校舎は胃袋の中に
「なんなのもう……! なにがなんだかわかんないよぅ……! もう嫌だ……帰りたい……!」
何が現実で何が夢なのかもう分からない。何が悲しいのか分からないまま涙が出てきた。
こんなはずじゃなかった。今が本当に5時なら、今頃みんなで片付けをして打ち上げどうするかを相談しながらおしゃべりしているはずだったのに。
雛衣は涙で濡れた頬のまま、あのヘルメットのシールドに似た色に輝く道を眺めた。正直、こんな不気味な事故現場など早くさよならして家に帰りたいのはやまやまだが、雛衣には最後にひとつだけ気がかりなことがあった。
「愛美…………」
雛衣の心に残っているのは、ただ『このままじゃ帰れない』という強い未練だけ。恐怖より強いその未練を抱えたまま、光る道を帰ることも闇の中へ進むことも出来ず、丸い輪になった噴水のへりにすわりこんでしばらくそうしていた。
ああ、昔から難しい問題は苦手だ。この世界でいちばん難しい問題は《問題を考えること》そのものだ。なぜこうなったのか、どこがいけなかったのか、このめちゃくちゃな現実を突きつけられながら全ての感情を押さえつけて冷静に考えろなんて、無理だ。
「…………あの隊員さん、戻ってくるかな……」
あたりはしんと静まり返っており救助隊らしき人の気配など微塵もない。
「だいたいさぁー、道だけ残してひとりで置いてくとかある? ………てゆーかそもそもこの光なにでできてんの?」
雛衣はふと、この光る道が気になった。
噴水の周りの床は一帯に人工芝が敷いてある。生徒が噴水でちょっといたずらをした程度では上靴が濡れないように、実際の床よりも数センチ高くなっているはず。
その上にこんな感じの光る板を置いたとしたら人が乗ると人工芝が中途半端に潰れるような不安定な感触になるはず。
しかしこの板は大理石みたいにしっかりと安定して硬い床の感触があった。雛衣は両膝をへりにあげて座り直し、身をかがめて光る道に触ってみた。
「よいしょ……と……」
雛衣の瞳や頬や顎のしたに青いライトが当たる。そのライト床を手探りで触る。やはり冷たくて硬い、ガラスのような緻密でツルツルした材質に感じる。
小さくて細い雛衣の指が光る道の端に触れた。爪にちくと感じる人工芝の感触。
「やっぱり上に敷いてる……けどなんか、薄くない?この板みたいなの……」
ベリベリッ!
「あ、あれ……?」
床から板を剥がした瞬間、光が一瞬乱れたのは見えた。
電気回路のような紋様が敷板全体(しかも道の向こうの方まで)に電流のように走り明滅し、テレビの液晶が壊れた時のような不穏な滲みの波紋が、板と板が切れたところに波紋のように広がった。
そして雛衣の手の中には、剥がした光る板がくるんと丸まって収まっていた。
「やばっ! 壊したかも!」
雛衣は焦って手の中の筒になったライトを確かめた。そんなに力は入れてなかったし、板と板が切れる時も、磁石でくっついてたもの同士が取れる時のように割とすんなり外れたはずだ。
丸まった手の中のライトの切れ口を、サランラップの継ぎ目を探すように手さぐりで探す。
しかしどんなに転がして爪を立てて探しても一向に見つからない。元々細いガラスっぽい材質の筒だったとでもいうように継ぎ目のないフォルムになってしまっている。
「え?あれ?板に戻らな………ぅわ眩しッ」
横から筒を見てあまりの眩しさに目がくらむ。目をつぶると、太陽を直視したときのような光の焼け跡が瞼の裏に浮いていて、その強すぎる光の刺激が消えるまで目をつぶらざるを得ないほど焼き付いている。
目をしばたかせながらまた開ける。筒から出るライトを向けた先がぼうっと白く明るい。スマホのライトくらいの光量は優にある。
「……………………???」
雛衣は改めて筒の側面を見る。筒の太さと長さは、リレーのバトンくらいの長さか。触っていてひとつ分かったのは、光の強さは手の接してる面積が大きいほど強くなるらしいことだ。(充電が体温に連携してるのだろうか?
