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中央校舎:時計台バルコニー

 まだ1年生のころ、雛衣は入学式の満開をすぎた桜並木を見た時に思ったことがあった。

『どうにかして、この学校の満開の桜を一望できないもんかな』と。

 そしてもし敷地中の全ての桜を視野におさめる場所があるとしたら、それは中央校舎の時計台であろう。


 地上からだと遠すぎて分かりにくいが、雛衣の視力は捉えている。

 あの時計台のすぐ下には、時計盤を点検できるよう、四面をぐるりと回れるようにバルコニーがあるのである。何度かあそこに点検員と思しきひとが立ち入っているのを見た事がある。


 それに、バルコニーは何かしら意味のある彫刻が色々あるようで、冬になるとイルミネーションを彫刻に沿って巻き付けたりしているし、普通に人も出入りできるらしい。


 雛衣は、あそこに侵入するなら今日かなと企んでいた。今日は本来土日の学校休みの日で先生は比較的少ないし、4階からは人がほとんど上がってこない。


 バルコニーの柵は結構背が高く、人が立ち入っても黄色いヘルメットが点のように左右へ移動しているのを視認することが出来るくらいで、雛衣がこっそり立ち入ったとて、下から見られてバレることはあるまい。

 

 バルコニーへの梯子は、校舎の最上階である8階の体育館側のベランダの天井から、上部3段だけぶら下がっている。普通なら何も使わずそこに飛びつくのは到底不可能だが、雛衣は自分には出来る自信があった。


「はっはっはっ!あたしは壁蹴りが出来るんだよ谷口!」


 谷口というのは、1年生の時の担任の名前。新入生の頃、オリエンテーリングで校内を案内する時にこのベランダの話をしてくれた。雛衣が、このベランダの端っこにあるあの梯子は何?と聞くと、『生徒は侵入禁止だが時計台に上がれるぞ』と教えてくれた。そして付け足してこうも言った。


「ま、上がりたくてもハシゴがないと無理だけどな!あそこまで3mもあるからな!無理無理!」


と言って雛衣の今よりもさらにちっさかった頭をぼんぼん叩いた。

 谷口は言葉にこそ出さなかったが、いかにも小柄な雛衣には逆立ちしたって無理だぞい、とでも言いたげに、かわいいサイズの雛衣を見下ろして笑っていたのである。


 以来、負けず嫌いの雛衣はどうにかしてあのはしごにたどり着いてやろうと、誰も見ていない場所で修行に励んでいたのだった。

ハシゴの下がっている部分は、万一の落下防止なのか、角になる形で壁に囲まれている。

 このL字の壁に飛びかかり、壁を蹴る。そして勢いを殺さぬままもう1面の壁を足で突き放す、するとまた斜め上に身体が飛びつくので、そっちに足をかけ蹴り放す……を繰り返すことで、階段を駆け上がる容量で壁を駆け上がれるわけである。


「3時から噴水広場で新歓がはじまるから、その時には間に合いたいー……で! 出店シフトで貰った休憩が少し押して今2時45分。とゆー事は、時計台で過ごせる時間を逆算すると、壁蹴りチャンスは1回のみ……!」


 雛衣は朝から動きまくって冴えてきた頭脳で計算した。


「──まっ!メタボの谷口には何時間あっても無理だろうけどね!無理無……理ッ!!」


 雛衣は呼吸を整えてから一気に壁に蹴りかかった。踏み切った足から壁への第一足は、雛衣の身長の半分くらいの位置になった。上靴の靴底にスパイクみたいなザラザラした壁が深く刺さり込む気配。雛衣は半年間(本気でやり始めたのはここ1ヶ月)の修行の間で獲得した重心のぐらつきをおさげ髪の毛の揺らぎ具合から感じとる。


(ここ!……ここで背伸びするように重心を縦に!)


 雛衣は壁に斜めに飛びついた姿勢になって一瞬だけ完全に静止した。そしてそのまま余っていた足で浮くように軽く身体を引き剥がす。


(とぅ!)


