第59話 そのメイド、炎に巻かれる。
放たれたランプの火は、隠されていた小部屋の壁や床へと次々と燃え広がっていく。
全てを飲み込むような紅蓮の炎を背に、ネビーさんは凶器を手に無表情で私に迫りくる。
「や、やめてネビーさん……」
「…………」
「――っ!」
私の声には一切動じず、普段のオドオドとしている様子は微塵も感じられない。それどころか、右手に持った鋭利なナイフを私に向けて振り下ろしてきた。
間一髪のところで反射的に避けたものの、その一閃に躊躇は皆無。やはりオリヴィアの得体の知れない魔法に操られてしまっているようだ。
焦りと暑さによる汗が頬を伝い、照り付ける炎の熱ですぐに乾いていく。このままでは私もネビーさんも、このグリフィス家の屋敷で心中することになってしまう。どうにかこの状況を打開しなくっちゃ。
「――シッ!」
「きゃっ!?」
とはいえ、私には武術の心得なんてものはない。
二撃目の突きをギリギリのところで躱したものの、私は床に転がっていた何かに足を取られて転んでしまった。
「痛たたたっ」
「……」
「ひっ……!」
私は眼前に迫る凶器に悲鳴を上げた。
ネビーさんは倒れた私に馬乗りになると、容赦なくナイフを突き立てようとしてくる。私は慌てて彼女の腕を掴んで耐えるも、体勢はこちらが圧倒的に不利。このままでは押し負けてしまいそう。
「ちょっとネビーさん! いい加減に正気に戻ってよっ!」
「……っ!」
申し訳なく思いつつも、私は今しがた自分が転ぶ原因となった金属製の置物を片手で掴み、ネビーさんの側頭部に思いっきり殴りつけた。
さすがに操られていても体は元の華奢なネビーさんのままだったおかげか、彼女はあっさりと意識を手放し、そのまま私の上に覆いかぶさるように崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……うえっ、趣味悪っ!」
手にしていたのは、どうやら現当主の侯爵を模した人物像だったみたい。呼吸を荒げながらそれを床に投げ捨てると、私は急いで起き上がった。そして入り口のドアに手を掛けた瞬間、途方に暮れてしまった。
「しまった、塞がれてる……!」
容赦のないオリヴィアに向けて、思わず舌打ちしそうになる。
振り返れば、すでに部屋の天井まで火が回ろうとしているのが視界に入った。あと数分もしないうちに、この部屋は煙で満たされてしまうだろう。なんだか息も苦しくなってきた。
「ゴホッゴホッ……こんなところで死ぬなんて……」
目の前に迫る死の気配に、思わず涙があふれそうになる。
復讐のために生き、大切な家族や帰る家も無い私にとって“死”そのものは怖くない。……そのはずだった。
だけど私の人生はこの王都に来て変わった。変わってしまった。
「ジーク……」
軟らかな癖のある銀髪の騎士が見せてくれる笑顔が、脳裏にふと浮かぶ。それだけで心が不安定に揺れる。なのに不快じゃない、むしろ逆という不思議な感覚。サクラお母さんに対する愛情とはとはまた違う、初めての感情。
「(きっと、これが好きってことなのね)」
こんな状況なのに、私はまだ死にたくないと思ってしまう。
――生きたい。生き延びて、彼にもう一度会いたい。
「(……そうだ! サクラお母さんなら、こういう時どうやって切り抜けるんだろう?)」
聖女だったサクラお母さんが遺した手帳はオリヴィアに奪われてしまった。
だけど自分のメモ魔法であの手帳に書かれていたことは、ちゃんと頭の中に記憶している。私は必死でサクラお母さんの知恵を借りて、最後まで足掻くことにした。
「ハンカチを口に当てて……なるべく姿勢を低くして……」
まずは煙を吸わないよう、口元をハンカチで覆う。
それから気絶したままのネビーさんを引き摺りながら、部屋に別の入り口がないかを探しまわる。
しかし元々奥様の魔法で無理矢理作られた隠し部屋だったせいか、他に出入りできそうな場所はなさそうだ。
「はぁ……はぁ……ごめん、ジーク。ここまでみたい……」
やがて体力の限界を迎えた私は、ネビーさんを床に横たわせると、その場に力無く座り込んだ。すると火は瞬く間に勢いを増し、私のいる場所にまで迫ってきた。
「熱い……」
私は咄嵯に手で顔を庇ったが、あまりの熱さに諦めて目を瞑った。
――結局、何もかも中途半端で終わってしまった。
「(せめて最後に、もう一度だけ会っておきたかったな……)」
私は覚悟を決めて、最期のその時を待とうとした。
だけどいくら経ってもその瞬間がやってくることはなく、代わりに私の身体を冷たい何かが包み込むのを感じた。
「――アカーシャッ!」
「えっ……」
聞き覚えのある声に目を開けると、そこには私を力強く抱きしめているジークの姿があった。