第67話 そのメイド、幸運を忍ばせる
冬の夜がまだ名残を残す黎明の空の下、私は王宮の中庭に立っていた。
吐く息は白く、胸の奥に冷たい風が吹き込むような心地がする。ひとたび鳴り響いた鐘の音が空気を震わせ、背筋が自然と伸びた。
目の前に並ぶ兵たちの甲冑は朝露をまとい、淡く光を反射していた。これから始まる戦の気配に、誰もが静かに息を潜めている。
回廊に佇む貴族たちの視線も、この場の張りつめた空気をより一層強くする。
そんな中、玉座から王が静かに立ち上がった。その動きひとつで、場の空気が変わるのを肌で感じる。
「――王国軍、出陣を許可する」
王の言葉が、私の胸の奥に重く降りてきた。
ついに、この国は剣を取る。
そして私もまた、その決意の一端を担うのだ。
戦略会議で決定された通り、王国軍は二手に分かれて進軍する。
陽動の主力部隊を率いるのは、第一王子・アモン様。燃えるような魔力を宿したお方で、山道を進み敵軍の注意を引きつける要として先陣を切る。
そして、私の隣に立つのは――ジーク様。静かなる策士と称される第二王子であり、急襲部隊の指揮を執るお方。
私も、彼とともに本隊を迂回し、敵本陣へと切り込む任務に加わることを選んだ。
凍てついた大地の上に立ちながら、私は己の足元を見つめる。
逃げ道は、もうどこにもなかった。
ならば、前に進むしかない。
ジーク様とともに。
母の遺したものを取り戻すために。
そして、私自身の未来を選び取るために。
出陣の準備が整ったあとも、私はしばらく馬の傍で風の音に耳を澄ませていた。
そんな私の背後から、ジーク様の足音が静かに近づいてくる。
「アカーシャ」
その声に振り返ると、彼は真剣な眼差しで私を見つめていた。
「これから向かう任務は、危険を伴う。……戻ってこられる保証は、どこにもない」
淡々とした口調の奥に、私を気遣う揺らぎがあった。
でも、私はただ頷く。
「それでも行くわ。手帳を取り戻すには、私自身が向き合わなきゃいけないから」
一瞬、ジーク様の目が細められ、そして微笑が浮かぶ。
彼はそっと私の手を取り、両手で包み込んだ。
「分かった。君と一緒なら、何が待ち受けていても越えていける」
その言葉に、胸の奥がほんのりと温かくなる。
たとえこれからどんな困難が待っていようとも、隣にこの人がいるのなら、私は歩みを止めない。
* * *
あの朝を迎える前日のこと。夕暮れが夜へと溶けていく静かな時間。翌日の出立を前に、私はひとつだけ、どうしても済ませておきたいことがあった。
私は足早に王宮の回廊を歩いた。向かった先は、ルーシーの部屋だった。
支度を整えていた彼女は、驚いたように目を見開き、それから少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「どうしたの? こんな時間に」
「渡したいものがあるの」
私はそっと、小さな布包みを彼女の手に握らせる。
ほんのひと握りほどの重さ。けれど、そこに込めた想いは、決して軽いものではなかった。
「もしもの時のために。これは……私の“幸運”よ」
ルーシーは戸惑いながら包みを見つめ、そして、顔を上げる。
「これって……貴女の、大事なものじゃ……?」
「いいの。貴女が持っていて」
「でも……」
「私はね、大事な友達にこそ有効活用してほしいの」
その言葉に、ルーシーの瞳がわずかに揺れた。
けれどすぐに、彼女は真っ直ぐに私を見つめ、小さく頷く。
「……ありがとう。必ず、役に立てるわ」
その声に、嘘はなかった。
彼女がどれだけの覚悟を持ってこの戦に向かっているのかを、私は知っている。
そして私もまた、この手で選んだ未来を、信じて進むと決めたのだった。
(アカーシャがくれた“幸運”──きっと、無駄にはしない)
ルーシーはそう心の中で呟きながら、包みをそっと胸元にしまった。
その中に何が入っているのか、誰も知らない。
ただ、淡い金属の冷たさと、指先に伝わるわずかな魔力の気配が、それが“ただの贈り物”ではないことを物語っていた。
* * *
黎明の空の下、私は中庭の一角から、そっと彼らを見送っていた。
王都を発つ刻限が迫り、城門の前にはすでに出発の準備を終えた兵たちが整列している。吐く息は白く、空はまだ夜の名残をとどめている。
アモン殿下は馬上からルーシーに目を向け、短く問いかけた。
「……覚悟はできているのか?」
「もちろんです、殿下。あの日、お願いしたときからずっと」
それ以上、言葉はなかったけれど、ふたりの間に流れる空気はどこまでも静かで、そしてどこか温かかった。
並んで馬を進めるふたりの背中を、私はただ黙って見つめていた。風が、掲げられた旗を揺らし、まだ明けきらぬ空を裂くようにはためく。
ルーシーの胸元に抱かれている、小さな布包み。
私が渡した“幸運”が、確かにそこにある。
それが何であるかを、誰も知らない。
けれど、それが命運を分けることになる──そう信じずにはいられなかった。
アモン殿下とルーシーが率いる陽動部隊は、やがて静かに城門をくぐり、まだ霞の残る街道を北東へと進んでいった。
蹄の音が遠ざかっていくにつれ、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われる。
(どうか……あのお守りが、彼らの命を守ってくれますように)
私は目を閉じ、そっと祈る。
願いという名の小さな灯火が、彼らの道を照らし続けてくれることを、ただ信じて。
そして今度は、私たちの番だった。
陽動部隊が予定通り進軍を開始したという報せが届いたのは、それからほどなくしてのことだった。
空はすでに明け始め、白んだ光が中庭をやわらかく包んでいた。
私とジーク様は、静かに並んで馬にまたがっていた。
風が髪を揺らすたび、胸の奥がざわめく。それでも私は、彼の隣にいるという事実だけを心の支えにしていた。
「絶対に、取り戻すの。お母さんの遺したものも、私たちの未来も」
声に出すと、不思議なほど気持ちが澄んでいった。
ジーク様は私の言葉に頷き、静かに微笑む。
「ああ。君が隣にいてくれる限り、恐れるものは何もない」
彼の声はあたたかく、そして揺るがない力強さを帯びていた。私は彼の言葉を胸に刻み、手綱を握り直す。
ジーク隊は音もなく動き出す。
王都の喧騒が遠ざかり、私たちは静かに、けれど確かな決意を持って平原を進んでいく。
陽動部隊が囮となって敵の目を引いている今、私たち急襲部隊の任務は確実に敵本陣へ辿り着くこと。
母が遺した大切な手帳を、そして、この国の未来を取り戻すために。
朝の光の中を、私たちは静かに駆け出した。





