第73話 そのメイド、命に代えても
霧深い山道は、まるで世界の端にでも続いているかのように、静かな緊張感を湛えていた。
湿った土と木の匂いが鼻をつき、朝露に濡れた岩肌が足元を不安定にさせる。鳥の声さえ届かぬほどに、空気は張りつめていた。
「……不気味だな」
第一王子であり、指揮を執るアモンが呟くと、隣を歩く兵士たちが無言でうなずいた。 剣の鞘に手を添えるその手にも、目にも、緊張が見え隠れしている。
「歩を止めるな。ここは奴らの得意な地形だ」
アモンの低く鋭い声が、風に乗って列全体に伝わる。
その後ろを、凛とした足取りでついてくる少女がいた。ルーシーだ。
普段はクラシカルなメイド服に身を包んでいる彼女だが、今日は戦場仕様の軽装鎧と動きやすい軍服を纏い、淡い青の髪を風に揺らしている。副官としてアモンのすぐ傍に控え、その横顔には決意が宿っていた。
「……終わったら、話があるんだ」
唐突に告げられたその言葉に、ルーシーは驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
アモンはそれ以上、何も言わなかった。ただ、前を向いたまま口を閉ざす。
言葉の続きは、戦が終わったその先にある。彼はそう信じていた。
そして、ルーシーもまた──静かに頷き、アモンの背を追うように歩を進めた。
遠く、山の奥から風が唸るような音を運んできた。
それは、嵐の前の静けさ。
誰もが胸の内に、熱と覚悟を灯しながら、戦場へと向かっていた。
風の音が一際強くなった、その直後だった。
先行していた斥候部隊から、短く鋭い警笛が鳴る。
「伏兵だ! 前方、崖の陰に敵兵多数!」
兵士の叫びと同時に、木々の影から矢が飛び交った。
待ち伏せていたグラン共和国の兵たちが、奇襲を仕掛けてきたのだ。
「全軍、陣形を維持して迎撃!」
アモンの号令に応じて、王国軍が素早く反応する。
剣を抜き、盾を構える音が次々と響き、兵士たちは整然と戦闘態勢に入った。
しかし、アモンはそれ以上に迅速だった。
その眼に、瞬時に魔力の光が宿る。
「──“赫炎よ、全てを呑め”」
指先が空を裂くように振り下ろされると、轟音と共に炎が放たれた。
燃え上がる紅蓮の爆炎が山道を駆け抜け、伏兵たちを一掃する。
焼け焦げた地面に、驚愕と恐怖の声が残る。
「敵が……敵が撤退していきます!」
背を向けて逃げる敵影を見て、報告に駆け寄った兵士が声を上げる。
だが、アモンの表情は曇っていた。
「……あまりに、あっさりし過ぎている」
その言葉が落ちた瞬間だった。
周囲の地面が低く唸り、次の瞬間、爆発音が辺りに鳴り響いた。
仕込まれていた爆薬魔術が起動したのだ。
地面が揺れ、岩が砕け、土が跳ね、まるで地そのものが怒り狂ったように陥没していく。
「落ちるな! 下がれ、下がれぇッ!」
混乱に包まれる兵たち。
崩れる進軍路、転がる兵士、上がる悲鳴。
ルーシーが即座に指揮を取り、近くの兵士たちを安全な場所へと誘導する。
「こっちよ! 落ち着いて、列を崩さないで!」
その声には、もはや“メイド”としての日常の面影はない。
彼女は今、誰よりも前線に立ち、仲間たちを守る副官だった。
その時だった。
まるで戦場の喧騒を切り裂くように、乾いた拍手の音が響いた。
「お見事。さすが兄様だよ……でも、知ってる? 火は火じゃ消えないんだ」
木々の間から悠然と姿を現したのは、第3王子・カイルだった。
薄ら笑いを浮かべ、炎の立ち昇る崖の上からアモンを見下ろしている。
「カイル……」
アモンの眼に冷たい光が宿る。すぐさま剣を抜き、周囲の兵たちに退避を指示する。
「こいつは俺がやる。誰も手出しするな」
炎と煙の中で、二人の王子が対峙する。
カイルは魔術の構えを取ると、肩をすくめて言った。
「兄様はいつも正しすぎるんだ。……だから僕は、歪んだ方を選んだんだよ」
そして戦いが始まった。
炎の奔流、炸裂する魔法。激しい火花が散り、地面が爆ぜる。