光は両側から出ているが、下の方を持つと下側から出ている光が暗くなり、代わりに上から出ている光が増す。懐中電灯として悪くない使い心地だ。
「すごいライトだ!体温で変わるのめっちゃすごい! 技術進んでるわ……!」
雛衣は初めて見る革新的グッズに目を見張った。それからハッとして自分の上靴を照らしてみる。
「…………ぁ……!」
赤茶色の絵の具を溶かしたようなしみが、白い上靴のゴム部分に付着している。寒気がしたが、血だと断定するのは早いと気を取り直し、立ち上がる。
それから生唾を飲んでちいさく深呼吸してからよしと気合いをいれ、おそるおそる、闇の中をライトで照らした。
「…………………………」
照らしてみて最初に見えたのは噴水広場の四方にある大きな柱のうちの一本だった。『welcome』と書かれた横断幕が無惨にちぎれてぶら下がっていた。
柱の隣は、薄いモヤのような煙が漂っていて分からない。雛衣はふと、どこかが火事なんじゃないかと思い至った。しかし焦げた匂いのようなのも感じられないが……。
「………やだな……霧の中……」
とりあえず、光る道を通り、あの煙の正体を見極めたい。あと外の様子も気になった。
聞こえる音といえば、雛衣の上靴の弱々しい足音と、あとは背後にある壊れた噴水から聞こえるちょろちょろと弱々しくながれる水の音だけ。
それも、霧の膜のすぐそばまで近寄る頃には雛衣のところまで聞こえなくなっていた。
「この煙? 霧?のせいでこんなに暗いのかな……」
光る道は霧の奥まで続いているようだ。すぐそばまで来ても何かが燃えているような匂いなどはない。そして相変わらずこの光る道筋以外の光は見当たらない。
「……ふーー……」
霧の壁に向かって息を吹いて飛ばしてみる。霧は雛衣のふく分だけ散ってきえるが、すぐに霧の中から打ち返すような波が帰ってきてもとの壁に戻ってしまう。
次に、そっと指で霧を引っ掻いてみる。
「……! つめたい、この霧……!」
驚いて手を引っ込めた。こんな桜も咲いたあとの3月に、吐く息も凍るような氷の霧は出来ないはず。雛衣は恐れながらもそうっと足を踏み入れた。
「えっ寒っ……! 超さっむい……んだけど……」
思わず身震いした。袖の中まで冷たさが入ってくるみたいだ。
それに本当に暗くて、ひかる床にできる足元の影以外何も見えない。雛衣は恐る恐る、できるだけ音を立てずに歩いた。こんな霧じゃ誰かとすれ違っても分からない。
……もしこの霧の闇の中で、あの愛美に会ったらどうしよう。
愛美の真っ暗な目の周りの真ん中の、赤い血走ったひとみ。まるで目が裂けて巨大な目玉で見つめられているみたいな、化け物じみた目。真っ白く変色した肌。
口の中から赤い管を吐いて、突然雛衣を突き刺してきたらと思うと……!
「やめよやめよ……! 怖くない怖くない!」
雛衣は怖くなり、頭を振って考えを振り払った。そしてふと目の前を見上げると、霧の中から誰かがこちらを見ていた。
「ひッ!??」
心臓が握られたかと思った。まっくらい顔は雛衣の方を見て笑っている。よく見ると、玄関の下駄箱に貼ってある防火ポスターだ。
「……あ、なんだ写真か……」
ほっとした。心臓がどこどこ肋骨を叩いて、まだ怖い。真夜中にみるアイドルの顔がこんなに怖いなんて……。と思って、暗い笑顔の写真を眺めている雛衣の後ろを、大きな影が音もなく横切った。
「!?」
急いで振り向いて霧を照らす。僅かな霧の揺らぎが残っている。音はしなかったが、滑るような影が今通った……! 三つ編みした髪が冷たい空気の乱れを感じた。
雛衣は通り過ぎて行った影の方を探した。雛衣の混乱する眼球と同じように、ライトも揺れながら動いた。
背後には、僅かな気流の乱れが残るのみであとは何も変なところがないのが逆に不気味だった。
「幽霊とかいないよね……?」
霧も全部霊障なんじゃないかとさえ思えてくる。本当のあたしは今死にかけてて、ここは学校に擬態している三途の川なんじゃないか、と。
「も〜やだ〜……! ほんとにあの世ならさー幽霊出すより死んだ家族が手振ってる〜とかにしてよー!」
半泣きの震え声で意味の無い文句を言う。もう怖いし、なんかこのまま避難してもいい気もする。校舎から出れば霧の正体も愛美の行方も何か分かるだろう。
とにかく怖くてたまらない。安全なところに行って安心したい。うちに、帰りたい。
雛衣はバリアフリーの玄関を足早にあるく。光る道のまわりは青いライトで見づらいが、やはりいつもの校舎だ。靴箱のポスターと床の切り替わりとの位置関係が雛衣の記憶ぴったりすぎて、どんどんこの不気味な校舎が現実味を帯びてくるばかりだ。
「玄関あとちょい……!」
青い道の上をあるく。そして外向きに開いているはずの扉にきて、雛衣はもうあと一歩で出られるというところで、足を止めた。