 次の瞬間、雛衣は猫のように柔らかく対角の壁に貼り付いていた。コンクリートの滑らかな壁の、僅かな接ぎ目のでっぱりに指の腹をかける。


(からの……!)


ここからが大事である。

 床という土台無しで、垂直な壁に対して斜めに力を加えなくてはならない。

 雛衣の全体重が、一瞬だけ指先のみにかかるわけだ。

 ここに係る体重を重心移動で極小にしつつ、足を組み替える余裕を作る。横に飛びついている足を、つま先から縦に行くようにしなくてはならないからだ。


(てぇーい!)


雛衣の身体はぐるりと柔軟にねじれて、再び上靴の先を壁に刺させることに成功した。あとは体を鞭のようにしなやかに伸ばしながら、ハシゴの一番下に捕まるのみ!


──がし!


「…………やったー!」


 雛衣の小さな手は、しっかりと勝利の一段目を掴んでいた。両足はベランダを離れはるか1.5m下である。誰もいないベランダで、雛衣は見て見てとばかり勝利のバタ足をくり出した。


「いぇーい!」


 と言いながら、ぱっともう片方の手も追いつかせる。あとは懸垂の要領で全身を引き上げる。手だけでの梯子上りはキツイように見えるが、小学校の時の雲梯のような感じで次の梯子を掴めばいける。


「………よいしょっと」


 マンホール並みに重い天井の扉を押すと、それだけで時計の中の秒針の音が腕の骨にまで響いてくる。


「……………………」


 雛衣は耳を澄ました。ひょこっと顔を出す。

 雛衣の目線は空と同じ高さだった。

 時計台から見えるのは金色の春の雲と宇宙まで達しそうな青い空、そして藍色の影になった彫刻入りのバルコニーだけ。

 まるで時計だけが空に浮いて漂っているようにすら感じられた。雛衣は目の前の幻想的ですらある光景に見蕩れて身体を出す。

 春の風が雛衣の髪と額を優しく撫でた。日陰色の雛衣の瞳だけが、空を映したように鮮やかに輝いている。


「わぁ…………」


 雛衣は扉に腰掛けるようにバルコニーに座り、そっと両膝を扉口から抜いて閉めた。そのまま、バルコニーに座り込んだまま周りを見渡す。雛衣の背後から、重い歯車がゆっくりと廻る音がする。

 時計台の大時計が、巨大ないきものの心音のように穏やかに時を刻んでいる。よく耳を澄ますと、自転車のタイヤを回す音に似た軽いカラカラ音や重い本のページをめくるような平たい音が聞こえてくる。

 あとは何も聞こえない。うるさいほどの放送の音楽も下の雑踏も何もかも、この時計には届かないようだった。

雛衣はバルコニーをぺたぺたと這って、正門側へと進んだ。バルコニーの床の感触は冷たくてさらさらしている。想像よりずっと綺麗だった。


「ちょっと、寒いかも……」


両腕を抱いたまま立ち上がる。彫刻の柵の間から春風が吹き上がってきて、雛衣の膝の間を通り抜けながらスカートをふわりと舞いあげる。

 雛衣はそっと時計台の向こうを見下ろした。

 青空が、地平の果まで続いている。目がくらむほどにまばゆい蒼穹の果てまで見えそうな青空の下に、金色の羊雲がゆるゆると浮いて続いている。そして南宇治上区だけでなく、はるか向こうの跡部平野が一望できる程に、街がはてまで続いているのが見えた。


「すご……こんなに広いんだ……」


 雛衣はバルコニーで腕をくみそこに火照った頬を預けた。雛衣の両腕のように低い山が左右に僅かに広がっているだけで、あとは見渡す限り町のようだった。


雛衣の住む南宇治上区は県の果てで、ここは4つの都道府県の交差する場所だった。山脈の谷あいから平野に向かって降りていく坂の町『南宇治上区(みなみうじがみく)』。ここから右手に見える大きな川と緑の水路の『東松美区(ひがしまつのみく)』。

 西の端の方でモヤのようなスモッグを焚いている工業特区の『西鮮摩区(にしせんまく)』、そして広い平野に巨大な海港と空港を備えている交通の要であり商業大都市の北跡部区( きたあとべく)