純粋な火力ではアモンが勝っていた──だが、周囲の兵たちを守りながらの戦闘で、彼の魔力の自由度は大きく制限されていた。
対するカイルは、まるで燃え尽きても構わないかのような執念を燃やし、次々と攻撃を繰り出してくる。
執拗な狙い、予測不能な魔法の変化、そして戦場の地形を活かした動き。
「やっぱりさ、僕にはこれしかなかったんだよ」
一瞬の隙を突かれ、アモンは膝をつく。しかしすぐに剣で地を突き、立ち上がる。
そして、呼吸を一つ整え──
「──“赫炎刃・崩天”」
巨大な炎の剣がアモンの手に現れ、一閃。灼熱の刃がカイルを包む。
カイルの体が崩れ落ちる──だが、その口元は皮肉げに歪んでいた。
「やっぱり兄様は強いや……でもね……」
その瞬間、最後の魔法が放たれる。
離れた場所から放たれた矢──それは、魔力によって付与された毒を含むカイル渾身のトラップだった。
アモンの胸に、その矢が突き刺さる。
「僕が消えるなら、兄様も一緒じゃなきゃ意味がないんだ……」
苦笑を浮かべたまま、カイルの瞳から光が失われていく。
アモンはその場に膝をつき、胸に添えた手の下から、淡く黒紫の煙が立ちのぼる──それは、毒の魔法が静かに発動している証だった。
淡く立ちのぼる煙の中に、ひときわ鋭い足音が混ざった。
崩れかけた道を駆け抜けるのは、青い髪の少女──ルーシーだった。
「アモン様!」
彼女は膝をついたアモンのもとへと、迷いなく飛び込むように駆け寄った。
「近づくな、ルーシー……」
掠れる声で、アモンはそれでも彼女を止めようとする。
だがルーシーはその手を取り、強く首を振った。
「逃げないわよ! 私は、幸運の女神なんだから!」
叫ぶようにそう言って、ルーシーは両腕を広げた。
空気が震え、地に流れる魔力の脈動が変化する。
その瞬間、彼女の身体を中心に、幾重にも絡む光の鎖が現れた。
淡く輝くその鎖は、まるで守るようにアモンと彼女自身を包み込んでいく。
──鎖魔法。
かつて「他者を傷つける暴力」と蔑まれ、ルーシー自身を縛り付けていた魔法。
しかし今、その力は確かに誰かを守るために使われていた。
崩れる山道。迫る炎。砕け散る足場。
けれど、光の鎖に包まれた二人の姿は、静かに、そして確かにその場に留まり続けていた。
やがて──轟音と共に岩壁が崩れ落ち、二人の姿は土煙と光の奔流の中に消えていった。
◆
奇襲部隊の野営地、仮設の指揮幕──。
その知らせが届いたとき、私はただ呆然と、手にした紙切れを見つめていた。
“アモン王子殿下および副官ルーシー殿、戦闘中の山道崩落により行方不明。生存の可能性は低いものと見られる。”
視界が揺れて、文字がにじむ。
指の力が抜け、報せの文が床にひらりと舞い落ちた。
「……嘘よ……そんなの、嘘に決まってる……!」
言葉が漏れた瞬間、私は胸を押さえてその場に崩れ落ちていた。
信じたくなかった。いや、信じられるはずがなかった。
「アモン様が……ルーシーが……そんなはず、ないのに……」
私の肩に、誰かの手がそっと添えられる。
振り返ると、ジークだった。
いつも冷静で、どこか距離を保っていた彼が、今だけは同じ痛みを抱えてくれていた。
彼は黙って、そっと目を閉じると、低く呟いた。
「……準備を整えよう。もう、誰にもこれ以上の犠牲は出させない」
その横顔を見て、私は胸の奥にひとつ、火が灯る音を感じた。
失われたものを、無駄にしてはいけない。
数日後、調査に向かっていた兵士が語った。
「……あれは……ルーシー様の魔法だったのかもしれません」
炎に包まれていた崖の一角。
そこに、淡く光を放つ鎖のような魔力の痕跡があったという。
その話を聞いたとき、私は息を呑んだ。
胸の奥で何かが、かすかに鳴った気がした。
もし本当にそうなら、きっと彼女は、アモン様と共に──
確証なんて、どこにもなかった。
でも……それでも私は、信じたいと思った。
あの二人は、生きることを諦めてなんかいなかった、と。
山から吹き抜ける風が、まるで誰かの囁きのように耳をくすぐる。
私はその微かな温もりを、胸の奥にそっと抱きしめた。