「…………なに、これ? 赤い網?」
ガラス窓の玄関扉と、その周りにあるガラス窓全部に、赤い網のようなものが巻いてある。
真っ赤な網が血管のように、何重にも折り重なっている。
何度たどっても、網は外の見える窓ガラスだけを覆っているのだ。
まるで、窓ガラスを全部取り外し、赤い網を窓ガラスが見えなくなるほど何重にも巻きそれからまた取り付け直したかのように、網がびっしり覆っていて、外からの光を遮断している。網を切り裂くしか玄関扉に触れる手段はない。
「……で、この真ん中の青いドアは何……?」
あの黒コートの隊員さんの示した光の道は玄関までで途切れていた。
そして、同じ光る板のようなもので出来た両開きの青く光るドアが、赤い網で包まれた閉じた玄関扉の間に割り込むようにつけられていた。
「………………夢よね?これ」
理解を放棄したようにぼやく。赤い網の窓ガラスも変だが、この青い扉がいちばん変だった。
閉まった玄関扉の間にある、ということは、校舎の玄関がこの扉のぶん横にひろくなっている、ということである。つまり、空間が歪んでいる。ありえない話だ。
「うん、夢だ。こんなもん夢! じゃなきゃ魔法とでもゆーんですか? だっておかしいもん!何この光る扉!蛍光ブルーのどこでもドアじゃんこんなもん! あたしの発想って貧困?それとも疲れてるのかな!? きっと本当のあたしは、なんかしら事故ってアタマ打って寝てて、これはその悪夢なんでしょ。そうに違いない。これ開けたら夢から覚める!これ開けたら起きる! よし、大きい声出しながら開けよう! すー……悪夢のあほー!」
「いっちゃうの?」
雛衣は手を止めた。扉は薄く開いていて、外から細い明るい光が指していた。きっとこの光を浴びたら夢から覚めるだろう。それをわかっていても雛衣は手を止めた。なぜなら、すぐそばで雛衣を呼ぶ声は、愛美の声をしていたから。
「たすけて、ひな」
網の中から声が聞こえた。玄関を覆う赤い網の中に、愛美くらいの背の高さの影が見えた。
ポニーテールの黒髪、紫のリボン、同じ南宇治上の制服、いつもの彼女のつやつやした肌。間違いなく、救いを求める友達の声だった。雛衣は扉から手を離した。
青い扉は音もなく閉まる。そして相変わらず綺麗で澄んだ、青空色の光を発して佇んでいた。
「愛美!」
網に手を差し伸べる。愛美の影は散るように消えた。雛衣は網に手を触れる前に止めた。
──勘だった。赤い網からすごく嫌な気配が漂っている。肝臓が縮みあがるというか、体幹が収縮して手足の感覚が研ぎ澄まされるような勘が働く。雛衣は右手を網の上にかざしたまま、かざされた右手の真下にある網を左手に握った筒のライトで照らした。
「……………………………………」
赤い網から、ごくごく細い針のような繊維がうぞうぞと立ち上がっている。蚊の針のように細かいまだら模様の針が、磁力に浮く砂鉄のように雛衣の手のひらに向かって無数に突き出されている。雛衣はそれを間近で観察する。そうっと右手を動かすと、針はやはり雛衣の手のひらに引っ張られるように動く。
それは無機物の動きと言うより、生き物が獲物を襲おうとするような獰猛で飢えた浅ましい動きに見えて、雛衣の全身に嫌な汗が湧いた。この赤い網が急に、無数の蟲の大軍でできているように見えてきて、胃の奥に吐き気を感じる。
(さわっちゃダメだ)
虫みたいに小さな無数の飢えた人間が、この網の中から顔を出して雛衣の血肉を求めているような、そんなおぞましい殺意がこの網に篭っている。
(赤い脈打つようなもの…… まるで、愛美から出ていたあれとおなじ……)
愛美があの時吐いていたものは、グロテスクで不可解で、しかしハッキリと愛美自身の意志を感じるものだった。
愛美も自我を失ったとは思えない強い感情の篭もった瞳をしていて、あの赤い管をその憎悪の為に受け入れているようにさえ見えた。
「……何があったの愛美。あんなに怒ってる愛美、あたし見た事なかったよ。愛美は、心が苦しいの苦手だもんね。行き場のない強い怒りとか、ただ苦しくて痛くて重いだけでどこにもやれなくてさ……。あたしもそうだから、分かるよ。」
雛衣は網の上を照らした。
(……この網をたどったら、愛美に会えるかな?)
これは直感だが、愛美はまだこの校舎の中にいる。感覚だけは動物並に鋭いのが雛衣だ。憎悪の籠った赤い網の道筋を辿る雛衣の脳裏に、黒いヘルメットの男の声が反響する。
『───これを辿れば外に出られる。決して他の場所に足を踏み入れるな。まっすぐ進め──』
「……ごめん隊員さん。でも愛美に呼ばれたから、あたし行かないと。」
雛衣は、青空のような薄青の光の道から、何も見えない真っ暗な闇の霧の中へと踏み出していった。