第1話 記憶は突然蘇る。
そう、それは高い木から落ちる瞬間だった。
落ちているという認識に胸の奥がヒュッと冷えるような感覚と、一瞬で走馬灯のように流れ込んでくる数々の体験した覚えのない記憶が入り混じる恐怖。
それらのお陰で落ちた瞬間の痛みや衝撃は覚えていなかった。
後味に残るような『誰か』を呼ぶ叫び声に意識は途切れる。
次に目を覚ました時は、ベッドの上だった。
ぱちっと目を開くとそこには今現在の両親であろう、泣きはらした顔がすぐ近くにあったので思わずカッと目を見開いてしまった。
「目が覚めたのね!エステル」
見開いた私にたじろぐことなく母が私の力ない手を取り、そっと包み込むように頬に寄せた。
「エステル、よかった…。君は10日も眠り込んでいたんだよ。」
目から滝のように流れる涙に、自分の重傷さを知る。
「ここは…なんで、私……」
「ああ、まだ喋らなくていい。目が覚めただけで私たちは神に感謝をしなくてはならない……」
父が母の肩にそっと手を置くと、母は安堵に緊張が解けたのだろう、父に寄り添って啜り泣いた。
な、何?…私死にかけたのかな?
ボンヤリする意識と激しい後頭部の痛みに顔を歪める。
「ああ、まだ動いてはいけません」
母がそっと私を気遣う様に再び手を握られた。
まだボンヤリする意識の微睡みの中で、ジワジワと自分の中で記憶を反芻する様に、私は目を閉じた。
昨日の走馬灯の記憶とは別に、誕生からすくすくと大事に育った6年間の記憶も蘇る。
ちょっと頭の中を色々整理してみよう。
『私』は……エステル・カーライト。
そんな名前だった、確か。
カーライト伯爵家の3人兄妹の長女としてこの世界に産まれた。
伯爵といっても両親はまだ若く、アクティブなお祖父様から領地を譲り受けて日も浅い、若輩家族である。
お祖父様は多分なんかわからないけど、王に仕えたとか立派な人だったんじゃないかとは思う。
父がそんなこと言ってた気がする。
6歳の自分はまた追い追い思い出すとして、気になっている昨日の走馬灯から分別。
どうも昨日の走馬灯は過去の私としての記憶なんだと思う。
過去の私としての記憶は、別の世界で生きていた黒髪の女性だったということしか思い出せず、必死で記憶を探るが、歳や名前など全く思い出せない。
でもある程度は成人していたか、成人に近い歳だったのではないかと思う。
だって今の私は、6歳にしてはひどく冷静で落ち着きすぎている。
というか何故か色々受け入れている自分が怖い。
前世の自分が何事にも動じず受け入れがちな、諦め体質な性格だったんだろうか。
なんで死んだかもわからないのに、あー生まれ変わっちゃったかーぐらいにしか感じてない今の状況もちょっと嫌だ。
どうやって生きていたかわからないけど、でも確かにそこに生きて生活していたんだという、ボンヤリとした自分視点のドキュメント映画を見ている気分だったせいかもだけど、それが私だという自覚はハッキリと分かった。
というか動揺も少ないのはもしかして、過去の自分が誰だかわからないので『過去の自分にとりつかれる事なく、ただの遠い世界の知識』として認識しているからかも知れない。
そもそもなんで私木から落ちたんだっけ……?
