地下書庫
Tさんは、とある大学図書館で司書として働いている。
その彼女がまだ新人だった頃のこと。
その日、Tさんは地下書庫で、本を書架に戻す作業をしていた。時刻は夜。日中の、人が出入りする時間帯ですら妙に静けさの漂う地下書庫は、閉館後に無人となった今、不自然なほどに静まり返っている。
Tさんは、本を乗せたカートを押して、書架の間を歩き回った。地下書庫は書架が天井まである。高い書架が壁のように続く様は、圧迫感のある立体迷路のようだ。
Tさんが狭い通路で立ち止まり、本を棚に差し込んでいると、
パサッ
どこかで軽い音がした。本の落ちる音だ。
しまった。戻し方がまずかったかな。
本の差し込みが不十分で、棚から床に落ちてしまったのかもしれない。Tさんはカートをその場に残し、慌てて音のした方に向かった。
当たりをつけた通路を覗くと、やはり書架と書架の間の床に、本が一冊落ちている。本は開いていて、表紙側を上に、ページ側を下にして、うつ伏せになってしまっている。急いで拾い上げ、損傷がないか確認してから、棚に戻した。
ふう、と一息ついていると、
バサッ
音がした。別の通路で本が落ちたようだ。
いやだ。また?
そんなに雑に作業していただろうか。反省しながら向かうと、やはり本が落ちている。また、うつ伏せの状態だ。
拾い上げて確認しながら、少し妙に思った。さっきの本より、重量も大きさもある一冊だ。棚に戻した時に落ちそうならば、確実に気付くはず。なぜ落ちたのだろう。しかも、うつ伏せに。普通は背表紙から落ちたなら、仰向けになるのではないだろうか。どうして二冊とも、きれいにうつ伏せで。
バサッ
ハッと顔を向ける。いまさっき通ってきた通路に、本が落ちている。さっき通りながら軽く見たときには、落ちそうな本などなかった。どうして。しかも、また、うつ伏せに。
こわごわ近付き、本の側にかがみ込む。書庫の白々とした電灯の光に、うつ伏せの本がぼんやり光っている。しかし、それは、
じゆうちょう?
ノート状の冊子には、表紙に赤い花の写真が飾られ、その下に「じゆうちょう」と書いてあった。どこにでも売っている自由帳だ。
しかし、こんなところにあるはずはなかった。ここは専門書の棚だ。並んでいるのは、みな分厚く、豪華な装丁の事典のような書籍だけ。こんなものが紛れ込むはずがないのだ。
どうして――。
恐る恐る手を伸ばし、うつ伏せのそれを拾い上げる。ひっくり返し、ページ部分を上に向けた。真っ白なページ。そこに、大きく殴り書いたような子供の字がある。
うしろ
Tさんは体を強張らせた。息が浅くなる。
背後に気配があった。誰かが、しゃがみ込んだTさんの後ろに立っている。立って、じっと見ている。そんな気配がある。
嘘だ、とTさんは思った。今、地下書庫には自分以外誰もいない。これは気のせいだ。Tさんは必死で自分に言い聞かせた。
意識して息を整えながら、自由帳から視線を外し、前方の床を見る。途端、息が詰まった。
前方の床に影があった。Tさんの影。そして、それと重なり、途中から越えて伸びる影。誰かが背後に立っている。
ゆら、と前方の影が左右に揺れた。ふふっと口の中で笑う小さな声がする。
ゾッと悪寒が走った。Tさんは弾かれたように立ち上がり、振り返らず、一目散に出口に走った。
地下書庫の自動ドアを抜け、一階に向かう階段を何段か駆け上がり、一旦立ち止まる。肩で息をしながら振り返ると、自動ドアがゆっくりと閉まっていくのが目に入った。煌々と明かりのついた、静かな地下書庫。いつもと変わらない光景。と、思った瞬間、書庫の中でパタパタッという軽い音がした。子供の走る足音だ。こっちへ近付いてくる。
Tさんはもう振り返らず、一気に階段を駆け上がった。
後日、奇妙な体験について打ち明けると、先輩が教えてくれた。
あれは、「地下書庫のA君」と呼ばれているものらしい。どうやら地下書庫に昔からいるらしく、先輩たちももれなく同じような体験をしているという。本を落としたり、走り回る音をたてたり、棚の向こうから覗いたり、司書を驚かすことが目的のようだ。
「ちょっと脅かしてくるだけで、後は害がないから大丈夫だよ」
先輩はそういったが、やはり気味が悪い。Tさんはしばらく地下書庫で一人きりになるのは避けた。
「なんで子供がいるんでしょうね、大学図書館なのに」
そう呟くTさんは、今でも気味が悪そうだ。
ちなみに、あの時拾ったまま地上に上がった自由帳だが、一階に着いてから改めて見たところ、地下書庫にある専門書に変わっていたという。