フィジカルつよつよでも脊髄損傷はなおせない
雛衣は、深い湖の中でバラバラになったような手足の夢を見ていた。全身に拷問のように走っている痛みが、この悪夢が夢じゃないことを雛衣に物語ってくる。耳も目も氷で凍ってもう使えなくて、血も全部なくなったので身体が動かせない、と雛衣は朧気に感じていた。
(ゆめじゃない しぬんだ あたし)
水の中にボウフラのような幻覚が見えた。雛衣のバラバラにされた身体のちぎれた傷跡から、この糸くずのようないきものが湧いて身体を分解していって、やがて雛衣は雛衣じゃなくなるんだろうと思った。
「……………………………………………………………………………………………………………」
潰れて死んだ羽虫のように水の中をただよいながら、死という底無しの排水溝に吸い込まれていくのを、雛衣は感覚で感じていた。
「────、────」
誰かの話し声が聞こえる。幻聴かと思ったが、何度か続く声。雛衣のバラバラになった体がだんだんとひとつに戻ってくる。
切れて付かなくなったテレビのようだった視界が、ぼんやりと見えてきた気がする。相変わらずピントはぼやけていて、目と鼻がカルキ臭い感じがする。目が臭いなんて変な感じだが、逆さまにしずんだ雛衣の鼻から目の真ん中にあるところまで水でいっぱいだと、目まで匂いを感じるらしい。
「……………………?」
声は近づいてくる。ぼんやりした視界では下のほうが真っ暗になって見えるだけだ。自分の鼻が勝手に水を吸っているのに気づいて、雛衣はようやく意識を取り戻した。
「ゴボッ………………!!!」
水面はどこだ?と、 真上に手をやろうとして、氷のように冷たい壁にぶつかる。全身がかじかんで上手く動かない。苦しいのに上が塞がってて上がれない。
雛衣はパニックになった。硬い足音のような音と僅かな声に必死に訴えるように、雛衣を塞いでいる壁を叩きながら叫んだ。
(たすけて! だれかたすけて!!)
無我夢中で暴れてどうにか自分の居場所を知らせたいのに、体温が水温に同化しているように冷たくて動かない。指が凍って天井の壁にくっついたみたいに剥がせない。
(だれか!!! だれか────!!!)
突然、ぐんっと何かに掴まれて水底の奥へと引っ張られたかと思うと、ザバーッ!と身体が水から引っ張りあげられて打ち上げられた。
「……………ッぐ……!! ごほっ…………!」
雛衣の喉は突然陸に上がって水を吐き続けた。
いきなり水面に出てきたから身体が混乱して、雛衣は紫に凍えた手で温かい石の上に這いつくばってしがみつく。
「げッ………ぐ、げほっ……!!」
咳をしているはずなのに、雛衣の肺から出てくるのは水ばかりだ。そのうつ伏せの背中に、どんと何か乗せられた。
その瞬間、摩訶不思議な感覚が雛衣を襲った。肋骨の奥が熱くなったような感じがしたのはわかった。
かと思うと、手足は確かに石にしがみついているのにまるで肺だけ持ち上げて逆さまにしたみたいに、口からびゅーーっと水が抜けてったのである。
「ッぶほぉあッ!!!」
「名前は」
「ごほっごほっ……! げほ、ごほ……!!」
雛衣は咳き込む。陸で溺れる苦しみからは抜け出せたが、真上からなにか言われてもそれを雛衣が意味のあるものとして把握することは不可能だった。目もよく見えない。水を吸って腫れ上がってしまっているのだ。
「……う???? え……………??」
「動くな」
雛衣の目の当たりを、温かい何かが包む。またしても流れ込んでくる摩訶不思議な熱。
押し当てられた37℃くらいの温かいものは、凄まじく吸水するスポンジのように雛衣の腫れた目の水分を奪っていった。急に光刺激が飛び込んできて目がチカチカする。
生まれたての子鹿のような紫の自分の冷たい右手が最初に見えて、雛衣は目を見張った。
「名前は」
「へ……???」
雛衣は目を頑張って動かして周りを見た。首がものすごく重くて全然動かない。雛衣はチカチカする視界で自分の指が五本あるのを何度も数えた。
