第70話 そのメイド、策をめぐらす。
夜明け前の冷え込む空気の中、私は薄明るくなり始めた空を仰いでいた。
焚き火の残り香がかすかに漂い、兵たちの間に静かな緊張が走っている。
「アカーシャ様。偵察兵が戻りました」
兵士の報告に振り返ると、泥にまみれた偵察兵が荒い息をつきながら頷いた。
「前方に……魔力障壁が張られています。視認は困難でしたが、確かに存在します」
「魔力障壁……?」
私は眉をひそめる。
そんなものがあの地形に設置できるとは、想定していなかった。
「自然に溶け込むように配置されていて、魔力感知でも曖昧な反応しか示さなかったそうです」
さらに兵が続けた。
「……結界の中心に、紋章のようなものがありました。かすかに“グラン共和国”の名が」
その言葉に、周囲の空気がぴんと張り詰めた。
私も思わず息をのむ。
「グラン共和国の……」
ジークが静かに立ち上がり、広げられた地図に視線を落とす。
「敵は、我々の奇襲経路を把握していた可能性があるな。行軍の目的地が筒抜けであれば……」
彼の声に、兵たちの表情が硬くなる。
「緊急事態だわ。すぐに障壁の構造を調べて、対処法を見つける必要がある」
私はメモ魔法を発動し、地図上の地形と過去に記録した古代の障壁構造を照合する。
幾つもの文字列と図形が空中に浮かび上がり、そこから規則性を導き出していく。
「……あった。これ……この配置、古代の封印術と一致してるわ」
図面の一部を指差しながら、私は低くつぶやく。
呪文構造の符号、魔力の分散パターン、そして中心核の位置。
まさに、記録の中で見たあの術式と酷似していた。
「ここが鍵かもしれない」
私の言葉に、ジークがそっと微笑んだ。
「やはり君は頼りになるな」
その穏やかな声に、緊張していた私の心がほんの少しだけ、和らいだ気がした。
私は魔法陣の記録をさらに深く読み取り、結界の構造を詳細に解析していく。
“メモ魔法”を展開すると、空中に結界の構成図が淡く浮かび上がった。
「これなら……突破できるかもしれない」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
緊張と興奮がない交ぜになった感情が、胸の内を占めていく。
そのとき、ジークが一歩、私に近づいてきた。
彼の瞳は、曇りなくまっすぐに私を見つめていた。
「君の魔法に、俺の魔力を預ける」
そう言って、彼は私に手を差し出す。
私は少しだけ戸惑いながらも、その手を取った。
すると、ジークはもう一方の手で私の背にそっと触れる。
「迷うな。君の手で開け」
彼の低く静かな声が、胸の奥に染み込んでいく。
私は深く息を吸い、結界解除の詠唱を始めた。
淡い魔力の光が、私とジークを中心にふわりと広がっていく。
その光が互いの魔力に共鳴し合い、まるで心までが重なったような錯覚を覚えた。
風がそっと吹き抜け、私の髪がジークの頬をかすめる。
一瞬、時間が止まったかのようだった。
目と目が合い、言葉よりも深く、確かなものが交わされる。
――信じていい。この人となら。
その瞬間、空中に浮かんでいた結界図にひびが走った。
魔法の構造が崩れ、光が静かに爆ぜる。
そして、朝の陽光が差し込む中、結界は完全に崩壊した。
兵たちが驚きと安堵の息を漏らす。
私はそっとジークの手を離した。
そのぬくもりが、まだ手のひらに残っている気がして、胸がほんの少しだけ騒いだ。
陽が昇りきる前の静かな時間。
川面には金色の光が差し込み、揺れる水面が朝の訪れを告げていた。
私たちの部隊は再編を終え、再び馬を進め始めていた。
馬上で並ぶジークの姿がすぐ隣にあることが、少し不思議で、けれど心強くもあった。
風が頬を撫でる。
掲げられた旗が高らかにはためき、朝靄の向こうに広がる戦地が視界に現れる。
目指す場所は、まだ遠い。
けれど今の私は、一歩ずつ、確かにそこへ向かっている。
隣にいる彼と共に――希望という名の道を進むために。
そしてその時、前方の斥候が急ぎ足で戻ってきた。
「報告! 道の先に……奇妙な構造物が出現しています!」
空気が、ぴんと張り詰めた。
私たちの目指す先に、何が待ち受けているのか。
物語は、再び動き出す。