第66話 そのメイド、戦の幕を引く
~これまでのあらすじ~
かつて孤児だったアカーシャは、努力の末に王宮でメイドとして働くまでになった。
そしてアカーシャの母親を死に追いやった貴族令嬢・オリヴィアの存在までいきつく。
オリヴィアは“聖女”と讃えられ民に人気だが、その裏で王国を陥れる陰謀を巡らせていた。
そんな中、王と第二王子アモンが謎の毒に倒れ、王宮が混乱に包まれる。
アカーシャは第二王子ジークと協力し、解毒魔法を成功させ、ついに王とアモン殿下を目覚めさせることに成功する。
朝の光が差し込む謁見の間には、静かな安堵と歓喜の空気が満ちていた。
玉座の前、陛下がゆっくりと歩を進める姿に、その場にいた者たちは目を見開き、息を呑んだ。
隣にはアモン殿下の姿もある。奇跡の回復──その奇跡を起こしたのは、ほかでもないジークと私だった。
私はジークの隣に立ち、ただ静かに頭を垂れる。
「……アカーシャ殿。この命、そしてこの国を救ってくれた恩は、必ず国として返さねばなるまい」
陛下の言葉に、私は慌てて首を横に振った。
「そんな、お気になさらず……私など、ほんの手伝いをしただけで……」
「謙遜は美徳だがな。ジークの隣に立つ者として、そなたはすでにこの国の希望だ」
陛下のまっすぐな眼差しに、思わず胸が熱くなる。
そのとき、そっと私の髪に指が触れた。
「君は……僕の誇りだよ」
小さく囁いたジークの声は、控えめながらもどこか熱を帯びていた。
私はその言葉の重みを胸いっぱいに感じながら、彼の横顔を見上げる。
「……そんなふうに言われると、ちょっと照れるわね」
私は思わず視線を逸らしたけれど、それでも自然と笑みがこぼれてしまう。
ほんのりと頬が熱を帯びるのを感じながら、胸の奥にはじんわりとした幸福が広がっていく。
ジークの言葉が、私の中で確かな希望に変わっていくのを感じていた。
そして間を置かずに、王宮では要人たちを集めた戦略会議が開かれた。
「今回の襲撃と毒の一件……背景に、グラン共和国と第三王妃派の影が見える。もはや、穏便に済ませる段階ではあるまい」
王の低く響く声に、謁見の間は一瞬にして緊張に包まれた。
重々しい沈黙が空気を支配するなか、私は自然と息を飲む。あれほど優しく微笑んでいた陛下の顔には、今や一国の王としての威厳と決意が宿っていた。
その場で、ジークが一歩、前へと進み出た。
「ジーク。そなたには、調査および外交交渉を名目とした偵察部隊を率いてもらう。敵地との接触が予想されるが、そなたならば任せられる」
「承知しました、父上」
ジークの答えは簡潔だったが、その声には曇りがなく、場にいたすべての者に安心と信頼を与えた。
その背中があまりに頼もしくて、私は思わず心のなかで祈った──どうか、無事に帰ってきて、と。
会議が散会し、廊下でノエル殿下に近づいたのは、ルーシーだった。
彼女は控えめながらもしっかりと目を見据えて頭を下げる。
「お願いです、殿下。私をお供につけてください。お守りとしてでも構いません」
ノエルは一瞬、驚いたように目を瞬かせたが、すぐに口元を緩めて頷いた。
「……分かった。決して無理はするな」
王都から北東へ進軍するノエルの部隊は、陽動の役割を担う最前線の要として位置づけられていた。
冷静沈着な彼のもとには、屈強な兵たちが集められており、王の信頼も絶大だった。
ルーシーは名目上は侍女という立場だが、彼の側にいるための決意は本物だ。
彼が危険の只中に身を置くことを理解したうえで、それでも「傍にいたい」と願う彼女の覚悟が、静かに伝わってくるようだった。
その静けさの中、ジークが王の前へと進み出ると、ひときわ重く、深い声で報告を始めた。
「陛下。オリヴィアが“聖女の手帳”を持って、逃亡したという確証が得られました」
その一言が落ちた瞬間、室内の空気がまた一段と冷たく引き締まった。
わずかに動いた空気さえ、凍てつくような静寂に飲み込まれていく。
「手帳……まさか、あの……」
アモン殿下が眉を寄せ、低く唸るような声をもらす。
私は唇をきつく噛みしめながら、胸の奥がざわついていくのを感じた。
「はい。アカーシャの母君が遺したものです。彼女は日本という異国の地から転生してきた存在で、その記憶をもとに、前世の知識を記録していました」
ジークの落ち着いた声が、慎重に、けれどはっきりと響く。
私はその説明を聞きながら、記憶の奥にあるサクラお母さんの姿を思い浮かべていた。
いつも静かに微笑みながら、何かを書き記していたあの横顔──それが、ただの母娘の記憶ではなく、この国の未来にまで繋がっていたのだと、改めて思い知らされた。
手帳には、魔力の理論や高度な医療技術、国家運営の構造、貴族社会に通じる礼法。
それだけではない。前世の文化、音楽、文学、娯楽、食文化までもが詰め込まれていた。
まさに知識の宝庫。未来への贈り物とも呼べるそれを、母は一人、誰にも誇ることなく書き綴っていたのだ。
「それが……敵国の手に渡った可能性が高いのか?」
王が低く問う。
その声には怒りよりもむしろ、憂慮と警戒が滲んでいた。
ジークは頷きながら、資料の束のひとつを掲げてみせた。
「はい。我々の情報網がとらえた証言によれば、オリヴィアは“神の言葉を記す聖なる手帳”を持つ存在として、隣国の宮廷に迎え入れられたようです」
「……それは、あまりに危険だな」
アモン殿下が眉をひそめる。
「手帳に記された母君の知識は、確かに文明を数歩進める力を持っています。ですがそれが、偽りの神託として利用されるのならば、民の心も、戦局さえも操られてしまうかもしれません」
私はその場に立ったまま、拳をぎゅっと握りしめた。
爪が手のひらに食い込む感覚も気にならないほど、胸の中はぐるぐると複雑な想いでかき乱されていた。
「サクラお母さんが、未来に託した知識なのに……」
その呟きは誰に向けたものでもなかった。
けれど確かに、あの手帳は母の人生そのものだった。
誰かの偽りの栄光のために使われるなんて、絶対に許せなかった。
そのときだった。
隣にいたジークが、そっと私の肩に手を添えた。
その手はあたたかくて、強くて、揺るぎなかった。
「君のお母さんの遺志を、誰かの嘘に利用させない。……僕たちで、守ろう」
低く静かなその声に、私は胸を打たれる。
ジークの瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。優しさと、決意と、揺るがない強さが、すべてその眼差しに込められていた。
私はゆっくりと顔を上げて、彼の瞳をしっかりと見返した。
もう、迷わない。
「……うん。私も、守りたい」
母が遺した知識も、想いも、未来も。
絶対に無駄にはしない。
今度こそ、守り抜いてみせる。
ジークと、共に。
それが、私の誓いだった。