「…………………………??」
「聞こえているか?」
はじめて意味のある言葉を雛衣の耳が捉える。雛衣はせまい視界を見つめることしか出来ない。と、突然黒い手がさしのべられた。
「見えるか?俺の手が見えたらゆっくり一つ瞬きを」
「………………………………」
低い声がそう告げる。雛衣はゆっくり一回瞬きした。
「名前を言えるか」
「早……見……ひなぎ、ぬ」
雛衣は、ぬの所だけ少し区切って伝えた。最悪にカスカスの声だったが、どうにか7文字全部発音し終えることが出来た。
電話などではしょっちゅう《雛菊》と間違えられる雛衣だ。限界の思考回路でもそこだけはきっちり言えた。
「早見雛衣か」
「…………………」
雛衣はまたゆっくり一つまばたきした。ばらばらに分散して使いものにならない感覚を全部瞼に集中させて、心の底から頷いた。こんな状況でも頑張って丁寧に伝えれば、どうにか伝わるものだ。
雛衣は自分の名前を喋っただけでくたびれ果ててしまい、噴水のへりと思われる場所にぐったりと伸びた。彼の顔を見上げるほどの体力は雛衣にはもうない。
水から上がってようやくわかってきたが、腰から下の感覚がない。濡れている感覚すらないのだ。凄まじい腰あたりの激痛に邪魔されて、下半身の感覚がまるっきり途絶えている。雛衣の痛み以外何も考えられない脳の上で、男の声が意味の分からない言葉を小声で口にしている。
「……せきずいのおおきなそんしょうあり────しゅっけつがひどく──ていたいおんしょうを──ょうてにけいれんあり──」
「…………………………………………」
なにか喋っているが、文字がぼやけたようによく聞こえない。話しかけているようではない彼の独り言は、どんどん分からない言葉へと変わっていく。
「……あらない──……しすてね……」
「…………………………………………」
とにかく雛衣は、聴覚情報を処理するだけの余力もなく、もうすぐ死ぬ魚のように噴水のへりに打ち上げられているだけだった。ところが。
「……|水底から最果ての地へ歩く《グリヒスティーソロイシア》……|その傷に充てる九つの糸……」
「……!!」
まず、耳が突然よく聞こえるようになった。耳の中の水が落ちた時のようなボワンという音とともに耳の奥がほかほかするような感触。
それから、手の骨の真ん中あたりがじんわりあったかくなって紫だった肌色があっという間に赤色をとりもどし、もとの肌色に戻っていく。
「…………!!」
雛衣は自分の目の前の手を握っては開いて感触を確かめた。そしてぽつりとつぶやく。
「つめたく……ない……」
言ってから気付く。声が出る……!悪夢のような痛みがじんわりした熱と開放感と共に、攫われるように消えていく。
雛衣は頭を僅かに浮かせた。背中の痛みが消えている。足も手も全然冷たくない。
極めつけに驚いたのは、確かに水に沈んでいたはずの身体が全然濡れていない事だった。
「は……あれ……?」
「大丈夫か」
再びさしのべられた右手。雛衣はその黒い手袋をたどって彼の顔を見上げた。
戦闘機パイロットがするような、フルヘルメットにガスマスクを搭載した装備をつけた男が、そこには立っていた。
薄青く反射するヘルメットのシールドに、円形のベンチのような石に倒れたまま彼を見上げる雛衣自身が映っている。
雛衣は彼を見て、多分警察の特殊部隊の人が来たんだと思った。ガスマスクに丈の長い黒コートを着て、肘まで長さのある黒の革手袋を纏っている肌ひとつ分からない装備。
その姿を見れば誰でもすぐに、重厚な装備をまとった専門家だと分かるだろう。
黒いコートの彼はガスマスクで少し籠ったような声のまま聞いた。
「立てるか」
「え…………」
雛衣はそう言われて初めて周りを見渡した。そして漸く気づく。
すぐ側の砕けて壊れて水を噴いている噴水、真っ暗闇に包まれた中央校舎の吹き抜け。雛衣は周りを見渡し、あの光景が現実だったことを思い出して反射的に頭を抱えた。
「う…………!」
「どうした」