 

都道府県がバラバラのこれら4つの町を、政令指定都市として特別にまとめたのがこの《四区》だ。


「全部見えたんだなぁー。知らなかった……」


校舎の桜よりもはるかな絶景を見て、雛衣はため息をつく。高いところが好きで色んな展望台に上がってみたものだったが、こんな穴場があるとは思わなかった。

 雛衣の真上では、月のように巨大な時計盤がゆっくりと動いている。重い重い分針が少しずつ身体を起こしていって、天上を指そうとしているところだった。


「あ、愛美だ」


 ふと正門側を見下ろすと、見慣れた可愛いリボンの子が、お祭りにやってくる中学生達にビラ配りをしているのか見えた。

 愛美は本当によく働く。雛衣とはまた違う意味で、絶対言われたことを守る子だった。

 おかげで内申も凄くいいし習い事も沢山やっててなんでも出来るし、しかもそれでいて謙虚で、勉強も運動も成績優秀なのを全然ひけらかさない。おまけに可愛くて男子から大人気。まさに完璧なお嬢様という感じだった。

 人からの注文を聞くしか能のない雛衣とは大違いなのである。

 雛衣はさっそく中学生の男子を上手く誘えている有能な友人を見てまるで自分の事のようにふふんとほくそ笑んだ。


「ふふふ♪さっすが愛美!さす(あい)


 友達の活躍をこっそり見下ろす愉悦。これは今後お気に入りの場所になりそうだなと雛衣がご機嫌で片足のつま先をとんとんやっていた時だった。



「───ここにいたか。」

「え?」


 人の声がして、雛衣は心臓が跳ねるほどびっくりして真左を見た。

 

 雛衣の左肘のすぐそばに、磨いた真っ黒の革靴が立っているのが見えてぎょっとする。

 革靴は、バルコニーの丸い石の柵の上に器用に立っているようで、雛衣は恐るおそるその革靴から締まった黒のスラックスらしきスーツの裾を辿って真上を見上げた。



「……あれ?」



誰もいない。

雛衣は、視界にはいりきらないほど巨大な時計盤を反り返りそうになりながら見上げるが、スーツの上半身らしい姿は影も形もない。びっくりして左右を見て、それから飛び降りたのかと下も見たが、はるか下に何も無い玄関のひさしがあるだけで、雑踏は相変わらず楽しそうに出入りしているし、探している靴はどこにもなかった。


「…………何今の……?足だけの幽霊?」


 にわかに身震いが走る。霊感は強い方じゃないとは思うが、変なものを見てしまった気分だ。


「……ん? てかちょっと待って!?」


 ハッとしてもう1回反り返って真下から時計を確認する。なんと、いつの間にか約束の3時まであと4分である。


「やば! 急いで戻らないと間に合わない!」


 雛衣は身を翻して元きたマンホール式の鉄扉にもどる。

 

 そして扉下3m半はある高さを一息に飛び降りて着地した。それから急いでエレベータホールの隣の防火扉を開き非常階段を駆けおりる。

 誰も見ていないので、手すりはどんどん飛び越して飛び降りた。

 ほとんど自由落下みたいな勢いで1階にたどり着きこっそり防火扉を開けて中を確認する。1階の噴水広場前は大混雑だった。生徒も中学生も保護者も近隣住民も入り乱れて大変な人だかりである。


「うわ……! みんなもういるかな……!」


愛美がビラ配りをしていたのは新歓のためのはずだ。だとしたら中学生の何人かを連れてこの近くにいるはずである。

 広場の特設ステージは誰が上がっているのかさえも分からず、噴水のいちばん高いところにある水汲みをしている少年少女の銅像がみんなの頭上から僅かに見えるだけだ。


「ちょッ……とすいません……!」


 雛衣は人だかりの中を泳ぐように歩く。見えるのはみんなの肘らへんばっかりで、花火大会に来た子供みたいに肩身が狭い。

 一生懸命背伸びしたりしてどうにか知り合いを探す。こんな人だかりじゃみんなで集まって見るなんて場合じゃない。


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