第68話 そのメイド、信仰の闇に触れる。
朝の空気はひんやりと澄んでいて、吐く息が白く染まる。
木々の間を抜ける風が枝葉を揺らし、どこか静かな調べのように響いていた。
私たちが辿り着いたのは、進軍の途中に立ち寄った小さな村だった。
補給のために一時滞在するだけのつもりだったけれど、村の中心で響いた鐘の音に、私は自然と足を止めた。
「……あれは?」
ジークが視線を向けた先、村の広場に人々が集まり始めていた。
老若男女が手を合わせ、静かに目を閉じている。
やがて、一人の若い女性が前に進み出て、柔らかな声で語り始めた。
「聖女オリヴィア様の言葉に、今日も救いがありますように――」
私は思わず、ジークの隣で息をのんだ。
それは“祈り”だった。
“聖女オリヴィア”の名のもとに唱えられる言葉。感謝と平穏を願う声音。
広場全体が、温かな空気に包まれていく。
けれど――どこか、奇妙な違和感が胸に引っかかる。
「ありがたい言葉ですねぇ」
隣にいた初老の男性が、こちらに微笑みかける。
「この言葉に、私は救われたんですよ。妻を亡くしたときも、息子が病に伏したときも……これを読むだけで、心が落ち着いた」
そう語る彼の笑顔は穏やかだったけれど、その瞳にはどこか焦点が合っていなかった。
私は曖昧に笑い返しながら、胸の奥に広がるざらついた感覚をぬぐえずにいた。
――何かが、おかしい。
風が吹いて、ジークのフードがわずかに揺れた。
その横顔には、静かな決意と緊張が滲んでいる。
戦に向かうという現実を、彼はどれだけ重く受け止めているのだろうか。
その背に寄せられる信頼と責任を思うと、自然と私の背筋も伸びる。
私の中でははっきりとした疑問が生まれていた。
この“聖女の言葉”とやらが、本当に人々のためのものなのか。
そして――それが、どこから来たものなのか。
広場を離れ、村の通りを歩いていたときのことだった。
ひときわ目立つ掲示板に、丁寧な筆致で書かれた紙が何枚も貼られているのが目に入った。
“聖女オリヴィアの教え”――そう題された文書の中に、私は見覚えのある一節を見つけた。
『闇に沈む心に、ひとすじの光を。痛みに伏す者に、静かなる癒しを』
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
あの日の記憶が、まるで昨日のことのように甦った。
――あれは、まだ幼い頃の夜だった。
サクラお母さんの膝に頭を預け、微熱をおぼえていた私に、サクラお母さんはそっと髪を梳きながら語りかけてくれた。
「アカーシャ。人は皆、闇に迷うもの。でも、祈りは心の灯火になるのよ」
そのときのサクラお母さんの指先はあたたかくて、香草の匂いがふわりと鼻先をかすめた。
体の奥の痛みよりも、その優しい囁きの方が、ずっと胸に染みた。
――その言葉は、サクラお母さんのものだった。
私は掲示板に手を添えたまま、震える声で呟いた。
「……どうして、ここに……」
背後から近づいてきたジークが、私の横に立つ。
「何か、見覚えでも?」
私は指先でその一節を指し示しながら、彼に答えた。
「これ……サクラお母さんがよく口にしていた祈りと、同じ……。まるで写し取ったように……」
ジークは一読すると、すぐに眉をひそめた。
「筆跡も語調も、すべてが統一されている。村ごとに少しずつ表現が違ってしかるべきだが、これは……まるで台本のようだ」
「……誰かが意図的に編み直して使っている?」
「可能性は高い」
ジークの答えは、簡潔で冷静だった。
けれどその中に、私を気遣うような柔らかな視線があった。
私はもう一度、その祈りの言葉を見つめた。
サクラお母さんの声と重なって聞こえる優しい響きが、今は別の何かに塗り替えられているようで、胸が痛かった。
「サクラお母さんが遺したものは、こんなふうに使われるべきじゃない……」
声は小さくても、胸の奥で確かに響いた。
それは、私の中で静かに芽生えた、新たな使命の始まりだった。
村を出発するための準備が整い始めていた。
兵たちが荷を積み、馬に水を与えるその傍らで、私はしばらく足を止めていた。
ふと顔を上げると、村の広場で子供たちが笑いながら手を振っていた。
あの祈りを信じ、心から安らぎを得ているのだろう。
その無垢な笑顔に、胸が締めつけられる。
(信じることが、誰かを傷つけることになるなんて……)
私の心の中に生まれた言葉は、静かに、しかし確かに広がっていった。
そのとき、そっと肩にぬくもりが添えられる。
ジークだった。
「君は君の信じる道を選んでいい」
落ち着いた声に、私は思わずジークを見上げる。
真っすぐに向けられたその瞳に、迷いはなかった。
その手の温かさに、一瞬、胸の奥が波立つ。
けれど私は、すぐにその感情を静かに打ち消した。
(……今は戦の途中だから)
私は頷き、小さく、しかし強く言葉を紡いだ。
「サクラお母さんの言葉は、こんなかたちで使われるべきじゃない。私は、それを正しいかたちで伝えたい」
視線の先、まだ朝靄の残る街道が伸びている。
その道の向こうに待つ未来に、私は一歩、踏み出していくのだった。