった。
南側の大部屋の扉をペリドットが開けると、窓際に置かれた机に突っ伏す形で一人の少女が眠っていた。
「……静かだと思ったら」
呆れ気味にそう言ってからペリドットは大声で彼女に呼びかけた。
「アンバー。起きなさい」
すると、その少女──アンバーはむくりと起き上がり、目をこすりながらこちらを振り返ってきた。
日光に照らされたその髪の美しさは今でも記憶に焼き付いている。
ルージュのような金髪だ。
だが、全てを焼き尽くす太陽のような黄金の髪を持つルージュに対し、アンバーの髪の色はもっと控えめな月光のような麦色だ。
寝起きのアンバーは妖精のように美しく、私は息を飲んでしまった。
だが、彼女に対してそんな儚げな印象を抱いたのはこの時が最初で最後の事だった。
「あれ、師匠。お帰んなさい」
「ただいま。ちゃんと勉強はできたのか?」
「えへへ、あ、でも、だいたいは出来たよ」
「だいたい、かぁ」
「まあ、それはいいじゃない。ところでさ──」
アンバー。
その名に相応しい色の目が、私をじっと見つめてきた。
その眼差し、その表情から、本能的に察してしまった。
彼女はどうやら私とは住む世界が異なる人物らしい。
そう思った矢先、アンバーは椅子から飛び上がって駆け寄ってきた。
「その子は誰? まさか今回のお土産?」
「この子はカッライスだ。お土産じゃないよ。今日から君の妹になる子だ」
「妹? じゃあ、ここに住むってこと?」
「そういう事。仲良くしてあげるんだよ」
ペリドットがそう言い終わらないうちに、アンバーは私の手を無断で掴んできた。
思ってもみなかった力強さに翻弄され、固まっていると、アンバーは何度も私の手を振り回しながら興奮気味に言ったのだった。
「あはは、妹が出来るなんて夢みたい。お土産みたいなもんだね。ううん、どんなお土産よりも嬉しいや。ずっと家来が欲しかったんだぁ」
「こら、アンバー。妹は家来じゃない」
「家来みたいなものだって昨日読んだ本に書いてあったもん」
ペリドットは呆れつつ、私にそっと囁いてきた。
「こんな奴だけど、根は悪くない。どうか仲良くしてやってくれ」
その懇願に、恐らく私は返答すらしなかった。