その前後の記憶を必死に脳みそフォルダーから探しまくる。
あの時。
そうだ、あの時。
その日は、王様に呼ばれてお祖父様とお父様と王都に出かけていた。
お祖父様とお父様はお仕事の話があるとかで、私は2つ下の妹リリアと2人でお庭で王妃と2人の王子と昼食をいただいていた。
昼食が終わり、お庭で本が読める木陰を探していたら、リリアが木の上で猫の声がすると言って。
急いで見に行くと降りられなくなったのか、黒と白の猫が小さく鳴いていた。
誰か大人を呼びに行こうと思ったけど、震えて弱々しい声にもう落ちるまでの時間が一刻もない事に気がついて、登って助けることにした。
木には登った事はなかった。
でも登らなければ助けられないと、怖さより使命感で木に足を掛ける。
「お姉様危ないよう」
お母様に似た深いエメラルドグリーンの瞳に、涙をいっぱいためて私のスカートを掴む。
「リリー、私は大丈夫よ。だけどお父様かお祖父様を呼んできて。確かもうすぐお迎えにきてくれると言っていたわ。猫が落ちてもいい様に木の下に敷く、フカフカしたものも一緒に持ってきて」
リリアをなだめ、頭を撫でる。
リリアはコクンと大きく頷くと、ポロポロと涙をこぼしながらお屋敷の方へ走って行く。
リリアを見送った私は大きく息を吐くと、意を決して再び足を木に掛けた。
後はもうよく思い出せない。
あれ?リリアと2人だったっけ?
猫に手が届きそうな位に誰かに危ないって言われて、振り向いた気もする。
うーん、どうだったっけ…。
落ちる瞬間にお父様が私の名前を叫んだのは、うっすら覚えている。
そういえば猫はどうなったんだろうか?
私が落ちたという事は、猫は助けられなかったのだろうか?
ある程度頭が整理できたところで私は再び意識が途切れた。
次に目が覚めた時は次の日の朝だった。
目を覚ますと、侍女のエルがカーテンを開けていた。
「エステルお嬢様、お目覚めですか?」
慌てて私に駆け寄る。
「エル、起きました。おはようございます。」
まだ少し頭はズキズキするが、起き上がれないほどではなさそうだ。
頭を気にしながら上半身を起こす。
エルが起きる手助けに背中を支えてくれた。
「ご無理はなさらないでくださいね…。私、本当に心配しました……」
エルの目に涙が溜まっていく。
「もう大丈夫です。心配してくれてありがとう……」
家族にもエルにも心配かけてしまった事に、心が痛む。
エルは私に笑顔を向けて、エプロンで涙を拭きながらカーテンを開ける作業に戻った。
背もたれにクッションを挟んでもらい、窓を見つめる。
空はとても気持ちよく晴れていたので、気分も少し回復した。
「昨日は大旦那様もお嬢様のことを気にかけてらっしゃって、いらしてたのですよ」
お祖父様もいたのか。
両親しか見えてなかったので、全く気がつかなかった。
「今日はいないの?」
「お嬢様の意識が戻って安心された様で、王都のお仕事に戻られてしまいました」
相変わらずの超アクティブ。
「もういなくなったのね……。」
フゥーと大きく息を吐くと、エルが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「お忙しい方ですが、ずっと寝ずにお嬢様のお側にいらしてたんですよ……」
エルが私の頭を揺らさない様にそっと添える。
その温かさに私は微笑んだ。
「またすぐいらっしゃるわよね」
「ええ、きっとすぐに」
エルも私に微笑んだ。
私が歩けるぐらいに復活するまでそれから3日かかった。
頭を強く打ってるせいで頭痛が治らず動けなかったせい。
もう木には死んでも登らない。
何が辛いって、本が読めなかった事。
唯一の楽しみを奪われた気がして一番辛かった。
私がどれだけ大丈夫だと言っても、誰1人聞き入れてもらえなかったからだ。
ベッドの上はひたすら暇で暇で。
時々リリアがお見舞いにかわいい歌を歌いにきてくれたり、3つ上の兄が今日の出来事を私に話して聞かせてくれるぐらいしか楽しくなかった。
あ、そうそう。
猫は無事だった。
私が抱えて落ちたので、バッチリ無傷!
残念ながらうちでは飼う事が出来ないので、お父様の知り合いの方に貰われていく予定。
無事が確認できて、心底ホッとした。
だって下敷きになってたらどうしようとかずっと不安だったから。
本当よかった。
あれからそれ以上のことを思い出すこともなく、と言うかそんな記憶があることすら忘れ、毎日私は暖かい家族と優しい使用人に囲まれて、幸せにのほほんと過ごしていた。
そんな日々が2週間ほど過ぎた頃、何故か名指しで再び王都に呼び出されたのだった。