身体はうそみたいに元気なのが逆に不気味だった。精神に深くついた傷が、肉体にもう一度あの瞬間を体験させようとしている気さえする。
あの、心ごと砕けそうになるたくさんの悲鳴。恐慌状態に陥った烏合の衆。首の外れた少年。変貌した友達。刺される人を助けようとした瞬間、電車に轢き殺されたかのように全てを持っていかれた凄まじい力。
雛衣は、現実におののきながら尋ねる。
「ああっ……ああぁ……! 夢じゃないの……? みんなは? お祭りは……?」
「………………今、夕方の17時2分だ。ほとんどの人間は避難している。」
「夕方……!? うそでしょ? なんでこんなに暗いの?!」
彼は手首に着けているらしいリング状の端末を見せてくれた。確かに衛星のマークの隣に《17:02》とある。
だがそれはおかしいのだ。校舎が暗すぎる。
まるで真夜中のように真っ暗だ。天井どころか、割れた噴水の全容さえよく見えない。
噴水広場のある1階は、A棟もB棟も同じ階が全部駐輪場になっているため、三方がガラス製の玄関扉になっているので室内からでも外の光が入るはずなのだ。仮に天井のライトが全部消えていたとしても、夕方の5時ならまだ日も沈んでないのにこの暗さはおかしい。
「安心しろ。足元を見るんだ。」
「足元って………?」
彼は1歩引いて床を指した。床には、青い明かり窓のような明るさの線が1本引いてある。ちょうど点字ブロックくらいの幅だろうか。床に空色の窓が空いているかのように、そこだけ薄青に輝いた道ができている。
「これを辿れば外に出られる。決して他の場所に足を踏み入れるな。まっすぐ進め」
「…………ねぇ、なんか変じゃない?」
彼の言っていることは分かるがやはりおかしい。雛衣が今座り込んでいるのは正門側で、この光る道が示す先は正門側の玄関だろうと言うことを察しつつ尋ねた。
「室内に…… 霧……?」
真夜中の非常灯ひとつついていない校舎の中に霧が発生している。絶対にありえない事だ。
いくらここが山の中腹にある学校でも、こんな先の分からないほどの濃霧が室内に入り込むわけが無い。
雛衣はコートの男に縋るようにしがみついて尋ねた。
「本当に外出られるの? 災害とかが起きんじゃないの?ねぇおしえて!」
「……全て説明している余裕はない。とにかくすぐに逃げろ、いいな」
彼は雛衣の手を握ってそっと外させると、そのまま背を向けた。彼が行ってしまう……!
「まって!」
雛衣は噴水から降りて手を伸ばそうとした。
明るい青い道を歩き背の高い彼の肩をつかもうとした時、雛衣の手は合皮のコートではなく空気を引っ掻いていた。
「え……消えた…………?!」
雛衣はたじろいて数歩下がった。周りを見回しても闇があるばかりで誰もいない。動く影すらも視認できない。雛衣は彼を探して一歩光る道から足を出した。
ビシャッ……と水気のある音がして身体に鳥肌が立つ。雛衣は恐る恐る足を光る道に戻した。真っ白だったはずの上靴が青い足元のライトに照らされる。上靴には不気味な黒く見えるしみが着いていた。
「なに……?」
青いライトで照らされると黒く見える染み、つまり赤い液体……雛衣は嫌な想像をして必死に首を振った。
「ああぁ、うそ! 嘘嘘! ちがうちがう!泥だ泥に決まってる……!!」
乾いている光る道を数歩下がってさっきまで倒れていた場所に座り込む。
そして腰が抜けたように座り込んだまま、雛衣は力を振り絞って叫んだ。
「ねぇ!待ってよ! 隊員さん!! どこなの! おいて行かないで!」
雛衣の叫び声は闇に吸い込まれていく。いつも聞こえるはずの教室の反響すら聞こえない。雛衣は泣きそうになりながら叫んだ。
「どこにいるの! 答えてよ──」
……ガァーーーン!!!
「ひっ……!」
突然上の方から何か大きなものが倒れて壊れる音がした。雛衣は哀れな小動物のようにびくついて声を殺した。
闇の怒りのような凄まじい音がなり止むと、あたりは雛衣を無視したまま、また黙り込んで静かになった。雛衣は怖くなって膝を抱えて俯いた。